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ブラジルという名の由来 ホント??!!  河野賢二さんの新説
ブラジルの国の名前は、PAU BRASILという茜色の染料を取る木から命名されたというのはブラジルに住む者の常識?と言える事実ですが、どうしてこの木造船のマストになり赤い染料を取る木がブラジルの木と呼ばれたかその語源まで遡って研究し遠く海を隔てた天草の隠れバテレンが『ブラ汁』の語言と関係するというと頃まで辿り着き、自分にもちじれ毛のポルトガル人の血が混じっているのではないかとそのルーツを探る研究家は、ブラジリアに住みブラジルの国を動かす政治家、行政官を相手取っての日伯政治経済交流を促進するコンサルタントとして活躍されている河野賢二さんです。BATEPAPOのMLを通じて披露された新説をその交信を通じて紹介させて頂きます。
写真は、数年前、香港テクノセンターのブラジル版の導入可能性に付いて意見交換をするためにサンパウロの河野さんの事務所を訪ねた時に秘書の方に撮って貰ったツウショットです。


河野さんからのお便り
ブラジルは1500年発見時には大型の島と思われ、イーリャ・デ・ヴェラ・クルース(ポルトガル船団のアルバレス船長が乗っていた船の船名)と名づけられました。それから30年、ポルトガルはこれは島ではなく、とんでもない大陸だと気づきテーラ・デ・サンタ・クルースと言う名に改名。
当時ポルトガルはすでに世界一の造船国でしたがさらに遠距離航行用の船舶技術を追求しておりその為には30メートル以上の継ぎ目のない木材を必要としていてその大木をこのサンタ・クルース大陸、現在のマッタ・アトランチカで発見、パウ・ダ・ブラーザ(燃える木)と呼ばれました。
パウ・ダ・ブラーザをポルトガルは船舶用継ぎ目なしマストに使用し、真っ赤な血の滴るような液は樽に詰めてヨーロッパさらにはインド、とくに日本へ輸出しました。この液体の商品名はCALDO DA BRASA(火の汁)と呼ばれていたそうです。
一方日本は戦国信長時代、平戸、長崎、天草に陣を張ったポルトガルは当時の肥前、肥後の大名たちに女性の着物の染物としてこの火の汁を大量に売り込んだと聞きます、なんと初のメイド・イン・ブラジルですぞ。
当時の日本人はどこからともなく現れる異人が持ってくる火の汁(ブラーザの汁)を、いつの間にかブラ汁と呼ぶようになりポルトガル人までもが今回はブラ汁5トン、10トンと、商品名が”ぶらじる”となって結局ポルトガルは1587年テーラ・デ・サンタ・クルースをブラジルに改名したという。
ちなみに当時国旗をもっていなかった日本人はポルトガル船出航時に白い布の上においてあったぶら汁の樽から漏った赤まる跡がついた布を振って見送ったと言う説もあるかどうかは皆さんのご想像にお任せ。


河野さんへのお便り
ブラジルという名の由来、大変面白く勉強になりました。これは博学、勉強家の河野さんのお話故文献に基づいた真実の話と思いますがその文献、出所等を教えてもらえませんか。実は、このお話を『私たちの40年!!』にも紹介、掲載させて頂きたく思います。その時に来るであろう質問等に答える準備として知って置きたい次第です。
赤い染料が日本に届けられ日本人が『ブラ汁』国の命名者となったという新説は是非、流布したい事実ですね。日本の国旗の源泉になったという説も斬新です。勉強家の河野新説をこれからも聞かせて下さい。
朝から清々しい気持ちで仕事に向かえます。有難う。


赤嶺さんから河野さんへのお便り
河野さん、1587年にブラジルという国名が晴れてお披露目になった時の由来が赤い染料の元(素)が取れるパウブラジルという木にあったことは、よく知っていましたが、まさかその頃、地球の反対側の我らの祖国で「赤いブラ汁を10トンくれないか」とか何とか、あるいは、「日の丸のあの赤色にもブラ汁が使われていた」などに至っては、露ほども存じ上げていませんでした。しかし、いかにも貴兄らしい薀蓄(うんちく)の傾け方の見事さには、大いに眉に唾の思いを抱きながらも、抱腹絶頂を禁じ得ませんでした。


河野さんから赤嶺さんへのご返事
ぶら汁の件は歴史学上実証されておりません。でも1587年以前はブラジルという言葉はどこにも記されていない模様です。またポルトガル語でBrasa−ブラーザはありますがBrasilーブラジルの意味はなにもないそうです。誰かがどこかでつけたのでしょうね。昨日のメールはユーモアのつもりで書きました・・・・ごめんなさい。


河野さんからのお便り
さてブラ汁の由来は残念ながら事実を実証する証拠はございません。
たまたま私の母の故郷が熊本県玉名郡長洲町六栄村の大野下と言う有明海を挟んで長崎の反対側にありまして、馬刺しで有名なこの村は天草に近くたぶん多くのポルトガル人がすんでいたと思われます。したがい言葉もこの付近では金平糖(Confeito)から板コウ(長いす、Banco)まで、どうも日本語かポル語か分からないような言葉が自然に使われている地帯です。ブラ汁はその村の宴会で聞いた話です。
かくれキリシタンが多かった山岳地帯ですのでバテレン弾圧も少なくなかったのか結構住民が団結した村です。戦後の高度成長期でもだれも土地を売らず従い周りは工業地帯と化しましたが六栄村は現在でも日本でも最も遅れている土地と言われています、しかし近年になって政府よりEcologicamente Corretaの持続性可能な環境村として環境賞を受賞しました、時代が変わると人間の見方が変わるのです。面白いことにこの村で生まれる赤ん坊はそのほとんどがちりちり毛で生まれることです、私も子供のころはちりちりでした、多分ポルトーゲースの血が混じっているのかも・・・
私もブラ汁の由来については関心多くブラジリア総合大学歴史の教授及び山口県山口市のザビエル協会のぱあでれにお願いして調査していただいていますがいまのところ実証はされておりません。

この欄への『ブラ汁』掲載後に受け取った河野さんからのお便り。
ブラ汁のホームページ見せて頂ました、一人歩きするとヤバイなと思いましたが、やり取りのメールを載せていただいているので問題は起きないでしょう。でもなるべく早く実証できるよう今度はリスボンかマカオの図書館にでも出かけてチェックしようと思います。




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