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【日本学生海外移住連盟と三重大学】 元日本学生海外移住連盟委員長 富田 博義 (三重大学農学部同窓会史より)
既に紹介している三重大学農学部南米三翠会同窓会史 【回り道した男たち】に日本学生移住連盟委員長として早稲田大学海外移住研究会の富田 博義さんが賛助寄稿しています。創生期の学移連の委員長として自らは派遣団員になることもなく黙々と南米学生実習調査団(派遣制度)の基礎を作り、武藤、真砂と三代続けて早稲田から委員長を出し早稲田海外移住研究会の黄金時代を築き上げた名委員長ならでは書けない当時の学移連の活動を書き残した貴重な寄稿です。奇しくも3学移連委員長は、現在ブラジルとパラグアイに住んでおり、若い頃の夢を単なる夢に留めず自らその人生を南米に掛けておられる。今年の10月には、日本残った当時の熱き仲間達がブラジルを訪問し旧交を温める計画が実施される。40年以上過ぎ、実社会を退いた多くの諸兄が自分の過して来た人生と重ね合わせどのような感懐を持ちどのような語らいがもたれるのか?非常に興味深い試みである。学移連の創立50周年に当る来年度には学移連としても当時の移住と言う枠では果たせなかった若き血を滾らせたOBの南米訪問団を計画していると聞く。現在撮影中のNHK移民ドラマ【ハルとナツ】の学移連版の実録ドラマを追いかけたい。
写真は、適当なものが見つからないので今年会った時に相田ブラジル稲門会会長と富田【後列左】谷、和田の同期3人組を使用しました。


「三重大の北村ともうします。よろしうお頼み申しましゆ。」
 異常な迫力を漂わす大男が、心持身をかがめて重そうな口を開いて言った。その時の強烈な印象は今でも鮮明に覚えています。
 都会育ちの私は今までそういうタイプの男に会ったことがなかったのです。おお三重大というにはゴツイ男がいるスゴイ学校だな。後に浅海さんに会いオーこれはすごい、かなわんとつくづく思いました。重量感があるのは体躯だけでなく、言葉にも重みがあり、それは校風でしょう。徳力さん、角谷さんに引き継がれています。
 さて、その日、昭和37年3月に日本学生海外移住連盟(以下、学移連)の第三次南米学生実習調査団(以下、派遣団)の団員選考試験が行われたにです。初日が筆記試験で、次の日が面接でした。夜の宿舎は都内在住の連盟員達が受験生に提供することにし、北村さんは都下府中市の拙宅へ来ることになり、その時の挨拶が冒頭のセリフだった訳です。
 学移連の派遣団も3回目を迎え加盟大学も、北は北大から南は琉球大なで50校を数えることになって、経団連等経済4団体の認知を受け寄付金集めに協力してくれるようになったし、国家予算も少額ながら出ることになったりしたので、今までの馴れ合いでの団員選考では済まなくなったので、学移連初の選考試験で団員を公正に選ぶことにしたのです。形式的にも面接には顧問教授の杉野先生、OB代表の他に外務省、経済連代表にも選考委員になってもらいました。この様に一応まともな団体になるのに7年かかっています。
 昭和30年に学移連は創立しました。創立会員は東農大、上智大、拓大、中大、日大、早大、麻布獣医大、天理大、神戸大、神奈川大でした。同年初めて創設に向けて各大学へ参加招待状が送られています。その要旨は、「このたび、我国の人口問題の解決、農村の23男対策は急務であるから、我々学生層でこれに対し何らかの働きかけをする必要がある。ついては戦前より我国と交渉がある、また新天地として人口が希薄で気候、風土共に我国に類似し、その上人種的偏見の少ない南米大陸、特にブラジルにおいてその可能性の扉を、開け、我々学生が自らの足で新天地を克服し、また希望を失った若人の眼を海外へ向かわせるべく、一大ケャンペーンを起こそうではないか。」とあります。
 昭和32年には関西支部が開設され、はじめは西京大(現京都府大)次いて天理大に事務所を置きました。三重大海外移住問題研究会ができたのも磯部さんの話しではその頃のようです。
 当時の学移連活動は例会、懇談会の他は移住啓豪講演、映画会が主だったのですが、同年から日本海外協会連合会(以下、海協連)を通して外務省の委託調査をすることになりました。調査費17万円は貴重な活動資金となりました。この委託調査を世話し、指導してくれたのが海協連総務課長で農林省出身の若槻泰雄氏(現玉川大教授)で近頃過去の移住政策を告発する本を書いているのですが、彼は移住者を送り出しはしなかった。
 調査内容は昭和32年「国内開拓と海外移住」33年「集団移住者送出後の母村の状況調査(広島県で実施)」、34年前年同テーマを高知県大正村をとりあげて行われた。35年「中小企業の海外進出」これは私の所属する早大海外移住研が責任校となり調査をしました。夏休み中の炎天下を江東区墨田区の中小企業を廻って企業進出の可否とその理由を問いました。学移連は順調に加盟校も増やし意気は上がってきましたので、自前で学生を南米へ送り出すことを検討しだしました。
 丁度その頃、昭和34年安保改正問題で揺れる中、日本の首相として初めて岸信介氏が南米諸国を公式訪問しました。その帰国講演会「南米事情講演会」が学移連主催(朝日新聞社後援)で神田共立講堂で華々しく開催されました。これでかなり世間にも学移連は認知され、更にこれが機縁となって岸首相は学移連を贔屓にしてくれる様になったのです。
 早速、同年末に「南米学生親善使節団」3名(拓大、東外大、天理大)が皇太子ご成婚記念行事の一環として予算が下り、学移連として初めて学生を海外に送り出したのでした。
更に大掛かりな学生派遣が検討されました。学移連顧問で東農大教授の杉野忠夫先生が東農大用に温めていた南米にて一年間最低賃金で実習しながら、移住を体験するという画期的な、滞在費がゼロの派遣団を計画したのです。これが第一次、二次と成功し、前述の北村さんが受験に上京してきたのです。ちなみに徳力さんが第五次で来ています。
 一口に派遣団といっても、行く人には天国ですが、国内でその旅費集めに会社廻りをする大方の学移連会員には地獄でした。学校をサボり朝から晩まで足を棒にして、寄付金をもらいに会社廻りをするのです。お金をせびるというのは嫌なものです。学移連の派遣事業の遺義を熱意をもって説くのですが・・・なかなかもらえなくて、夕方学移連事務机(正に机一つを海協連内に貸与してくれていて、空いた会議室等の使用は許されていました。コピーも使わせてくれました。)に帰っては悲喜こもごもの戦果をはなしたものです。
これを杉野先生が見て、学生が勉強もせんで、こんなことをしていちゃあかん、なんとかせにゃと、経団連の財界総理と言われた花村仁八郎事務局長に話しを持ち込んでくれた。花村さんは意気に感じて財界4団体の日経連、経済同行友会、日商に話しをしてくれた。こういう学生が寄付をもらいに行くが、出来るだけ協力してやってくれ、将来見込みのある学生達だと言ってくれたあのです。お陰で寄付金のもらえる確率はかなり上がりました。
 岸信介氏は若者に対する理解が高く、子分の議員の一人を学移連の顧問代議士に指名してくれました。最初が山口六郎次氏で同氏が亡くなった後、田中龍雄氏になりました。両氏には非常にお世話になっています。昭和36年頃、発案の知恵者は誰か不明ですが、派遣団の旅費を国家予算から外務省一海協連窓口一学移連に出して貰うことが計画され、いよいよ其れがその年末に来年度予算の中に組み入れられるようになったのです。恐らく山口六郎次氏のごり押しではないかと思われます。海協連がこういう厚意を学移連にしてくれるとはおもわれないので。
予算の申請は提出したものの大蔵省がする査定を通らなくてはならない。大蔵省は申請予算を削ることをもって仕事としているので全く予断は許されなかった。いくら政治家(岸派)の圧力があったにせよ(結局これが全てだったと後で知るのですが)何も分らない私達は懸命でした。ある日全国の連盟員に上京してもらい、各大学名をかいたタスキをかけて大蔵省まで押しかけ、武藤さん(在アスンソン)の毛筆の陳情書を対応してくれた係りの相沢主計官(後女優司葉子の亭主)に手渡しました。
 幸い査定を通り、この第三次派遣から百万円余円(3人分の旅費)でることになりました。これに企業の寄付を加えて、毎年12〜15人を送りだしました。こうして30余年学移連消減まで続きました。
何事もそうですが、学移連も例に漏れず組織が肥大すると内輪もめがはじまります。関東と関西の中がわるくなったことがあります。多分派遣団の選考に因を発していたとおもいます。それを考えても選考試験は必須のものでした。
 そこで夏休みに合宿をすることにしました。杉野教授が懇意にしていた石川県羽昨市の経営伝習農場をつかわせてもらえることになったのです。関東関西の中間地点で仲良くしようと探し当てた場所です。全国から百人以上の学生が集まり、一週間 杉野教授の講義を聞き、話し合いを重ね、討論し、生れて初めて豚を殺してシュラスコをし大変有意義に過ごすことができました。そしてすっかり関東関西のわだかまりも解けました。以後これは学移連の派遣と並ぶ大イベントになり継続されてきました。
この時、学移連に残るエピソードがうまれたのです。この合宿は親善を目的とするので一校でも多く集まってもらおうと、合宿経費は学移連負担としました。余り人数が多過ぎると困るので一校男子のみ二名の参加希望を募りました。
 参加者の中に、大阪府大の福永都という名があった。受付係は女性とは気付かずそのままOKしたのでした。当日登山姿の一人の女性が来て我々を慌てさせました。しかし参加を認めたために遠路をわざわざ来られたので無下に帰すことも出来ず参加をしてもらうことにしました。この期間中に日大の四方君が体調を崩し熱を出して寝込んでしまいました。それを彼女が寝ずの看病をしたのです。これが縁で二人は今、パラグアイ国エンカルナシオンで大豆をつくっています。
 まさか今日のような経済大国になるとは思いもしなかったその頃、熱い目を海外に向けて行動を起した若者達が多くいたのです。現在のように経済大国となり、豊かな暮らしを少子化の世の中になってしまうともう移住と言う言葉は死語になり、以後の学移連の役員達は連盟の存続に苦労をしたようです。年と共に櫛の歯が抜けるように加盟校が減っていくのを食い止めるのに規約を変えて、何時の間にか学移連規約には移住の文字は姿を消えた。その代わりに技術協力、開発途上国への各種指導、国際協力、人間の移動に関する考察研究等という表現になり、今や学移連は「兵共が夢の跡」になったとのことです。
時代背景も2〜30年の周期で変わるのは当然のことでしよう。今の若者には今の悩みや夢もかつての私達がそうであったように、彼らなりにあることでしょう。



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