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【感動の嵐を起した小泉首相】グァタパラ移住地にお住まいの荒川 勝彦さんのグァタパラ新聞356号に投稿された感激の手記。
9月に来伯された小泉首相のブラジルに置けるパーフォマンスは、作為よりその人柄を偲ばせる数々のエピソードを残して行かれましたが、その極めつけともいえる移民発祥の地グァタパラへのヘリによる突然の着陸は、予想外の行動として長く語り継がれて行く事になると思いますが、その場に居合わせた荒川さんの感激覚めやらぬ語り口には臨場感が溢れ読んでいて自分もその場に居合わせている感じがします。グァタパラの戦後移住地としての造成は私たちの着伯と同じ1962年の1月であり移住地40周年記念に同地を訪問しイッペーの植樹をさせて頂きました。自分達で植えたイッペーの咲く頃にまた訪問したいと願っておりその時には小泉首相が降り立ったサッカー場に佇みその日の様子を荒川さんの書き残されたこの文を思い出しながら思いに耽って見たいと思います。
あるぜんちな丸第12次航でも7家族42名がグァタパラに入っており今も見尾さん、小島さんの2家族が残っています。青年隊の小山徳さんが送って下さった写真には、同船者の小島さんご夫妻が小泉首相の直ぐ近くで笑顔を見せておられます。画像掲示板にも写真を掲載しておりますが、ここでは小泉首相の左隣りに並ぶ同船者の小島智子(旧性見尾)さんの写真を使わせて頂きました。左端は堀村大使です。
『私たちの40年!!』HPのリンク集にもグァタパラ移住地のHPをリンクしておりますが、まだ更新されていないようですので、今回は、小山徳さんより写真と共に送って頂いたものを使用させて頂きました。小山さん有難う御座います。


グァタパラ新聞356号より
小泉首相グァタパラ移住地に降り立つ 
 日本の小泉首相はブラジル訪問初日の九月十四日午後、農業視察でアルコール燃料、製糖会社のある移住地の隣、プラドポリスに行く途中ヘリコプターより移住地の拓魂碑に花束を投下する事になっていたが、三台のヘリコプターの内の一台が、目印としてグランドに「カンゲイ小泉首相」と日の丸を石灰で書き、日伯両国族と鯉のぼりを立ててあったグランドの隣のサッカー場に降り、小泉首相、アルキミン サンパウロ州知事、在ブラジリア堀村日本国大使等がヘリから降り、手を振って待っていた約百名の移住者全員と握手、記念写真を一緒に撮り、まさか降りると思っていなかった移住者に涙と大きな感動を与えてくれた。
 その後の十九日夜、再び感動をと、NHKニュースやその時撮ったビデオ鑑賞を兼ね、何故降りて下さったか等の説明会を夕食にカレーを食べながら行われた。
 その説明によると、その十日前総領事館よりプラドポリスに行くのでグァタパラの上空を通ると連絡があり、電話を受け取った新田文協副会長に、テロ対策の為会長初め誰にも極秘にしてほしいとお願いされ、新田副会長は、小泉首相のお父さんは鹿児島生まれであり、笠戸丸移民は殆ど鹿児島県出身で有る事から、先にグァタパラ移民百周年委員会が作成した笠戸丸移民の資料、全てを領事館に発送。又十四日、日本文化協会で行われた日本移民百周年協会へグァタパラ事業の説明会に川上文協会長初め四名が出聖、その時、グァタパラ上空を通るなら、笠戸丸移民が眠る拓魂碑に花束を投下してほしいと領事館を通しお願いした。
 又川上文協会長は、グァタパラに降りて下さったお礼を一言述べようと十五日の歓迎会に参加した折り、警備は厳しかったが間隙を縫って無事近づき、先日のお礼を言う事が出来、後日、グァタパラに降りた時の写真の裏に領事館を通してサインを貰うことも出来た。
 その他は日系新聞二紙に大きく報道されており、小泉首相の涙についてもいろいろ取り沙汰されている。又グァタパラでもまさか降りるとは思っていなかったので、各家庭では庭に出たり、飼料タンクの上でヘリに手を振ったりしたが、高い所からは良く見えるので、小泉首相等の目にも入った事と思う。その他詳しくは荒川氏の 手記をご覧下さい。


感動の嵐を起こした小泉首相
                                     荒川 勝彦
 二〇〇四年九月十四日、午後三時三十五分頃、私達の移住地内サッカー場には突然感動の嵐が発生し、そこに居合わせた数多い村民の心の深くに消すことのできない強い衝撃を与えて去って行きました。
 太陽の日差しもまだ強烈で、およそ二ヵ月間雨が降らず、乾燥して湿度は異常に低く、風の強い中での十分間ほどの出来事に私たちは何が起こったかを考える余裕は全く無い混乱と興奮の中に引き込まれ、ある人は叫び、ある人は顔面を涙で満たして顔をゆがめて声も出ず、握手攻めをし、肩にさわり、背広を引っ張り、誰からともなく万歳をいく度も繰り返し、写真を撮る人、撮られるためにできる限り近くへと接近して並ぶ人。そこに集まった村民約百名の-人一人は恐らくあの瞬間自分がどの様に行動したのか、その一部始終を正しく思い出せる人は誰ひとりいないほど興奮に包み込まれた精神状態となっていました。
 この日は午後二時頃より、村民が三々五々運動場に集まってきました。背広を着たり、正装をしている人は誰ひとりおりません。皆がふだんの作業衣のま々とか、ゲートボール用ユニホーム姿でした。
 軍用ヘリコブタ-に搭乗してサンパウロ市を午後二時に出発、プラドポリス市方面の農業地帯視察訪問の途路、移住地上空通過時に拓魂碑への献花用花束を空中投下する予定。移住地への着陸は無しとの公式緊急連絡が前日の午後に届いた為、時間的余裕は全く無く、文協執行部のみで早急な歓迎準備体制をとらざるを得なくなりました。世界各地で要人を狙ったテロ事件が頻発しているときでもあり、訪問日程の細部は極秘にされる事がむしろ当然となっており止むを得ないことでした。
 当日の十四日は文協執行部のうち川上、新田、脇山謙介、林の四氏が早朝よりサンパウロ市在のブラジル日本移民百周年協会との打合せの日として前々から決定していた事から、移住地には残る事ができず、後を託された岡田、白水、脇山稜吾、馬庭、荒川の五名と自発的に協力を申し出た斉藤長一、岸田博志、合わせて七名だけで迫り来る時間を気にしながら運動場での歓迎準備を進めたものでした。大きな布や紙を使ったり、人文字での歓迎など種々な案は出ましたが、上空通過予定時間を考えると材料集めなどに時間が掛かりすぎるため、無理でした。
 村民に対しての通過のニュースは電話や口頭で流すよう努力しましたが、全戸に漏れなく伝えられたとは言い切れず、お許しを頂かねばなりません。
 予定の三時少し前になってもそれらしき機影が空に現れず、望遠鏡であちこちを探す人もおり、集まった村民の中からは「何か予定を狂わせる事件が発生したのでは?」 「サンパウロ市の集中豪雨とかの悪天候で飛び立てないのでは?」などと心配する気配も出て、さらに
 「もう来ないようだから家へ帰りたい」という高齢者が増えてきたので、文協で何か一言説明して欲しい」との声も上がりました。新田孝二さんもサンパウロ市に出ている築兄さんに「オイ兄貴-いつまで待っても首相は到着しないがどうなっているのか-サンバウロ市からは出 発したのかどうか調べてくれ!」と頼んだりしました。
近藤四郎さんもジャタック経由で調べ 「あと五分後には上空通過見込みとの情報をキャッチしましたが、その後もかなり長く待ったような気がします。
  おそらく、三時半頃であったと思いますが、サンパウロ市とは反対方向にある吉永家の上空方向からヘリコプターが一機、二機、三機と順に姿を見せ始め、その機影 がどんどん大きくなり、爆音が聞こえる様になり、待ちくたびれた村民も「来たぞ、着いたぞ、日本国総理大臣が無事やってきた-」と大歓声を上げ、飛び上がって跳ねるなどをして、喜びました。
市街地区の上空に至ると三機とも運動場を中心にして円を描くように轟音と共に上空での旋回を始め、村民は手、帽子、日の丸の旗を振り、大声で叫び、万歳をして歓迎の気持ちを表しました。
 おそらく二度目の旋回の時、花束が一つ投下され、墓地近くの地上に落ち、次の旋回の時にはさらにいくつかの花束が投下され、これはサッカー場内に落ちた様でした。
 「万歳-万歳-ありがとう。ありがとうじさよなら。さよなら!」のあらん限りの叫びも上空のヘリコプターまでは届くことはなかったでしょうが、蓄びの姿が首相の目に止まったかもしれません。
 花束投下を終えて、これで、私達とも別れて、次の目的地に向けて去って行くものと全員が考えていました。
 三機とも移住地上空を離れて行く態勢に入ったように見えました。しかし、三機の内の一機が上空でストップし、 同じ位置に教秒間止まって何かを考える様な姿勢をとりました。そしてその一機のみがサッカー場の芝生を目指して急降下を開始したのです。
  「小泉首相が降りる」と直観した村民は誰もが我先にと狂ったような歓声を上げながら運動場から隣のサッカー場へ向かって一目散に走りだしました。いつもは腰が曲がってゆっくりゆっくりと歩く老人も、この時ばかりは不思議な事に腰が伸びて前へ転びそうになりながらも走ってしまったのです。いつも故に振っていた人も杖が後ろになり、足が先に進んで行くような恰好でした。
すごい強風と芝生の中の枯れ草が舞い上がり、プロペラの騒音の中、芝生上に着陸したヘリのドアが開きました。
体格の良い警備官(?通訳官)らしき日本人、アルキミン.サンパウロ州知事、ロドリゲス農務大臣、堀村隆彦大使そして小泉首相がこのグァタパラ移住地の大地に降り立って第一歩を踏みはじめたとき、寺内実雄さん(七十九歳)は真先に走りだし、緊張で足がもつれたのか芝生上にバッタリとひざまづき、両腕を差し伸ばした手の上で頭を上げたり下げたりし、泣きながら絶叫し、続いて近づいてきた首相に飛び掛かり、両手でしっかりと腰を抱きしめてしまいました。寺内さんの姿は恐れ多い天子の前で、興奮に振るえて平伏する庶民のようで、私も一挙に涙が込み上げてきました。この寺内さんの素朴、自然な歓喜の姿を見た他の村民はもう冷静さを保つこと ができなくなり、感動の頂点に達し、先述のような混乱と興奮の中に引き込まれて行ったのです。村民は前進し、首相も自ら村民に接近して前進、その輪の中に入りました。
 この移住地の女性パワーもこのときいかんなく発揮されたようで、ご婦人連の多くが首相のまわりに寄り添ってしまい、握手を求めて差し延べた私の手など素っ飛ばされてしまいました。
 州知事や農務大臣の顔を知らない村民もいて、首相との記念撮影のときなど「アナタは邪魔だからもっとあっちへ行きなさい」と言ったとかのエピソードも生まれました。常に首相のそばに寄り添うべき警護官もこのときばかりはグァタパラ・パワーにはじきだされた恰好で、離れたところから心配そうな表情を見せるだけとなりました。
 映画、演劇、野外ショーなどは人間の感動を呼び起こす目的で、専門家が事前に綿密な計画を練りますが、私達村民の誰ひとりとして初めからこのような熱烈歓迎を心に秘めて計画していたものではありません。本当に予想外のときに、あのような感動の嵐に見回れ、狂喜の状態に陥ったのでした。
 後日、あの時の写真を見ますと、首相と一緒に写した村民の皆が幸せ一杯、恍惚とした顔つきになっているのが判り、これこそが人間の偽りのない感動の姿であり、 表情であると感じました。 日本国内であれば、首相と庶民との間には接近を防ぐため、警備用のロープや移動柵が設けられ、警備の人々がずらりと並びますので、このたびのような機会は絶対に無いでしょう。異国での突然の決意とサッカー場周囲には危険と判断されるものが上空からは何も見当たらない当移住地であったからこそ、実現したものと考えられます。
 私達村民は首相に突然この地に降り立って頂き、村民だけが一方的に素晴らしい感動を与えられたとして、幸福な出来事を在日親戚、友人等にも語り伝えておりましたところ、翌十五日、サンパウロ文協大講堂における日系コロニアとの会合で、『首相が壇上で演説中「ヘリから地面を見たら『歓迎、小泉総理大臣jの文字や鯉のぼりが見えた。花束を上から落とすだけでなく、何とか降りたいとパイロットに頼んだ。』と予定外の行動をとった胸の内を説明、「涙をもって迎えてもらった…。」と語ると感極まったのか、約三十秒間感涙に咽びながらスピーチを中断。(ニッケイ新聞九月十六日記事より)』
 その後さらに地上での素朴な熱烈歓迎についても、村民が自分の着陸に歓迎してくれたが、自分もまた大きな感動を与えられたと言及したのです。
人が満杯となり、外にあふれる人がいた会場ではほとんどの人が首相の涙と姿に貰い泣き、この会場に居合わせず、この話を伝え聞いたり、新聞を読んだ人も感動の涙を流したとのことで、ブラジルの日系コロニアばかりでなく、日本のテレビ、ブラジルの大新聞にも報道されるというように、このたびの出来事は次々と多くの人々に伝えられ、感動の波を広げ、移住地への賛辞を高めていったのです。
 私達村民が首相に大きな感動を与えられたとして喜んだ姿が首相自信に感動を与え、首相の涙や姿を見た人、聞いた人達にも感動を与え、そして外部の無数の人々からグァタパラ称賛の拍手喝采を頂いた村民が反響の大きさに再び感動してしまうというありさまで、感動が一巡するという珍しい現象を発生させてしまったのです。
 花束の投下を終えて上空から別れ去って行こうとしたあの瞬間、小泉首相に、この地に降り立ちたい、この地を踏まねばならないという強い衝動を引き起こしたのはいったい何であったのでしょうか!南米の異国の大地に直接石灰で描かれた歓迎の文字や日の丸、パタパタと強風の中を泳ぐ鯉のぼりであったか、「総理!この地は日本移民発祥の地です。 母国日本の反対側の遠隔のこの地にも戦後移住した日本人同胞が望郷の念にかられながらも、定着し、必死に頑張っております。 総理!二度とは無いこの絶好の機会を逃してはなりません。この地に降り立って下さい」と拓魂碑の笠戸丸先駆日本移民の霊が首相を導いたのでしょうか。
 首相の父は鹿児島県人、幼い時、一番親しかった従兄弟の井科さんも鹿児島県人で、数十年前よりブラジルに移住しており、笠戸丸移民グァタパラ耕地配耕者の大半(約八割)が鹿児島県人という奇縁がひらめいたのでしょうか。 理由はどうあれ、このたびの出来事の発端は、予定外の行動が空中で一瞬の内に決断された事です。
 日本国民一億二千万人の頂上に立つ人物だけに、普通の人にはないひらめきと、これを実行に移す勇気、人情味を兼ね備える魅力有る男であることを私達の面前で立証しました。
 私達村民の多くはおよそ四十年前、この移住地を選択し、この地の自営農としての移住、入植を決意して渡伯したのですが、この地が笠戸丸第一回日本移民の配耕地であったからという事を選択理由にしたのではないでしょう。しかし、現在の移住地七千数百ヘクタールは正にこの笠戸丸移民配耕の旧グァタパラ耕地の中に存在しているものであるため、第一回日本移民と関わりのある由緒ある移住地としてブラジル国内外から称される宿命を背負っています。これは逃れる事の出来ない宿命であり、この宿命があるゆえに今回のような歴史的出来事の瞬間に立ち会う幸運があったと言えるかもしれません。
 このたびの感動と反響はあまりにも大きく、このことは私達村民達だけでなく、多くの人々に語り伝えられていく事になるでしょうが、一層忘れ難いものとする為に、おそらく当地文協公民館前敷地を利用した、小泉首相着陸記念碑建立の話が出てくることになると予想されます。
 今回のブラジルへ外遊に関しては、公式業務中のものよりむしろ予定外のグァタパラ移住地での出来事こそが首相にとって最も強い印象を残したものであったかもしれません。
 戦後造成のこの移住地四十二年の歴史を振り返っても、これほど大きな感動を移住地内外に与え、大反響を呼んで「グァタパラは良くやった」との好評喝采を博したことは、他には無かったかと考えます。
 当地文協は、日本での村役場的存在であり、日常の多忙な業務は会長単独ではなく、献身的姿勢で連日無給奉公の出勤を続ける新田副会長は特異な存在としても、その他数多くの奉仕精神豊かな人々の協力の下に進められておりますが、何か問題が発生すれば一番先に批判され、責任を取らされるのは会長となってしまいます。従ってこの逆に、文協に関連する快事や快挙が発生した時、最初に賛辞を受け、最高の名著を得るのも組織の最高責任者である会長であるべき事は当然至極かと思います。 現在は通算第四期目の会長職にある川上淳さんですが、このたびの事は四任期中最良、最大の出来事であり、「俺の時代にこんな素晴らしいことが実現した!」と誇りに思って下さい。 共にこの感動を味わうことなく、惜しくも早々と天に昇ってしまった正代夫人にも二度とはないこの興奮と喜びをしっかり伝えて下さい。
 私自身、現在の医学では完治不能の長年の持病が悪化しないようにと、二年はど前からこのサッカー場の芝生の上を週に四―五回、年にして二百数十回早足歩行、ウォーキングを続けています。年齢も加わり、自分の将来に残された時間よりすでに過ぎ去って行った年月のほうが圧倒的に長くなりますと、将来の事など考えなくなり、過ぎし日々の中での若かりし頃の楽しかった出来事のみを思い出しながら歩くことが多くなっています。これからこのサッカー場の芝生の上を何度ウォーキングすることになるのか予想できませんが、おそらく「この芝生上には小泉純一郎日本国総理大臣が降り立ち、笑顔と感動をくれたのだ」と思い出しながら一歩一歩と歩きつづける事が多くなるでしょう。
 感動の嵐をありがとう!小泉首相!
 (付記)筆者自身、感動の嵐の中にあって、皆さんと一緒に心を熱くして興奮していた一人ですので、誤った記憶があるかと思います。




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