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<ボリビアのオキナワ植民地> 入植50周年祭に参加された赤嶺尚由さんの寄稿
ブラジル日本商工会議所のBATEPAPOというMLで色々な情報を得ておりますが、メンバーの赤嶺さんから入植50周になるボリビアの沖縄移住地の50周年記念祭に参加されたご感想を書き込んでおられましたんで転載許可を得てここに掲載させて頂きました。私たちの同船者もお隣りのサンフアン移住地に99名が入植今も沖縄移住地同様残留組は、大豆を中心とした大農場経営をしておられると聞いており是非訪ねてみたいと思っております。
サンパウロ新聞にも8月13日付けで【盛大に入植50周年祝う・ボリビア・沖縄移住地で】との記事がでておりこれも一緒に収録させて頂きました。
写真は、8月2日にパラグアイのピラポ移住地の44周年記念日に行われた慰霊祭に参加した際に撮った拓魂碑を使用しました。ボリビアの関係写真を探してみます。


 1954年以降に沖縄から移住者584家族(3385人)を計画的に導入して造成されたボリビアのサンタ クルース州にある「コロニア オキナワ}(オキナワ移住地)が入植50周年を迎えたのを機に、駆け足程度で見学させてもらったが、一時盛んに取りざたされていた入植計画失敗説をすっかり払拭し、機械導入による大型農業に活路を見出して国内でも有数の大農場地帯に変貌、大変な活気を呈していた。この移住地から70年代に、最初に入植した移住者のほぼ半数近くが脱落してブラジルなどへ新天地を求めていったが、歯を食いしばって残留を決意した人たちには逆にそれが幸いして、半ば放棄された形の農地を逆にまとめて安く手に入れ、およそ5万町歩(ヘクタール)の耕作面積を有する同移住地内では、小麦、大豆、トーモロコシ、ヒマワリ、砂糖キビなどの農作物を栽培し、牛約20000頭の牧畜と併せて目覚しい実績を収めつつあるとのことだった。折からの入植50周年祭には、ちょうど難しい政治状況の渦中にいるメッサ大統領も出席し、この移住地の果たしてきた役割を高く評価していた。現在では、移住地全体が特別行政区に指定され、役場などで政府関係の手続きもできるようになっている。

 生産される作物は、これまでのところ、国内だけで充分に消費されているが、将来の食糧不足を視野に入れ、既に大豆などなどの一部を試験的に中国あたりへ輸出している様子だった。また、燃料アルコールにも着目していて、これから砂糖キビ栽培が拡大しそうな気配だった。しかし、この移住地内での耕作面積を一人当たり現在の300ヘクタール以上に増やすことが難しくなったため、小さい時に移住してきて現在では、すっかり家督を引き継いで一家の柱となった特に一世の野心的な若い青年たちを中心に、こぞって外へ外へと手を広げようとする風潮が強く、とりわけ、ブラジルとの国境あたりの密林地帯に大豆などの栽培地を求めて開拓中の模様であった。そこで2000ヘクタールの広大な土地を確保した新興のファゼンレイロもいるらしい。
 
 ただ、そのことは、どうもまだ「企業秘密」らしく、特に外部の人たちには、語りたがらない様子も垣間見えた。それは、勿論、土地代などの値上がりを避ける意味もあるが、移住地の造成に係わったある関係者から直接聞いた話では、ボリビアあたりまでブラジルのコチアや南伯農業組合などの傘下にいた農業者たちの辿った数々の蹉跌や失敗のこととか、なかんずく最後の悲惨な結末の情報が良く伝え知られており、農業の大型化に伴うリスクを今の内に余り外部の人たちに喧伝されたくないためでもあるらしかった。しかし、昨年、今年と、小麦や大豆を中心に、二年連続の豊作のため、ちょっとやそっとの雑音も耳に入らないくらい、それこそ受けに入っている最中で、6万ドル以上もする日本のあるメーカーの60台以上の高級乗用車がほとんどこの移住地内で売れて、在庫は一台もないという話も耳にした。


サンパウロ新聞8月13日付け記事。
盛大に入植50周年祝う・ボリビア・沖縄移住地で
隣国ボリビアにあるコロニア・オキナワ(オキナワ移住地)の入植五十周年記念式典が今月十五日、同移住地内会館で開催され、ブラジルからも約三百人におよぶ慶祝団が出席するという。また式典前後には同地の歴史資料館落成式、慰霊の塔除幕式をはじめ、記念パレードやゲートボール大会など多彩な催しが行われる。最初の入植先「うるま移住地」での犠牲者の無念さを胸に成り立ってきた「コロニア・オキナワ」が、半世紀の節目を迎える。
 コロニア・オキナワ入植五十周年記念祭典実行委員会(中村侑史実行委員長)が発行している趣意書によると、同移住地を最初に計画したのは、ボリビア北部ベニ県リベラルタ市に在住していた沖縄県出身の戦前移住者だったという。第二次世界大戦で廃墟と化した沖縄を救援する目的で一九四八年十一月、「リベラルタ市沖縄戦災救援会」を結成して義援金集めを開始。同活動から沖縄県人を集団的にボリビアへ呼び寄せる構想が生まれている。
 一方、当時、米軍統治下にあった沖縄でも移住政策が検討。移住先の一つとして、ボリビアが決定した。五四年八月十五日に琉球政府第一次計画移民二百七十五人、引き続き、同九月には第二次移民百二十五人が「うるま移住地」に入植した。しかし、その後間もなく原因不明の熱病が発生、十五人が犠牲となっている。
 翌年八月にはパロメティア移住地に移転したものの、土地獲得の問題が生じて、五六年七月から十月にかけて現在のコロニア・オキナワ第一移住地に再移転。ようやく定住の地を見出し、母県沖縄から後続移民が続々と移住。五七年九月に第二移住地、五九年十一月に第三移住地の建設がそれぞれ始められた。
 第一次入植者以来、六四年まで続いた琉球政府計画移民は、五百八十四家族三千三百八十五人が移住。一方で、度重なる天災などにより、サンタクルース市やブラジル、アルゼンチンに転住する人も数多かった。
 また、八〇年代には日本への出稼ぎにより移住地の人口はさらに減少。しかし、九〇年代には大型機械化による大規模農業が定着し、著しい人口移動はなくなった。
 現在、同移住地には、約二百三十世帯八百七十人の移住者とその子孫たちが生活しており、ボリビア国内各地から約一万二千人のボリビア人が定着しているという。こうした状況を踏まえてボリビア政府は、九八年にコロニア・オキナワを行政区として制定。第一移住地内にオキナワ村役場を設置している。移住地の自治組織「オキナワ日本ボリビア協会」は、半世紀の歴史を広くアピールし、今後の発展を目的に同記念祭典を開催する。 記念祭典行事は、すでに今年七月に駅伝大会と運動会、八月初旬と中旬に野球とゴルフ大会が開かれたほか、今月十四日には、歴史資料館落成式と「コロニア・オキナワの父」と呼ばれるビクトル・パス・エステンソーロ氏の銅像除幕式や記念パレードが実施される。さらに、十五日当日は「コロニア・オキナワ慰霊の塔」除幕式・慰霊祭をはじめ、記念植樹とメインの記念式典が開催。翌十六日にゲートボール大会、九月十八日に沖縄角力(相撲)大会が実施されるなど、イベントが目白押しとなっている。



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