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「夢中になって---」神山 典士さんの久振りのお便りを頂きました。
ノンフィクション作家、神山典士さんからのお便りが暫らく遠のいていたのでどうされたのかと気になっていましたが、TheBazaarExpress#27を受け取りました。12月締め切りの大作と取り組み夢の中での制作活動をするほどのめりこんでいるとの事で大変嬉しく思いました。
「何年ぶりかの暑い夏。皆さんは如何お過ごしですか。私は毎日取材に飛び回り、人と会い、美味しい料理をいただきながら毎晩浴びるように酒を呑んでいます。そして毎日「夢」をみます。サリー・ワイルとその時代の青春群像を書ききる夢を。この「夢中」の力こそ、憎らしい程の灼熱の太陽に対峙する一番の力だと実感しているところです。」
前々回、訪日の際板橋の居酒屋で杯を交わし浅草ロック座のブラジル公演の話等をしながら楽しく過した時に撮らせて頂いた写真の入ったカメラを香港で置き引きに合い無くしてしまったことから適当なものが見つかりません。神山さんが書かれた本の表紙をお借りしました。


14:15 04/07/18
TheBazaarExpress#27「夢中になって−−−」
(このメールは神山典士が書かなければ前に進めない文章を書いて読んで戴きたい人に強引に送らせていただくものです。長いです。ご迷惑かとも思いますが、お時間ある時にお読みいただけたら幸いです)

まず最初の章で昭和二年の横浜港に一人のスイス人が現れるところから書き始めよう。その人、サリー・ワイルが新築されたホテル・ニューグランドのシェフになることが業界に知れ渡ると、そこに多くの料理人が梁山泊のように集まってくる。大正期にあった横浜グランドホテルの料理人・荒田勇作や帝国ホテルの料理長・内海藤太郎らも馳せ参じ、ニューグランドの厨房は日本人シェフのレベルも非常に高かったことを強調しなければ。
同時に明治末期や大正期の日本の西洋料理のレベルにも触れないといけないな。食材が乏しい中で、エスコフィエの原書や天皇の料理番・秋山徳蔵の料理書と格闘しながら、彼らは少しでも本格的な料理をつくろうと奮闘していたのだから。次の章では大戦中のワイルの孤独にも触れなければ。ユダヤ人として軽井沢に幽閉されたことや、戦争中職を失い、都内にあったレストラン「アラスカ」の厨房にフラリと現れて、ハンガリー料理を一品つくってまたどこかへ去って行った彼の寂寥をここで描こう−−−−。と、このあたりまで考えた時に目が覚めました。時計を見ると午前四時半。どうやら私は、夢の中で作品の構成を行っていたようです。しかもそれは、今日明日書かなければならない原稿ではありません。半年先の年末に締め切りが設定された作品なのです。
文字通り「夢中になっている」。今の私は、書き手としてかなり幸せな状況にあるのかもしれません。

それにしても、こんな偶然が続くことがあるのでしょうか。例えば五月上旬神田にあるエス・ワイルという洋菓子店を訊ねた時のこと。アポイントも取らず、たまたま通りがかったことを理由に御主人の大谷龍一氏に「実はワイルさんのことを調べているのですが」と切り出すと、氏はさして不思議な顔もせずに「待って下さい。彼の資料がありますから」
と地下の厨房から一冊の手帳を持ってきてくれました。そしてこう言ったのです。「この手帳は私がワイルさんにお世話になってスイスで修行していた当時のものです。たまたま今日、ふとした拍子に出てきたんです。もう30年も前のものなのに」「! ではもしこの手帳が出て来なかったらワイルさんの資料は手元になかったのですか」「ええ、そういうことになりますね」手帳が出てきたことと店名にも掲げるほどの恩人・ワイルのことを尋ねる
男がやってきたこと。その二つは氏にとって、不思議なシンクロニシティだったと言います。この手帳はこの男のために出てきたのではないか。瞬間的にそう思ったからこそ、私の出現にはそれほどの驚きではなかったというのです。
ワイルの墓を探すことを目的に訪ねた五月のスイスでも、こんなことがありました。旅立つ前、私が手にしていたワイルの情報はごくわずかなものでした。戦後帰国し、ベルンという街でその生涯を終えたこと。結婚はしていなかったけれど、同居人はいたこと。その連れ子を養子としていたこと。これだけでは心もとないので、スイス大使館に連絡し、そこからベルン司厨士協会の重鎮のガル氏を紹介してもらいました。とはいえ、あったこともない人に面倒な取材のあれこれをお願いするわけにもいきません。メールで一、二度やりとりし、とにかくワイルに関するものなら何でもほしいと目的を告げただけで、私はほとんど徒手空拳でスイスへ向かったのです。ところが約束の場所にやってきた氏の手元には、分厚い資料が用意されているではありませんか。早く見せて欲しいと急く私を静止して、氏は言いました。「ワイルさんのことを調べるのはとても大変でした。なにしろ76年に亡くなった人ですから。でも彼の姪が生きていました。彼女が私に資料をたくさん貸してくれました」そこには、なぞに包まれていた彼の来日前の経歴を示すセルティフィカ(労働証明書)や、戦争中軽井沢警察に出された滞在申請書もありました。そのことから、ホテルニューグランドに僅かに残るワイルの資料の生年月日が三年違っていることや、軽井沢での幽閉の輪郭が判ってきたのです。また一九五六年に日本の弟子たちに招かれて帰国後初来日した時の膨大な写真もありました。それらの出現に歓声をあげる私に、さらにガル氏はこんな事実も教えてくれたのです。「ワイルさんの連絡先は司厨士協会でも記録がありませんでした。仕方なく私は電話帳でワイルという名前の人を探してかけてみました。すると一人の医師が出てこう言ったのです。私はサリー・ワイルさんの親戚ではありません。でもその姪にあたる人なら知っています、と。それでようやく姪の連絡先が判ったのです」何という偶然。全てガル氏の好意と行動力のお陰ではありますが、こんなことが重なると、あたかもワイルの方から私に近づいてくれている気さえします。

そもそもサリー・ワイルの存在を知ったのは、コンデ・コマの取材以後約一〇年間お世話になっている恩人がホテル・オークラでの食事会に誘って下さったのがきっかけでした。食事のあと、テーブルに挨拶に現れた総料理長・根岸規夫氏がこう言ったのです。「僕の修行時代にお世話になったのはスイス人でした。六〇、七〇年代にヨーロッパを目指した料理人は、皆その人のお世話になっています。当時はフランスの労働ビザを貰えなかったので、まずスイスから修行に入ったのです」そのスイス人こそワイルでした。戦前は横浜で多くのシェフを育て、戦後はスイスに居ながら日本の若きシェフたちの架け橋になったその業績は、「食文化交流の仕掛け人」という連載を持つ私にとっては宝の山でした。問題は、ワイルが約二〇年間働いたニューグランドに戦前の資料は僅かしか残っていないことでした。終戦後GHQに占領されたために、資料を自ら棄ててしまったというのです。けれど僅かに残された資料を辿って調べ始めると幾つもの偶然と奇跡的な出会いがあり、何人もの協力者が現れてくれました。五月のベルン取材ではフランス語の通訳をする後輩がたまたまパリにいたことからスイスにかけつけてくれました。秋に予定している再取材には、
「成田・三里塚」を書いた時に知り合った友人がスイス人を紹介してくれ、彼が通訳してくれることになっています。その人がベルン出身で、たまたま私が渡欧を予定している九月上旬に現地に里帰りしているスケジュールだったことも奇跡としか言いようがありません。そして、これだけの取材を可能にしてくれているもう一つの奇跡もあります。「これだけ日本の料理界に貢献した人が今まで何も書かれていません。僅かに残る関係者の寿命も戦前の料理界の記録も風前の灯です。それらを全て網羅して必ず歴史に残る作品になりますから、ご協力いただけませんでしょうか」私の申し出に、ある人が「いいよ」と二つ返事で取材費ファンドへの協力を約束してくれました。まだ一文字も書いていない作品に対してこんなことは普通はありえません。仮にこの支援がなければ、料理人取材の前提となる食事代も旅費も資料代も、今とはずいぶん違っていたはずです。

ここ数年ノンフィクション界で、テレビディレクターが書いた作品が大きな賞を取る傾向があります。番組の製作を通して取材したネタを執筆し、重厚な作品を生み出しているのです。彼らが日の目をみるたびに「テレビはお金があるから」という仲間がいました。逆に言えば僕らの世界はお金がない貧乏だということでもあります。けれどそれは違うだろうと私は思っていました。お金があっても誰もが優れた作品を書けるとは限らない。お金がないなら工夫して取材費を捻出すればいいじゃないか。少なくともお金を作品の理由にすることは辞めようゼ。私なりのその一つの答えが、今回のファンドなのです。出会って二年になるこの人との関係も、奇跡としか言いようがありません。これだけの奇跡や偶然と出会ってしまったら、もう走りきるしかありません。私は誰かに背中を押されるように、年末のゴールに向かって夢中になっています。

さて、何年ぶりかの暑い夏。皆さんは如何お過ごしですか。私は毎日取材に飛び回り、人と会い、美味しい料理をいただきながら毎晩浴びるように酒を呑んでいます。そして毎日「夢」をみます。サリー・ワイルとその時代の青春群像を書ききる夢を。この「夢中」の力こそ、憎らしい程の灼熱の太陽に対峙する一番の力だと実感しているところです。
Expressは約1年の御無沙汰でした。神山はこうして何とか生きています。
皆様もお元気で。ご自愛下さい。



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