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船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第二部】
あるぜんちな丸第12次航の二等航海士を勤められた吉川誠治さんの寄稿文第二部です。今回は、D.戦後の南米航路と移民輸送 及び E.二世「あるぜんちな丸」の誕生です。1974年2月にクルーズ船客「にっぽん丸」と生まれ変わりましたが76年末、解体のため台湾に曳航されその寿命を終ったとの事、我々より短命だったのですね。感無量です。写真は吉川さんより送って頂いたあるぜんちな丸の勇姿です。


D.戦後の南米航路と移民輸送

太平洋戦争によって日本の海運業は他の産業には類例を見ない打撃を受けました。 特に大阪商船は開戦時の41年(昭和16年)当時109隻56万総トンの自社船を保有し、海運界の一方の雄でしたが、戦争により殆どの船を失い、終戦時には外航航路に就航できる大型船は、引き揚げ船として活躍した台湾航路の純客船「高砂丸」のみで、貨物船は皆無の状態でした。 一方戦時中に発生した政府が民間に対する未払い分や軍需発注に伴う損失の補償、すなわち政府の民間企業に対する債務である戦時保証も全面的に打ち切られました。 中でも大阪商船は海運会社中最大の債務を有していたので、その復興は日本郵船、三井船舶等の他社に比べ立ち後れていたといえましょう。

50年(昭和25年)5月に勃発した朝鮮戦争により、日本の復興が早まり日本の海運業が本格的に外航海運に復帰する条件も整ってきました。47年から始まった日本商船隊再建のための助成策計画造船(註3)により、内航近海用の小型船舶から建造が始まりました。当初、占領軍により建造船舶の大きさ、性能等に厳しい制限が課せられていましたが、漸次その制限も緩和され、第4次計画造船に至りようやく大阪商船は戦後最初の本格的外航船「大阪丸(4,808総トン)」を49年12月、当時のトン数制限5千総トンまでという枠内でを完成させました。

南米航路は大阪商船が開拓した基幹航路です。それを何とか早期に再開を計るべく、他の日本船社の定期航路再開に先駆けて翌1950年7月アルゼンチンのフロタ・メルカンテ・デル・エスタード(Flota Mercante del Estado)社の定期傭船という形をとり、西航南米航路を上記の「大阪丸」を第一船として就航させることが出来ました。 その当時「大阪丸」船長を務められた安藤純一船長とは三等航海士時代「はばな丸」で乗り合わせましたが、ブエノスアイレスに初入港した時、ペロン大統領に官邸に招かれ、謁見する光栄によくしたという、同船長の自慢話を何度も聞かされたものでした。 実際入港してきた外国商船の一船長にその国の大統領が直接会うということは稀にみることでありましょう。 私見でありますが、アルゼンチン、ブラジル等南米諸国の指導者、国民がアングロサクソンとは異なり親日的で敗戦国日本に同情し好意を持っていたこと、又戦前日本から移住した人達の現地での貢献をアルゼンチンの最高指導者が承知していたこと等が、このようなことをさせた理由ではないかと思います。このように南米航路は戦後最初の外航定期航路として再開されました、船が不足していた時代、傘下会社の所有する「長崎丸」「神戸丸」、更には戦時標準船A型と称して戦争中に急造された6、500総トンの低性能船を、何とか地球の裏側までの長大航路に耐えるように補強改造し、船隊に加えて南米航路が維持されました。

第5次計画造船に至り、これまでの制限が大幅に緩和され、本格的な貨物船が多数建造されるようになり、大阪商船も50年12月と51年3月に定期航路用貨物船「あめりか丸」と「あふりか丸」が完成し、51年8月当時再開が待たれていた北米ニューヨーク定期航路再開の第一船として「あめりか丸」が投入されました。
この時代の船体整備は計画造船によるものが殆どでしたが、第6次、第7次前期、及び後期、と船体整備が進み、欧州航路を含め日本発の主要航路は日本郵船、大阪商船、三井船舶、川崎汽船の他,、多数参画した日本船社により運行されるようになりました。

このように急速に再開された外航航路の中で南米航路は大阪商船にとって取り分け重要であり、当時大阪商船外航部門の貨物運賃収入の4分の1強を南米航路が占めていたほどでありました。 折から南米移民が拡大する気運と外務省からの要請もあり南米航路は貨物輸送とともに移民旅客輸送も行うことになりました。 そこでとりあえず1952年12月に就航させた第8次計画造船「さんとす丸」には63名分の特別3等船室を確保することにより、日本商船による移民輸送も再開されました。
当時オランダのロイヤル・インターオーシャン社(註4)も日本から移民輸送をしていました。戦前からの在来船9千〜1万5千トンクラスの貨客船ボイスヴェイン、テゲルバルク、ルイス、チチャレンガ、チサネダ号の5隻が極東・南米東岸間の定期航路に就航していました。こちらの方は東南アジア・アフリカ経由で中国大陸、韓国等からの移民輸送もしており、必ずしも日本からの移民輸送が主目的ではありませんでしたが、相当数の日本人移民がオランダの移民船により南米の地に渡りました。

戦後の移民は農業移民のみならず技能を持った人達も多く、受け入れ先ブラジル政府がこれを歓迎し移住希望者も多くなりました。外務省もこれに応え積極策を取ったので、翌53年には、先に建造された「あめりか丸」「あふりか丸」を定期貨物船から移民船に改造し3等524名の船室を増設し、急速に拡大する移民輸送需要に応じる体制を整えました。
その後、移住者輸送に一層積極的になった外務省の要請もあり、9次後期の計画造船で、本格的な移民船を建造されることになり、54年7月10日「ぶらじる丸」が誕生しました。 これにより「あめりか丸」「あふりか丸」が各々約500名、「ぶらじる丸」が約1000名弱の旅客定員を要する移民船として、「さんとす丸」を加え戦前南アフリカ経由の航路をパナマ運河経由に変えて本格的な移民輸送が始まりました。 ただ4隻のうち「さんとす丸」のみは未だ特3等船室定員63名のままでしたので、1957年「あめりか丸」「あふりか丸」同様の500名定員の移民船に改装され、500名以上の船客収容量をもつ4隻の移民船が揃いました。

(註3):戦時補償を打ち切られた日本の海運会社には、船隊を整備するための建造資金を確保することが困難であったので、日本開発銀行より資金の大半を低利で融資する制度。
(註4):同社は後に姉妹会社のネドロイド社に吸収され、更に英国のP&O汽船会社と合併し、現在は“P&O Nedlloyd”汽船会社として存在しています。


E.二世「あるぜんちな丸」の誕生

しかし、「ぶらじる丸」は16.5ノットで航行でき、日本・南米間を4ヶ月で往復できたのですが、他の3隻は航海速力が14ノットで4ヶ月ターンで航海することが出来ず、当時マンスリー・サービスを前提とする定期貨客船航路を完成することが出来ないという問題がありました。一方、更なる輸送需要も見込まれる状況にあったので、もう1隻の本格的移民船の新造計画がなされ、1958年に前記のような要目で二世「あるぜんちな丸」が誕生することになったのです。 これで毎月初旬に日本を出航する東航南米移民航路が完成されました。5隻でマンスリー配船され、「ぶらじる丸」「あるぜんちな丸」は4ヶ月で航海することが出来ましたので、他の3隻は1航海する毎に貨物船として臨時に短期の他航路に配船されていたわけです。このように期待されて建造された「あるぜんちな丸」も皆さんが乗船された第12次航前後から移民輸送が激減し始め、はからずも移民船として建造された最後の船となりました。

戦後大阪商船の船は殆ど現在の三菱重工業(株)(註5)神戸造船所で建造されていた例に漏れず、本船も同造船所で建造されました。 当時は未だ移民輸送の増席の要求が強く、早期の就航が待たれていましたので、船台期間121日、艤装期間81日、通算202日と貨客船としては随分早いピッチで工事が行われ完成しました。
「ぶらじる丸」とコンビを組むため、同型船として計画されましたが、船の長さ、速力は同じでしたが、船幅は若干(0.8メートル)広くなっており、外観も内容も少し違った船になっていました。 最大の違いは主機関です、同じ9千馬力でしたが、「ぶらじる丸」はディーゼル、「あるぜんちな丸」は蒸気タービンが採用されました。

船の推進主機関としては主にディーゼル・エンジンと蒸気タービンがあります。 燃料消費量の多いタービンはディーゼルに比較して経済的に劣るという評価は戦前より定着しており、特に戦後間もなく、ボイラーで燃焼する程度の質の悪い重油でも大型舶用ディーゼル・エンジンでは使用可能となっていましたので、この傾向は一層高まっており、「あるぜんちな丸」建造当時、油タンカー(註6)を除いて殆どの船はディーゼル推進船として建造されていました。

大阪商船も戦前の一世「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」にもディーゼル機関を採用しており、戦後もディーゼル船主導で50年就航の「大阪丸」から64年商船三井となる直前に竣工した鉱石運搬船「さんちゃご丸」まで37隻を新造しましたが、タービン船は貨物船「大阪丸」、油送船「おりおん丸」、貨客船「あるぜんちな丸」の3隻のみでした。

ディーゼル船は航行時振動騒音があり、タービン船は静かに走るという、お客を運ぶ船にとっての利点は、燃料消費量問題の経済的利点に勝てず、「ぶらじる丸」もディーゼル船でした。「あるぜんちな丸」が敢えて不利を承知で主機関にタービンを採用したのは船客のためではなく、新三菱神戸造船所の造機工場のディーゼル部門の製作余力が無く、且つ工期が急がれていたこと。それに加えて、その数年前まで蒸気タービンの製作能力がなかった神戸造船所が、急増する油タンカー等の輸出船に対処するため、アメリカのウエスティング・ハウス社からタービン製作のライセンスを取得し、蒸気タービン製作も可能になり、工程に余力があったことが主な理由です。
「あるぜんちな丸」はタービン船となった結果、クルーズ客船として改造された後においても、運行面における経済的不利は克服できず、船としての寿命を短くしてしまう結果となりました。

1974年2月誕生した神戸造船所でクルーズ客船「にっぽん丸」と生まれ変わったわけですが、移民船として13年4ヶ月、南米東岸ブラジル、アルゼンチン航路を40航海勤めました。 その後クルーズ船に活路を求めたわけですが、移民船からの改造船で勿論本格的なものではなく活躍の場は広いものではありませんでした。しかし、南米航路という一定の港しか寄港しなかった本船も東南アジアの港をはじめ世界の港を訪れるようになり、それなりに評価され活躍をしたと言えましょう。 特に団体貸し切り船として「内閣青年の船」「各都道府県の青年の船」等、日本の次代を担う若者の研修の場として、又海事思想の普及の場として、白い船体に塗り替えられ、戦後の日本商船隊の中で特別な地位を保ちながら、76年末、解体のため台湾に曳航されその寿命を終わりました。

(註5):「あるぜんちな丸」建造当時は三菱3重工合併以前で新三菱重工業(株)、三菱の名称復活以前は中日本重工業(株)、
(註6):油タンカーは比較的大型で、エンジンもそれなりに大出力機関が必要であったこと、及び貨物油槽の加熱やタンク洗浄の際に大量の蒸気を必要とし、大容量のボイラーが不可欠で、主機関駆動用の大型ボイラーを持った蒸気タービン推進タンカーも多数建造された。



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