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『回り道をした男たち』三重大学農学部南米三翠同窓会史 徳力啓三さん寄贈 【後編】
日本学生海外移住連盟のメンバー校の一つ三重大学出身者で形成する三翠会の同窓会史が発行された。『回り道をした男たち』の一人徳力啓三さんより貴重な同窓史を送って頂きましたがその後南米三翠同窓会の事務局よりも送って頂きました。徳力さんが寄稿されている【ブラジルに描く夢】の後編を掲載させて頂きます。
過日サンパウロの徳力さんのラ カンターレ社本社事務所を訪ね徳力さんのお城を見させて頂きましたが、家族力を合わせて同じ夢を追う姿勢に感銘しました。脳内腫瘍の摘出と言う大手術を受けた次男の健介君を軸に長女のまゆみさん(最近結婚された)三男の耕介君を販売の主力に据え、将来の布石を敷いておられ万全を期しておられる。ブラジルに夢を託しアマゾンの開拓、アマゾンの土になりたいとの初期の夢を南米の心臓とも言われるサンパウロの大都会で家族企業を皆で盛り立てて行こうとの夢に切替えたことを悔やまないと言い切る徳力さんの笑顔は、家族全員の信頼を集めた得意満面の爽やかさを感じさせる気持の良い笑顔でした。
写真は、徳力さん、奥様の洋子さん、まゆみさん、健介さんのご家族です。


9.アグロテクニカ社への再就職
 1992年12月〜1994年8月 有機農業との出会い / 有機コーヒーとは。

ヤンマー退職後、3カ月を経ずして、アグロテクニカ社社長、続木善夫氏より、同社にコーヒー部門を開設したいので、「やってみないか」との声が掛かった。同氏とはヤンマー時代からの知り合いで、日系コロニアでは有機農法の権威者として知られた方である。手広く農業資材の販売をされている一方、無農薬野菜の宅配事業を行なっていた。
コーヒー部門の設立とはいえ、同社では、1992年中ごろ、日本より無農薬コーヒーの引き合いを受け、同年9月、ブラジルで初めての、無農薬コーヒーの日本向け輸出契約を取り、コンテナで250俵を積み出したところであった。今後の販売拡大を見込んでのコーヒー部門設立であったが、入社早々には輸出の仕事とてなく、有機農業向けの農業資材の販売より始めねばならなかった。続木社長の独創の有機農法を学び、同社の有機資材の使い方を、たくさんの有機農家を訪ねることにより身につけていった。といっても、自分で栽培するわけではなく、あくまでも理論的で、資材を販売するための、精密な説明にしかすぎず、実践で鍛えた農家の方々を説得するには経験が不足していた。この年齢になって、ブラジル農業を一から勉強するより、農業者が作った汗の結晶を、より優位に且つ高値で販売してあげることこそ、永年販売部門で働いた自分の仕事ではないかと、農家を訪問しながら考えたことを思い出す。
入社して間もない1993年5月、アグロテクニカ社では社員の登録をやめ、個人的な会社登録をした人に、歩合制で給料を支払うAUTONOMO(販売代理人)制を導入された。私も会社を持つ必要性に迫られ、「ラ カンターレ輸出入代理販売店」を設立した。
私の住むサンパウロ市の北部には「カンタレーラ山脈」がある。このカンタレーラの一番後ろのラを一番先に置き、「ラ・カンターレ」とした。ブラジルには沢山のイタリア人が暮らしているが、この名前はピザを作るレストランの名前のようだといわれる。ラは冠詞、カンターレは歌うとか喜びの意味がある。が、私は「地球を作った神様―カンターレ」を自分の会社の名前にし、加護を願い、命名した。

コーヒー栽培者を訪ね歩いては、無農薬コーヒーの需要があることを伝え、サンパウロにはそれを認証する団体があることを伝えた。1989年に創立された有機農業協会(AAO)がそのころには活発に活動を始めており、ブラジルの有機農業の黎明期であった。有機農産物は主に野菜類中心で、永年作物であるコーヒーは、農薬の恐ろしさから農薬を使わずに栽培している農家が、サンパウロ州とミナス州にほんの一握り点在している状態であった。有機農産物としての認証を受けるには、少なくとも3年以上の期間、農薬も化学肥料も使っていないことを証明しなければならない。永年作物にあっては、まず農薬の使用を減らしてゆき、その後自然の調和がとれたところで、化学肥料を減らし始める。従って完全無農薬、無化学肥料にするまでには早くても2〜3年の準備期間のうえに、更に3年の辛抱がなくては、有機認証書を取得することは出来ない。農家にとっても有機コーヒーを作るという事は大変は苦労と経済的な圧迫を受けることになる。
このような状態では有機農産物としてのコーヒーを作ろうという農家はあらわれない。AAOと話あいを繰り返し、コーヒーに限っては3年以上無農薬栽培した場合に限り特別に「無農薬認証書」を発行させ、その販売時に役立つ証明書とすることを実現させた。ブラジルから海外に輸出された無農薬コーヒーは、1992年が最初で、僅か1コンテナのみであった。1993年には3本になり、1994年には6本と増えていった。この頃はアグロテクニカ社のみがブラジルの中で無農薬コーヒーを輸出していたので、この数字が我がコーヒー部門=私一人が専属で働いていたので、それがそのまま私の実績となった。

1988年から続いたコーヒー価格の世界的な低迷から、1993年には、ブラジルのコーヒー産業は壊滅寸前にまで追い詰められていた。コーヒー農家は疲弊し、1884年当時ブラジルのコーヒー樹栽植本数は45億本と言われていたものが、この当時、1993年には27億本にまで落ち込んでいた。栽培コストが農家の手取りを下回る状態が数年も続き、各地でコーヒー園が廃園となっていた。
1994年6月27日、南極から張り出した寒気団がブラジルのコーヒー生産地を直撃、大霜害が起こった。1俵45〜50ドルの精選コーヒーが、一挙に350ドルにも高騰した。丁度その日、無農薬コーヒーの市場調査に訪日していた私は、帰伯して霜害の被害の大きさを見るまで、ブラジルのコーヒーになにが起こったか、その凄まじさを信じることができなかった。
コンテナ一杯のコーヒー価格が数倍となり、引き合いは止ってしまった。それでも懸命の努力を続けたが、高騰したコーヒーの販売は非常に難しくなり、仮に受注しても、運転資金に多額の金を要するコーヒーの取引は資金難が予想された。帰伯してから3月、続木社長から、コーヒー部門の閉鎖を通告され、退社することとなった。

10.ラ・カンターレ社として独立。ゼロからの出発。
1994年11月〜1998年5月;有機コーヒー社の南米事務所として/プロポリスの販売 

退職が決まって直ぐ、裏庭に事務所を作り、独立することを決めた。資金もなく、お客もいないのに、意気だけがあった。
有機コーヒーの将来を見るとき、この市場は絶対に伸びるとアグロテクニカ時代に蓄えた自分の感を信じた。資金もなく、どうすれば無農薬コーヒーの販売を進めることが出来るか確信はなかった。が、捨てる神あれば、拾う神ありで、アグロテクニカ社のお客であった九州は福岡在の「有機コーヒー社」の中村社長から、同社の南米事務所を貴方の所でやらないかとお誘いがあった。独立した会社とはいえ、最初の仕事はブラジルの有機コーヒーに関する調査と購入輸出業務を行なう下請けの仕事であった。

一方、有機コーヒーに関する知識を身につけるために、コーヒー栽培者を訪ね歩いた。どのような生産者がどこで、どのようにして有機コーヒーを栽培しているか、生産量からその品質まで調べ上げた。新聞紙上からは、コーヒー全般の動き、相場の動向など詳しく調べた。有機コーヒー社へは、調査の結果を書き上げ、毎月報告した。他方で、有機コーヒーの購入に走り、複雑な輸出業務を修得していった。この期間に得た知識が今も、大いに役たっている。又この頃作りあげた人脈が、現在の優良な生産者達となっている。有機コーヒー一本槍で、邁進していた私に、日本からも色々問い合わせが来るようになり、販売先も広がった。私にとっては、1995年から1998年までの3年間は、貴重な基礎づくりの期間であった。

次男健介は1989年に脳内に出来た神経腫瘍の摘出手術を松阪の済世会病院で受けた。その手術の後遺症で、聴力が落ち、大学も中退していた。私が1994年に訪日した際、再検査のために一緒に松阪に行った。中村社長は、体が不自由にもかかわらず、やる気充分の彼の熱意を読み取り、将来ブラジルでコーヒーの焙煎、卸し販売を出来るように、同社での焙煎実習を快く引き受けてくださった。
済世会病院での検査の後、約2ケ月間、彼はコーヒーの焙煎を実習することが出来た。これがチャンスとなり、ブラジル初の有機焙煎コーヒーを市場に紹介することができた。
1995年3月、有機コーヒー焙煎豆の卸販売を始めた。中村社長と有機コーヒー生産者、ジャカランダ農園主のカーロス・フランコ氏が出資してくださり、健介が焙煎技師兼包装係として発足した。
障害をもつ健介を見守り助けながら、一緒に仕事が出来るようになった。家から出ずに仕事が出来、通勤時間もない。幸い裏庭にも道路があり、住宅とは別に人の出入りも出来、輸出業務やコーヒーの焙煎包装をこなすにはなんら不便ではない。健介が焙煎したコーヒーを袋詰めし、私がそれを土産物屋さんに配達した。本当に小さな小さな第一歩であった。
日系の土産物屋さんに卸し、日本から来る日本人向けの土産に、当時日本でも手に入りにくかった有機栽培のコーヒーを宣伝しながら販売した。その頃は珍しい商品であったが、今では一流の焙煎業者が有機コーヒーの販売するようになり、販売量は減り続け、零細なこの仕事の終りが近づいている。

1996年3月、ブラジル特産のプロポリス・エキス販売をはじめた。有機コーヒーの販売先である日系みやげ物屋さんで取り扱かわれている人気商品である。これを始めた動機は、1964年に学生の実習生としてブラジルに来た時以来、お世話になっている化学4期の松尾明義先輩が、プロポリスの生産を始められたことにある。不思議な縁がここでも働き、健康食品を扱う起点となった。
想えば健康食品に興味を持ったのは、健介に対する一つの手当てとしてであった。神経腫瘍というまだ治療の方法の確立されていない珍しい病気に対して近代医学では、腫瘍が大きくなったら手術で取り除くより、他に方法がない。原因がわからず、薬もなく、手当てのしようもない。そこで自然食品で、よいと聞けばなんでも取り寄せ試してみた。どれも効かず、投げやりになっていた時に、松尾先輩から健介用にと特製プロポリスの支給があった。説明を聞けば、プロポリスの素晴らしいこと、これぞ「自然の恵み」とばかり飲ませ始めた。
障害をもつ健介は、体は不自由ながらも、普通の人間には持ち合わせていない特別な何かを持っている。彼が雑多な情報を入れずに、第6感で判断したことは正しい。私に松尾さんのプロポリスを販売しょうと「命令」がくだった。
1996年6月、彼は松阪の済世会病院で2回目の脳内腫瘍摘出の大手術を受けた。残念なことに、後遺症が残り、以後私と一緒に仕事することが出来なくなってしまった。

1998年5月、有機コーヒー社の中村社長より南米事務所の業務を私の紹介した2世青年に引き継いで欲しいと申し出があった。ラ・カンターレ社としての独自の仕事が増えるにつれ、有機コーヒー社に対する仕事が疎かになっていた。又、日本国内では有機コーヒーを扱う会社が増えはじめ、これらが競合相手となっていた。中村社長の断を受け入れ、同社の「南米事務所」の看板を下ろした。

11.ラ・カンターレ社の現在;1998年5月より現在まで

私一人で始めた会社も、1997年年初から、長女まゆみが学業の傍ら、次男に代わって私と一緒になって働き始めた。同年年末、卒業と同時にラ・カンターレに入社、98年2月には、私と次男と3人の共同経営者となった。輸出書類の作成、在庫の管理、会計関係を一切やるようになった。
又、3男の耕介も、まゆみの卒業を待っていたように、大学に入り勉強を再開した。それまで勤めていた所をやめ、ラ・カンターレ社で、注文取りや配達などをやるようになった。私は益々、外交に専念出来るようになっていった。

1998年3月、ブラジル有機コーヒー栽培者協会を設立、創立会員となった。僅か7人で始めたこの会には、ブラジルでの有機コーヒー栽培のパイオニアが集まっていた。私は本来栽培者ではないが、栽培者の立場で生産物を販売する係りとしてマーケッテング関係理事となった。現在でもこの会は続いているが、ブラジルの有機農産物を海外向けに販売したという点では、コーヒーがその先頭を走り、他の有機農産物の手本となったことを誇りに思う。

A.有機コーヒー生豆の輸出; ラ・カンターレ社としての輸出始め。

1998年5月、日本では有数の有機コーヒーを焙煎・販売している会社から、輸出業
務の打診がきていた。1ヘクタールに2万本の超密植栽培の創始者・ジョン・ネッ
ト氏が生産する有機コーヒーを、毎月コンテナ1本250俵を買取り、輸出する仕
事である。
5年間にわたる基礎つくりの延長線上に、新しい仕事がこのような形で降ってきた。「南米事務所」が駄目になったと同時期に、より望ましい仕事が現れた。必要な時に必要なものが、与えられるこの幸運をなんと呼べばよいか知らない。縁なのか、加護なのか、誰かの導きであることは間違いない。
輸出価格も生産者手取り額も当方の手数料まで、生産者と輸入業者の間で取り決められた仕事ではあったが、定期的な仕事の上に、確実に収入になるラ・カンターレにとっては、あり難い仕事であった。

この仕事が入ったお陰で、経営が安定するようになり、その他の有機生産者より自分の産物も販売してくれないかとの相談が入るようになった。日本からの引き合いも増え、コーヒー生産者を訪問することが多くなっていった。
それにしても、一番のネックが有機認証書であった。日本の業者が要求する有機認証書と生産者が持つ認証団体名がかみあわず、それでなくても難しい有機コーヒーの販売がより複雑となり、一向に進展しない原因となっていた。

B.アガリクス・エキスの製造販売
  ラ・カンターレ社の社名の付いた新製品の発売
 
1999年3月、プロポリスの製造元である松尾先輩から、アガリクスの濃縮エキス生産の話があった。「自分はプロポリスの製造元である。新しい製品として、アガリクス・濃縮エキスを作ったが、製造元としてこれの販売をやる気はないか」との話であった。「生産はしてやるから、原料を供給し、製造元として販売しろ」とのお誘いであった。ものを生産する技術も持たない会社が、製造元になるのは間違っていると、再三お断りした。
が、健介に相談したところ、この時も彼の第6感は、プラスに感応した。自分で飲んでみて、これならば大丈夫と言う。鈍感な私には解かるはずもないことだが、私はこの時も、素直にこの「命令」を受けた。こうしてラ・カンターレ独自のTC印の付いた最初の製品が誕生することとなった。

20年も前にモラロジーの家庭集会に、講師としてお邪魔したサンパウロ近郊の農家があった。塩澤兄弟のご一家である。不思議なご縁ではあるが、この方々は、1989年より三重大学名誉教授、岩出博士の研究されたアガリグス茸(学名agaricus brasei murrill)のブラジルでの露地栽培のパイオニアである。ブラジルでのアガリクス栽培は、現在、殆どが温室栽培に切り変わっている。が、塩澤兄弟は、忠実に露地栽培を続けられており、ここより原料の支給を受けて、アガリグス・エキスの生産が始まった。

初めは海のものとも山のものとも解からず、極少量の生産を恐る恐る頼んでいたが、年を経るに連れ、販売は順調に伸びていった。
宣伝するわけでもないのに、年々倍増する勢いで、TC印のアガリクス・エキス製品は、人々の健康増進に寄与していると信じている。
実際に使った方の口コミだけで、こんなに伸びるとは、なんとも不思議な話で、アガリクス茸の生産者の真心と製造者の類稀な研究心が重なり、その上に、カンターレ神のご加護が働いているとしか思えない。

C.日本の有機JAS法に参入
    ブラジル産有機コーヒーにJAS取得

日本向け有機農産物には、2000年4月に制定された日本の農務省による有機JAS法による有機認定証書を取得する必要性があった。海外の事業所にも農林省の認定する有機認証団体から直接、認証を受ける道があることは、2001年3月に訪日したときの調査で解っていた。
それ以来本年4月まで、一年掛りで手続をすすめていたブラジルの有機コーヒー生産者グループ―マシャード有機コーヒー栽培者の会―略称UNICOM−に対してJAS認証がおりた。
今まで日本向けに有機コーヒーを輸出する場合、ブラジルの認証団体の発行する認証書では、今ひとつ説得力が弱く日本の企業がブラジル産有機コーヒーを購入する条件に合っていなかった。

幾度もこれで駄目なら諦めようと、その複雑な手続に泣かさせながらも、日本人の私がやらなければ誰がやれると、自分で自分を励まし、日本の認証団体には日本語で、当地の生産者にはポルトガル語で、翻訳又翻訳の日々が続いた。今はコンピューターの時代、コンピューターは翻訳はしてくれなくても、複雑な文章を書き換えるのには誠に便利な機械である。またそれをE−mailで送ると瞬時にして日本とブラジルを往復してくれる。誠、良い時代に入ったもので、ブラジルにいても、日本にいるのと同じ仕事が出来る仕組みが出来上がっている事に、気づいた。

2002年4月、ついに、UNICOMグループのコーヒーにJASを取得、JASマークをつけることが出来るようになった。JAS認証を入手することにより、今まで有機コーヒー購入に恐れを抱いていたブラジルに支店を持つ複数の日本の大商社が購入に踏み切ってくれた。ラ・カンターレのような小さな会社が仲立となり、商談を成立させることが出来るようになった。現在の所、たった一つのグループの生産物のみであるが、このように一つの道を切り開くと、第二、第三のJAS認証を受ける生産者が現れ、近い将来、ブラジル産有機コーヒーが日本の市場に流れていくに違いない。
日本向けに最初の無農薬コーヒーを送り出してから10年、誰にも文句をつけられることのない確実なる認定証書をつけて、大手を振るって、日本へコーヒーを送り出せるようになった。たった一つのことに10年、殆ど趣味に近い仕事ではあるが、私にとっては悲願を達成したような喜ばしい出来事であった。

12.そしてこれから・・・・・
      家族と共に描く夢

2003年5月にはラ・カンターレ社は発足以来、10周年を迎える。
家族経営の小さな会社であるが、夢だけは大いに持っている。
現在、事務所の改築をしているが、来年5月には出来上がる予定である。
次男健介は、数度の手術で聴力はなくなり、眼のほうも片方は生まれて以来、視力零、残る方は弱視で、大きな文字での筆談のみが家庭内での通信手段である。体の方もあちこちに麻痺が残り、リハビリに専念している。が、我が家では一番の大将で、彼のいう事は「絶対」である。どんなに仕事が忙しくとも、彼の欲することは家族全員が、一丸となって直ちに実行する。まさに我が家の「かみさま」である。
長女まゆみが総合的な管理を受け持ち、健介の病院関係全般、会社の管理から会計を分担する。2003年には結婚の予定で、着々準備を進めている。
末っ子の耕介は、アガリクス、プロポリスの販売を受け持っている。遅まきながら2002年末に無事、大学を卒業、今後はラ・カンターレを運営する主体となっていくことであろう。
妻洋子はブラジルの日語普及の仕事を、化学4期の松尾真名子氏と共に、懸命に努めている。家族の中の一人くらいはボランテアー的な仕事をするべきだが、健介の世話もあり、思うに任せないのが悩みらしい。何しろ忙しい家族の束ねを一手に引き受けているのだから、それも致し方ない。

私は、有機コーヒーの輸出を担当しながら、夢を語る役割を受け持っている。
松尾先輩の適切なご指導と素晴らしい製品群の供給を受け、仕事を増やし続ける。塩澤兄弟の露地栽培アガリクスは「ほんまもん」である。世の中、「らしい」ものは一杯あるが、やはり「ほんまもん」は多くない。これほど貴重な天然の恵みを、世の人々に届ける仕事は、本当に楽しい。喜んでくださる方が、多いともっと頑張りたくなる。かくしていつも間にやら、仕事が増える。
有機コーヒーの生産者達は、有機コーヒー栽培者としてパイオニア、篤農家の方々である。これらのコーヒーはうまい。天然のエネルギーをもち、飲む人に快い力の元を与える。日本の消費者が一度これを飲むと、又欲しくなるという。
このように素晴らしい供給者に恵まれ、私の日本とブラジルを結ぶ小さな夢は益々拡がって行く。

ラ・カンターレの扱う商品を買って下さる方は、健康食品ならば、親戚を始めとして、友人、知人、そして商売として販売してくださる方々まで、だんだんと拡大している。有機コーヒーは、喫茶店から商社まで色々なところとつながりができている。日本だけでなく、台湾、香港、上海、朝鮮などからも引き合いがあったりする。ゼロからの出発であったが、10年が経った今、予想以上に広がっている。

足りないとこだらけの小さな会社である。次代に繋げるなにものかをしっかりと掴みたいと思う。なにせ、ここはブラジルである。経済変動も激しく、油断をすれば、たちまちにして、ゼロにもどる。政府の規制もよく変わり、それに順応するのは並大抵ではない。50数種類の税金があるブラジルで商売するのは、日本的な感覚ではとてもやってゆけない。民情も激しく変わり、失業率は高く、犯罪は日常茶飯事である。このような中で、会社を運営してゆくのは、並大抵ではない。

ブラジルに移住した人は、それぞれに日本では味わえない人生を送ったと思う。私もその一人として、ここまでの36年を振り返り、自分の歩んできた道をさらけだしてみた。こうして記録することが、自分にとって良い反省の材料となり、後から来るものにとっては、彼らの人生の指標となるやもしれない。

私の人生はこれからである。現在61才であるが、平均寿命的に言っても四分の一世紀が残っている。これから何が起こるか、それに対して、どのように対処してゆくか、興味はつきない。

ブラジルは夢の国、大いなる国である。ブラジルに移り住んだこと自体、私にとっては、これ大いなる「導き」の賜ものであったと思う。





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