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【21年間の軍事政権を考える】 赤嶺 尚由さんの寄稿文。「ブラジル移民 戦後移住の50年誌」より転載
サンパウロにお住みで元邦字新聞記者として活躍され現在は、人材銀行社長としてブラジル日系コロニアの指導者のお一人と目される赤嶺 尚由さんが戦後移住50周年記念誌に寄せられた掲題の寄稿文を転載させて頂く事になりました。同記念誌編集責任者の関昇さんより下記コメントを頂いております。
 【本文は、「ブラジル移民 戦後移住の50年誌」から転載したものである。第二次世界大戦で中断されていた日本からのブラジル移住が1953年に再開され、満50周年を向かえたのを機に、ブラジルニッポン移住者協会(小瀬真澄会長)により企画、発刊されたのが同誌であり、ブラジル、日系コロニアに関するいろいろ示唆に富んだ寄稿文のほか、興味深い座談会の内容なども掲載されている。】
写真は、赤嶺さんがボリビアを訪問された時に撮られたお気に入りの写真を送って頂きました。


21年間の軍事政権を考える
                   文責・赤嶺 尚由

1964年3月に発生したブラジルの三月革命(実際は軍事クーデター)によって樹立された軍事政権(軍政)は、85年3月までの都合21年間にわたって続いた。また、その受け皿みたいな形でほぼ同時期にスタートした民主政権(民政)も、これまでに約20年近い歳月を数え、それぞれがほとんど同じスパーンの歴史を刻んできたことになる。

その結果、今頃になってやっと見えてきたのは、まるで朽木が倒れるような無残な格好で終焉を余儀なくされ、ずっとあしざまに言われてきたはずの軍政にも、改めて見直さなければならないその存在理由があり、曲がりなりにも、与えられた役割を果たすことができたという事実と、まず何よりも民意を重んじなければならないはずの民政だからと言って、決して結構尽くめの良いことばかりではなかった、という点も指摘して置きたい。

また、ある程度の時間のフィルター(濾過装置)を通して公平に歴史を俯瞰するようにすれば、軍政が頭からすべて悪玉とは限らない事実も、おぼろげながら見えてきそうな気がする。軍政と民政にプラスマイナス20年ずつの歴史の風雪が流れることによって、それぞれの持つ肯定的、否定的な側面に就いて、より客観的な評価が下せるようになった、と考えられる。ブラジルの軍政(三月革命)も、歴史上の漸くそういう状況の中に立たされているのである。

普通、軍人(部)を中心として打ち立てられた政権というと、すぐに一般国民の自由を大幅に奪う専制、不穏分子を抑え込むために鉄砲を振りかざしたり、軍靴を高鳴らせての圧政、諜報機関を使ってのスパイ行為と有無を言わせぬ血の粛清を連想させる。クーデターの落とし子である軍政には、そういった言わば「鉛(弾丸)の時代」のマイナスのイメージばかりが数多く付きまとっていたことも確かだ。

軍部を主体にしたブラジルの三月革命にも、暗い負の部分がなかったわけでは決してないが、しかし、なかんずく、他のラ米諸国の軍事政権が残した凄まじいばかりの傷跡と比べると、特に64年3月の軍事行動の決行時には、無血主義とも言うべきソフトランディング(緩やかな着地)を果たした、とも形容できるのではないか。

別に、今頃になって、ブラジルの軍事政権を礼讃し、その肩ばかり持つつもりは、毛頭ないけれども、やはり、他のラ米諸国のそれと比較して際立つことは、軍事行動そのものによって、国家の最も大事な生命線、例えば、経済活動に俗に言うルピトゥーラ(断絶)といったような不幸な事態をさほど起こさせなかった事実である。

さらに、この国の軍政の比較的強い責任性を示すものとして、巨大プロジェクトの推進のため、先進諸国から盛んに借り入れた巨額の資金が民政移管後に、大変な負の遺産をもたらすような結果になったとは言え、少なくとも政権の存続中に一方的なモラトリアムの宣言などを行うこともなく、できるだけ国際信用を重んじて、各種協約類の遵守に努めたことは、特筆に価する。

軍政時代の輸入代替政策などの行き詰りとか、二度にわたる石油ショックへの対応がかなり後手に回ってしまい、適切な引き締め政策の採用を見失ったために、結果的にインフレ高進の芽を作り、それがやはり民政時代になって、日替わりというような表現も決して大げさでない位の水準で、激しい物価高騰を誘発させたが、70年代のブラジル経済の奇跡が併せて演出されたし、この国の開発促進、引いては、経済の国際化への地固めが大いに進められた点も認めなければならない。

そのことは、政権の座に就いたブラジルの軍部首脳がなかんずく三月革命の初期の頃は、経済の分野に素人である点を自覚して下手にでしゃばらず、例えば、第一次カステロ・ブランコ軍事政権の時のロベルト・カンポス氏(企画相)とオタヴィオ・ゴウベイア・デ・ブリオンエス氏(蔵相)の民間人コンビを皮切りに、後に経済専門家として国際的に名を馳せたたデルフィン・ネット氏(蔵相―企画相)、マリオ・エンリッケ・シモンセン氏(蔵相―企画相)などを輩出させる遠因になった。

そういった一つの流れを見てもよく理解できる通り、「軍事政権下であっても、経済政策は、文民(専門家)主導にしよう」といった不文律みたいなものが次第に確立、踏襲されていったのである。ブラジルの軍政の一種のSabedoria(英知)といっても、いいのではないか。これが余計な経済混乱を回避し、諸外国からともすれば、軍事政権というものに向けられがちな胡散臭さを最小限に抑え、国際信用を繋ぎ止め、後の経済発展の基礎を固めさせた一因である、と捉えたい。

経済政策面での無茶苦茶な運営の仕方が比較的目に付かなかった分だけ、五代に亘った軍事政権側の政治政策面におけるやりたい放題なところ、その恣意性、あるいは、独特のカズイズモ(牽強付会=こじつけ)などが目立ったではないか、という疑問の声は、確かに強い。それを証明するかのように、自分たちには至って都合がいいが、国民の間で非常に悪名高かったあの伝家の宝刀みたいなAI(軍政令)を都合16回も出し、憲法の効力を上回るような強権を発動させ、国会の機能をある一時期、相当形骸化させたこともあった。

成る程、憲法上の規定を都合よく解釈したり、勝手に改正したりして、総選挙などの政治上のイヴェントが既に始まった段階でそのルールを突然改め、ともすれば倒れそうになりがちだった時のひ弱な与党(ARENA)が国会で何とか必要な議席を守れるようにゴリ押し的に肩入れした例も散見されたが、これは、民政に復帰してからも、サルネイ大統領が自分の任期を延長したり、FHC大統領が憲法修正を通じて再選可能の規定を新しく設けたり、別に軍政の専売特許ではなかった。

既に前述した通り、1964年のブラジルの三月革命は、本来、クーデターの形で決行された。では、軍部内に充満した欲求不満のはけ口として号令の下された軍事行動がやがて「三月革命」という、一段と崇高な形で支持されていったか、というその理由は、取りも直さず、国民の間からそのように受け入れられる素地を備えていたからだ、と判断される。それには、もともとあまり荒っぽくない、平和を好むこの国の国民性も大いに寄与しているように思える。

この事実は、やはり、軍部にとっても、いや、とりわけブラジル国民にとって、極めて幸運な事であったと言える。「革命」という貴重な冠(かんむり)をかぶせることにより、軍部も国民も、革命以後の流血騒ぎなどの騒乱に発展させることを極力自制しつつ、速やかに革命政権下における新しい秩序の回復に共に手を携えることができたからである。クーデターでありながら、同時に民衆から受け入れられる革命の要素を充分に備え、流血などの最悪の事態を最小限に抑えていたそのことに、もっと注目すべきだ、と考える。

元来、ポルトガツ系の血を多く引くブラジル人は、走り出す前に物を考えると言われ、その点では、走り出してから物を考えがちなスペイン系の他の中南米諸国民とは、軍事行動の際の手法も、無血か流血か、で著しく異なってくるような気がする。ブラジルの軍部主導による三月革命の時に比較的流血騒ぎが少なかった原因は、走り出す前に考える国民性があったお陰で、それは、チリ、アルゼンチンなどで発生した軍事行動と比較してみれば、一目瞭然であり、おそらく別の大変な幸運と言わなければならない。

軍部が64年3月に軍事行動を起こした目的の一つは、かなり出かけていたインフレ高進の芽を摘み取ることのほかに、時のゴラール政権内で暗躍しかけていた共産分子の追放と政府内の奥深く巣食い、蔓延しつつあった不正汚職を一掃することにあった。軍事政権の時代にも、やがて時の経過とともに、不正汚職がはびこるようになったが、最初は処女のごとく、後は脱兎の如くの諺通り、特に軍政の初期の頃には、一種の慎ましささえ心得ているような感じであった。

振り返って見ると、非常にユーモア感覚の発達したブラジル人の生んだピアーダの中でも、傑作中の傑作と思われるものの中にあの「64年の三月革命後に政権の座に就いた右よりの考え方をする連中は、右手で盗(と)り、85年の民政復帰後に政権の座に復帰した左寄りの考え方をする連中は、左手で盗り、そして、95年に政権の座を握った中道の連中は、両手で盗る」という面白い警句がある。

なるほど、浜の真砂は尽きるとも、不正汚職の消えたためし無し、とよく言われるが、こういう左右の手や両手を使って盗む云々の傑作がこの国で生まれたのも、実は民政時代の不正汚職のスケールがますます拡大して、歯止めがかからなくなり、さらに、増幅されて以後のことであった。

21年間の軍政時代というのは、この国の歴史のほんのひとコマにしか過ぎない。今頃になってこれほど見直される軍政なら、なぜもっと続かなかったという当然の疑問に対しては、いくらおいしそうな美辞麗句で飾られていても、所詮、民主主義のルールに則っていない政治体制である以上、いつまでも存在し続けることは不可能であり、そこにこそ、又、民政当事者たちの噛み締めるべき尚一層の責任性も出てくる、と言えよう。

いずれにしても、21年間に亘った軍政には、軍人大統領という五人の泣く子も黙るような怖い存在の群像たちがいた。そして、ごく当然のように、軍政時代のより早い時期に最高権力者の座に就いた元帥や将軍たちほど、その憂国の情や力量や人品骨柄の点でも、一段と優れていた感じがしてならない。従って、せめてものあと数年、早くこの「鉛の時代」に終止符を打たせておけば、軍政もまたもう少しはポジチーブな評価を受けていたであろう。

軍事政権の幕引き役を演じた「最後の将軍」は、いささか疲れて多少ふて腐れた感じを漂わせながら、「俺は、人間の臭いよりも、馬の臭いの方が余程好きだ。」とか、「大統領の座を去ったら、一日も早く俺を忘れてくれ。」などと、有名な威勢の良い啖呵を切った。国民の臭いよりも馬の臭いをより好んだこの野人肌の大統領は、言わずもがな、権力の座から降りた途端、わざわざ自分から注文をつける必要もなかった位の速さで、瞬く間に忘れられていった。

いくら軍人大統領とは言え、国民の肌の臭いよりも、馬の臭いの方が好きだ、と広言して憚らない一国の最高指導者なら、国民の方から進んで願い下げということに違いない。国のずっと下の方にいるサイレント・マジョリティ(物言わぬ大衆)は、見ない振りをしていて、そこら辺の見るべきものを、ちゃんと見ている。

それが又、疾風怒濤のようなあの軍政時代に、もっと悲惨な結果をもらしかねなかった彼らの暴走にかろうじて歯止めをかけさせ、その政治姿勢を牽制させた、言わば馬に当てるムチみたいなものであったような気がしてならないのである。  
(筆者はソール・ナセンテ人材銀行代表)



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