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『回り道をした男たち』三重大学農学部南米三翠同窓会史 徳力啓三さん寄贈 【中編】
日本学生海外移住連盟のメンバー校の一つ三重大学出身者で形成する三翠会の同窓会史が発行された。『回り道をした男たち』の一人徳力啓三さん書かれた【ブラジルに描く夢】だけでも全文ご紹介したいと思いますが、全文で23千語に登り、使用ソフトの関係上一挙に掲載出来ず3回に分割せざるを得ませんでした。
勤務していたブラジルヤンマーのマットグロッソ州での牧場経営、マラニオン州での木炭を使用する製鉄所の経営と仕事の上では、小学校の頃からの夢、ブラジルアマゾンへの挑戦に2度も大プロジェクトを引っさげて実地に取組む事が出来た男冥利に尽きるブラジル人生羨ましい限りです。アマゾンを断念しえからの現在の家族を中心とした会社経営と現状は、後編をご覧ください。また移住100周年記念事業として今後追及して行きたいと熱ぽく語る【夢ベテランの里】建設計画とまだまだ遣りたい仕事を残しておられます。彼の本拠地、事務所を訪問した時に取らせて頂いた笑顔が素敵な徳力さんです。


7.マルグザ時代、マラニォン州でのアマゾン開拓
1988年は銑鉄生産のための基礎研究で一年が過ぎた。計画では世界一のカラジャス大鉄鉱山の高純度の鉄鉱石をリオ・ドーセ社より購入し、カラジャス鉄道沿線のマラニォン州ロザリオ市でおろしてもらい、そこに銑鉄工場を作ることになった。銑鉄をつくるには、当ブラジルでは木炭を熱源として使う。それに必要になる木炭を自前で生産することになり、計画に組み入れることになった。
1989年には現地調査のために幾度もパラ州やマラニォン州に出かけた。
工場用地はカラジャス鉄道と国道に挟まれたロザリオ市町外れの一角に決まった。木炭生産用の農場の買収もこのころより始め、ロザリオ市より 340KM離れたパライバ州に近いところに最初の土地を購入した。
このたびの大プロジェクトも、ブラジル・ヤンマー社を挙げての重大なる将来計画の一環であった。が、1500人もいる職員の中で進んで東北伯で一番遅れているといわれるマラニォン州に働きに行きたいと申し出る人はいなかった。結局、ヤンマー工場側からは銑鉄工場建築の責任者が一人と、この企画を担当した私が、マラニォン州での一大事業の大将として派遣されることになった。
総額2500万ドルにおよぶ大計画であるにもかかわらず、よくもたったの二人だけの派遣で済ませたものと思う。それでも約一年の後、見事銑鉄工場は出来上がり、木炭を作る農場も準備出来た。
長々と書いてきたが、これが私のアマゾン開拓第2弾となった。
夢は見つづけるものである。
きっとそれをどこかで見つめてくれている人が居るものである。
ピラグァスー時代に仕事の完成を見ず、不満足のまま農場を去った。同じ人生の中で、更なる機会をこのような形で与えられるとは、さすがに思ってもいなかった。が、現実にはピラグァスー農牧の10倍の規模で、アマゾンの一角であるマラニォン州を舞台に、アマゾンの木材とアマゾンの鉄鉱石を使って、出来上がった銑鉄を世界中に輸出しようというのである。これぞ男の夢、必死にならぬほうがどうかしている。自分で作った計画を自分の手で拵えあげる。ワクワクしないほうがどうかしているというものだ。
本当に必死であった。あの南緯二度、赤道直下の暑いところで、単身赴任、朝早くから夜遅くまで働いた。土曜日は勿論日曜日まで、農場と工場を悪路をものともせずに、走り回った。休みなく働きとおした。本当に男の仕事であった。
現場で指揮を取ったのは丸3年に満たなかったが、その間に買い上げた土地は110余件の地権で、75000ヘクタールに及んだ。農場間を結ぶ幹線道路は、セラード林を開き、木炭運搬用の大型トラックが行き来できる複線道路を250KMも開設した。幹線道路沿いには2KM間隔で炭焼き場をつくり、そこには直径5.50メートルの兜形のレンガ製の炭釜を24個を一単位として設置した。一単位で月産100トンの木炭をつくる計算で、これを60単位並べた。この上を軽飛行機で飛ぶと、点々と並ぶ炭焼き場から煙が立ち昇り、遥か地平線まで煙がなびき、今もありありとその光景を思い出すことができる。
切り倒した樹木の代わりに、農場は幼木を新植する義務を負っていた。セラード林にある木炭用に適した樹木から種子を採集し、苗をつくらせた。年間200万本の苗を自家生産し、伐木したところに新植していった。義務とはいえ、壮大な植林計画も併せ持つ貧しい東北伯救済の一手段であったからこそ、あの怖いIBAMA(ブラジル自然保護院)も快くこの計画に認可を与えてくれたのだと思う.
何しろ毎月500ヘクタールに及ぶセラード林を伐採、丸裸にしてゆく。年間6000ヘクタールも切るのだからそのままではまったくの自然破壊と言われてもしょうがない。喜んだのは地元の人たち、何の産業もないところに、忽然と木炭産業が現出、日銭が稼げる仕事があるといって、近隣の住人が集まってきた。中には自分の土地を売った人達も居て、本当に活気に満ちていた。
1991年中頃、予定より少し遅れて銑鉄工場は運転に入った。木炭の供給も順調に進んだ。
計画では1トンの銑鉄が120ドルで売れれば、投下資本の回収は比較的短期間で行われるはずであったが、この頃銑鉄価格は最悪の状態で90ドルを割り込み、利益どころか、コスト割れ寸前の苦しい経営状態となった。
1992年4月、サンパウロのブラジル・ヤンマー社の社長交代が30年ぶりに起こった。農業機械の売れ行きが悪くなり、8月には現地採用の日本人一世職員は殆ど全員、退職に追い込まれた。遠く離れたマラニォンにいた私にも勧告があり、そのメンバーの中に入った。
こうして26年に及ぶヤンマー社でのサラリーマン生活に終止符が打たれ、サンパウロの家族のもとに帰ってこられた。
今、思い起こせば、これも又、めぐり合わせ、あのまま単身で働きつづけていたら、病を得ていたに違いない。
思えば親父の忠告で腰掛の積りで始めたヤンマー社での仕事がこんなにも長く続くとは思わなかった。しかし、振り返って見ると実に壮大なサラリーマン生活であった。2度にわたり、アマゾンの開拓に携わることができ、その面積たるや15万ヘクタール。これ程の面積を自分で計画を作り、それに合わせて開拓できたこの幸運をしみじみ感じる。
これもひとえに親父の庇護かとも思う。或いは次男健介が親父の代わりになり代わって、自分の体を痛めてまでも、私の無謀を諌めてくれてからではないかと思う。生まれつきの弱視、その上に、16才の時に、世にも稀なる神経腫瘍を発症、私が勇躍、マラニォンに出かけた1989年には、脳内腫瘍を取り除くための大手術を日本で受けた。看病に行っていた女房も6カ月に及ぶ入院生活に疲れ、幾度も医者の診断を受けたと言う。大学二年生になっていたが、手術のために体の一部に麻痺が残り、帰伯してから、大学を中退した。
世のためとは言いながら、自分は何もせず、全て女房任せで、病気の治療にあたらせていた。退職と同時に、今度こそ本当に家族と共に、一緒に出来る仕事をしようと心定めていた。
家族も無事、女房と子供4人、一人も欠けることなく、大アマゾン開拓の夢はこうして幕切れた。

8.独立・ラ・カンターレ社設立
こうしてブラジル移住人生は一段落を迎えた。25才の時着伯と同時にヤンマー社で働き始め、ヤンマー社を辞めた時は51才になっていた。
これを契機に、残りの人生なにをなすべきやと模索した。 
ピラグァスー牧場より帰聖した1980年より勉強を始めた最高道徳−モラロジーをマルグザ銑鉄工場勤務中も続けていたが、今ひとつ物足りなさを感じるようになり、足が遠のき始めていた。
1990年頃、トッパン・プレス社社長の奥山啓次氏の薦めで、幸福の科学の書籍を読み始めていた。現実の社会において大きな夢を達成した今、なにを求むるべきやとしきりに考えた。そこに出合ったのが世にも稀なる仏との出会いであったと思う。悟りたる人、永遠の生命をもつとされる私どもの魂の親、この世の目的をいかにもあっさりと「魂の修行」の場と諭されている方、本当にどえらい方とのめぐり合わせが、丁度このとき、私の人生の重大な転換点で起きた。
三重農大に実業高校からストレート入学出来たのは、あの夏の暑い最中、夏休み40日間、毎日16時間独学したことだと今も自負しているが、この人生最大の折り返し点で、退職後の80日間、毎日毎日、悟りたるお方の「偉大なる書」を読み続けた。その前後もあわせると、その頃発刊済みになっていた著書全部150余冊に目を通した。
新しい移住人生の後半はこうして始まった。
この教えに出会えたのも、或いは親父の導きかもしれない。
もっともっと、大きな大きな視野に立った生き方がそこにあった。 
仏の子として、自分に、そして家族に、社会に、ひいては世界の人々のために、なにをなすべきやと新しい夢を逞しく描いている自分がそこにあった。
アマゾン開拓の夢は年を経るに従い、おっくうになる。
なぜならば開拓には、どうしても若い肉体がいる。年をとると、心で楽しめる開拓が良いことに気がついた。
無限に続く幸せのために、大きな会社から離れ、一人で、コツコツと世の中の片隅にあって、世の為、人の為、働こうと決心した。
選んだ仕事は、この地球の浄化につながる有機農業。農薬と化学肥料を二大武器とする近代農業では、次世代に綺麗な地球は残せない。現に今生きている人々の健康を害してはいまいか、これからの農業は環境をいためず、永続性のある維持型農業でなくてはならないと考えた。
農大を出ながら、自分で農産物を作ったことがない。農業関係の仕事をしながらも、いつも管理の方に廻ってしまい、ものを作る事を知らない。
ものを上手に作ることを知っている生産者達の一番困っている問題は、どうしたら自分達の作ったものをうまく売りさばけるかであるが、物を作れても売ることの下手な人が一杯いることに気がついた。
もう一つ、私ら移住者の特技は日本語とポルトガル語を理解することが出来、尚且つ日本人とブラジル人の考え方の相違が分かることにある。この二つを組み合わせて出来る仕事は、日本とブラジルを結ぶ貿易、小さな輸出入が出来ぬものかと考えた。
ブラジルに移住して、牧場主になって牛を扱った。それは実現した。ブラジルの農産物で日本向けに輸出のきくものはコーヒー、ミカンのジュース、大豆と大豆油、それに砂糖位のものである。コーヒー以外は大型産業で個人ではなかなか手を出しにくい。コーヒーはブラジルの一大産業であり、これを扱おうと決めた。
不思議なことに[悟りたる人]の本を読み終えぬうちに声が掛かった。日系コロニアの有機農法の第一人者、続木善夫氏のアグロテクニカ社にコーヒー部を新設するので、それを担当してみないかとのお誘いであった。1992年年末、心機一転、有機コーヒーの勉強を始めることになった。こうして移住人生の後半戦が始まった。
1993年5月、ラ・カンターレ社を設立した。
1994年には自宅の裏に事務所を建てた。
次男健介の面倒を見ながら、仕事をすることになった。
健介も、気分のいい時は、自分でコーヒーの焙煎をし、袋詰めした。

あれより9年、紆余曲折があったが、少しづつ基盤が固まり、自分独自の日本向け有機コーヒーの輸出の仕事を続けている。
1996年、松尾明義先輩の製造されるプロポリスの販売を業務に加え、1999年からはアガリクス・エキスの販売も始めた。ブラジルでのアガリクス露地栽培の先駆者・塩澤兄弟よりアガリクス乾燥品を供給してもらい、松尾先輩にエキス加工してもらっている。地の利、人の利を得たブラジル特産の本物である。
2001年11月、還暦を迎えた。
娘のジュリアと末っ子のアンドレがラ・カンターレ社の仕事に参加し、小さいながらも、日本とブラジルを繋ぐ独特の自分達の仕事を形作っている。
           
8. 第3の人生の出発;1992年09月〜11月 幸福の科学との出会い/仏の言葉
私の第2の人生は、ブラジルに持ち込んだ夢の追求であったと思う。
アマゾン開拓を夢見て、青春を燃焼させた25年は、沢山の思い出に満ちている。

1992年7月、幸福の科学の書籍を20余冊読んだ時点で、私は幸福の科学の「三帰誓願」を受けた。私の仏の子としての人生の出発である。
この世においての夢は、あくまでも物理的な事象で、アマゾンを開拓し、そこに何らかの形あるものを残そうと言う魂胆であった。が、それもむなしい現実の前に潰え去り、私も家族も会社も、それを助けてくれた人々をも、真に幸せにすることは出来なかった。残ったものは、ただ一つ、私の脳裏に焼きついたアマゾン開拓の思い出だけと言える。
今後の人生は同じことの繰り返しであってはいけないと気づき、これからの生きがいは死ぬ日まで続くもっと大きな夢であるべきだと思った。現上の仏陀が教えておられるように、たとえ明日死すとも、この世に生まれ出でたことの感謝と素晴らしい人生を送れた有り難さを肝に銘じる生き方でありたい。私のような凡人が悟りを得たいなどと坊主くさいことは云わないが、この世に生きている限り持ちつづける目標を「己の魂の修行」と今生かされている「この世の中に対する少しのお礼」におこうと決めた。ブラジルでの夢が、丁度この時期、このような形で私の人生を方向転換させた。
 
道徳科学モラロジーではどうしても解き得なっかた人生の幸福が、幸福の科学では、いとも簡単にこの世とあの世を結ぶ延長線上にあることを教えている。この世だけの幸せを求めると、肉眼で見える物質世界にとらわれ、この世の繁栄のみを求めてしまう。あの世の幸せを求めようとすると、そこには善の世界があらわれ、己一人の幸せのちっぽけさが見えてくる。この世とあの世を貫く幸福とは、善を行う中に周りの人をも幸せにする淡々とした生き方であるべきだと信じるようになった。これも今はなき親父の導きかもしれない。或いは、次男健介がわが身を持って、障害者の姿に化けて、日々に私の指導をしてくれているのではないかと思う。
仏の立場で物事を見る、大きな眼を持った自分になってこそ、そこに新しい生き方があるはずである。仏の子として、自分に、そして家族に、社会に、ひいては世界の人々のために、なにが出来るかを考えた。たとえ肉体がなくなっても、心が生きている限り続いてゆく仕事をしてみたい。あの世にまで続く幸せのために、世の片隅にあって、仏の喜ばれる世の為、人の為になるような仕事をしようと決心した。
幸福の科学の経典「正心法語」に「この愛の星、地球をお護りください」と云う一節がある。今の言葉で言えば、痛み続けているこの地球環境を少しでも護る仕事こそ、これからの私の進むべき道ではないかと思った。地球の浄化につながる有機農業を少しでもすすめ、次世代の人々にきれいな地球を残すこと。これならば、私が死ぬまで決して実現することのない遠大な目標に思えた。
しかしこの目標では、余りにも大きすぎて、具体性が乏しい。当初の目的としては、有機無農薬栽培によるコーヒーつくりに苦労している栽培者と一緒になって、その生産物を日本市場に紹介、販売することにより、他の人とは違った仕事をしようと思った。有機農産物の生産面では、環境の保全や次世代に健全なる農業の確立があるが、他の一面では、より健全な食品を大都会に住む消費者に届け、より健康的な食生活をしてもらう大きな役割を持っている。
この後、自分が独立して有機コーヒーの国内卸し販売を始めたのをきっかけに、ブラジル特産の健康食品も扱うようになり、人々の健康を助ける仕事も付け加えることになった。これもきっと仏が喜んでくださる一つの仕事であるはずだと、考えた。
ブラジル国籍を持つ自分が、日本とは反対側のブラジルで産する特殊産品を、資源のないお金持ち大国、日本の方々に届け、健康になって喜んでもらえるのは、誰をも害さず、過当な競争をせず、喜びだけが増幅する働きになると考えた。
個人的に見れば、私ら移住者の持つ能力―日本語とポルトガル語を理解出来、日本人とブラジル人の考え方の相違が解かる―を最高に発揮出来、この不安定なブラジル経済に頼らず、ブラジルに外貨を持ってくる仕事は、私らのようにこの国に長く住んでいるものには打ってつけではないかと考えた。このようにして、幸福の科学との出会いが、貴重な人生の充電期間となり、私の第3の人生の基本的な考えとなり、次なる仕事への出発となった。





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