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【サルバドール雑感】早稲田大学海外移住研究会OB会会長 佐藤 喬さんの寄稿文です。
10月初旬に早稲田大学海外移住研究会のOB一行が来伯、その歓迎会に参加しました。メンバーの一人吉村善智君を案内してクリチーバにお住みの後藤薫先輩、フロリアノポリスにお住みの近藤博之先輩を訪ねましたが、一行の六名がブラジルの古都サルバドールを訪問された。黒瀬宏洋さんが管理しておられる早稲田大学海外移住研究会OB会のページより同会会長の佐藤喬さんが書かれた【サルバドール雑感】と黒瀬さんが書かれた【6人のおまけ旅「サルヴァドール(ブラジル)の巻」】をご紹介させて頂きます。
写真は、同HP掲載されているサルバドールの『ラ・セルダ・エレベーター(高さ73m)の乗降口だ。「下町」から「山の手」の「ソウザ広場」に我々をたちまち運び上げてくれた。』と説明されている有名なエレベータと下町と港を望む一枚をお借りしました。


【サルバドール雑感】 
 在伯の途次、二、三日北東伯、バイーアのサルバドールを訪ねた。
 ブラジル発祥の地、昔の首都、黒人の町、色々な思念が交錯するが、私にとっては、ここがブラジル文学界の「ペレ」といわれているジョルジェ・アマードの故郷であり、彼の数々の作品の舞台となったところであるということが印象深い。
 世界遺産となっている旧い石だたみを通り、彼を記念している文学館、残念ながら日曜日で休館だったが、彼が執筆していたという港を見下ろすホテル等をみてまわった。
 アマードは有名ではあるが、ブラジルの識者の間では評価はあまり高くない。むしろ海外での評価の方が高い。それは、バイーアという地に限定した地方文学であり、又彼のもつ通俗性のなせるわざではないかと思う。文学というのは不思議なもので多情多感な青春時代を生きている者に限らず、何か自分の心の琴線にふれる詩歌や作品にめぐりあうと、心の中に一種の情感が湧き出、なつかしいような、優しい気持ちにかられるものだなと思った。ブラジル五百年の文学は、日本では、殆んど知る人のない非常にマイナーなものではあるけれど、秀れた文学というものは世界的な普遍性をもっているものだと、この町の横路地をぶらぶらしながらそう思った。今ふまばいつふまんこの石だたみを逍遥しながら、ある種のサウダージ(郷愁)を感じた。肉体は老いさらばえても、まだいささかの心の瑞々しさは残っているんだなーと思い、一寸嬉しい気分になったりした。

 町の人達も何となくさわやかな感じで、私の今迄の黒人に対するイメージを一変させた。黒人というと肉厚の顔で、横広の鼻という印象をもっていたが、この町の人は、皆が皆とはいわないが、薄手の顔で、鼻梁は細く高く、髪もチリジリがみでなく、柔らかな直毛で、色こそ黒けれどいくらか内省的な面差しをしている。黒人にこんな人がいたのか、とうたた感がいにふけった。
   サルバドールは海沿いの町、旧き(ふるき)町、行き交う人の美しき町
   サルバドール アマードの故郷(ふるさと)で 彼の世界を 
しばし漂泊(さすら)ふ
    平成十六年十月              佐藤 喬


6人のおまけ旅「サルヴァドール(ブラジル)の巻」
                                      Reported by 黒瀬 宏洋
10/9
 国内線用のコンゴニャス空港の方がずっと近いに拘らず、グアリューリョス国際空港からサルヴァドールへの我々の便はでる。待合室にいると、出発ゲートが急に変更になったようだ。ポルトガル語でアナウンスがあったようで一部乗客が移動を始めた。しかし、英語での案内はなく、掲示板の表示も前のままである。ゲート変更のような重要なことを乗客へ伝達するのにこれでは不親切過ぎる。とにかく、6人で情報を確認し合い、ゲートを間違えずに済んだ。

 なんとか、サルヴァドール空港に到着。ガイドの北村さん(バイーア音楽に惹かれ、ここに住み付き、現地の女性と結婚している若いフォートジャーナリスト)の出迎えを受ける。ガイドの奨めで、夕食は、ホテルから歩ける距離の”Yan Ping”で大盛りの五目ラーメン、五目焼きそばを6人で分け合った。帰り、岡部夫妻、山之内夫人はタクシーに乗ったが、なかなかホテルに戻らない。なんでも、運転手が、ホテルの場所が判らないと、随分遠くまで引き回したという。とにかく、無事に戻って来て安心した。

 ところで、椰子油を使うバイーア料理を食べた日本人は高い確率で腹を下すと聞き、ここでの食事に気をつけることにした。

10/10 (日 曇り)
 AM9時、迎えのバスで歴史地区に向かう。1549年、最初の首都として建設された古都サルヴァドール。パウブラジル(染料)とそれに続く砂糖キビの輸出港として栄えた。砂糖キビ栽培の労働力として西アフリカから連れてこられた黒人奴隷の子孫がサルヴァドール(人口250万強)とその周辺に定着し、今では陽気なアフロ・ブラジリアンの街となっている。確かに街で出会う人々の多くが黒人もしくは黒肌が濃厚な混血である。歴史地区に向かう途中、トロロ湖の中に円陣を組んだ幾体もの神々の像を見かけた。アフリカ土着の宗教儀式であるガンドンブレーの神々という。このようにアフリカから持ち込まれた伝統文化(呪術的宗教儀式、音楽、格闘技=カポエイラ、衣装、料理など)が今日に至るまでここに根強く継承されている。歴史地区の至る所に教会など歴史的建造物が見られる。バイーア出身の詩人名を冠したカストロ・アルベス劇場もその一つである。いつもは人・車で混雑するメインストリートは休日のせいで閑散としていた。ここのカーニバルは一般人も参加し、リオのカーニバルを凌駕する賑わいを呈するそうだ。

 バスは坂道を下り、港に近い民芸品市場(Mercado Modelo)で我々を降ろした。そこには、土産物、衣服、編み物などが所狭しと並んでいた。
 道路を隔てた斜向いはラ・セルダ・エレベーター(高さ73m)の乗降口だ。「下町」から「山の手」の「ソウザ広場」に我々をたちまち運び上げてくれた。上からの眺望は素晴らしい。港を一望しながら、ここに多数の奴隷を載せた船が停泊したのだと、しばし昔に思いを馳せる。広場の脇にある白亜の建物は「リオ・ブランカ宮殿」。1763年リオに遷都するまで総督府が置かれた場所と聞く。
 ここからは、暫く「山の手」内を徒歩で移動する。先ず「ジェズス広場」に向かう。途中、バイーア衣装の黒人女性と一緒に佐藤会長が写真に納まった。撮影料R$2。
 次の目標「サン・フランシスコ教会」は、「ジェズス広場」から更に奥まったところに、やや控え気味に建っていた。内部は金色に輝いていた。そのまばゆいこと。壁、天井が金箔で覆われているためだ。
 「ジェズス広場」に戻り、広場に面したアフロ・ブラジル博物館入口に野口英世博士のレリーフを訪ねた。北東伯で猛威を振るっていた黄熱病の臨検のため、ロックフェラー財団から派遣され、博士はサルバドールで研究に励んだ由。レリーフはバイーアに於いて熱帯医学に貢献した博士を表敬するものであった。
 横の路地に入ると、小石を雑然と敷き詰めた道の両脇にカラフルな建物が並んでいる。ポルトガル色の強い旧い町並みである。民芸品店、カフェ・レストランなどが多い。昼食はそんなレストランの一つでとった。バイーア料理「ムケッカ」は、魚などの海鮮食材を香辛料で味付けしており、カレーライス風な食べ物であった。味は概ね皆に好評だった。
 昼食後、その昔奴隷市が開かれたというペロウリーニョ広場にでる。かなり傾斜した広場の一番高いところに明るい青色をしたジョルジェ・アマード館がある。そもそもサルヴァドールを訪問するきっかけは、アマードに傾倒する佐藤会長の強いこだわりがあったからだ。彼にその思いを寄稿してもらっているのでアマードのことはそちらに譲ろう。この広場の高い位置に立ち、低い方を見下ろすと、密集した旧い建物群の間に幾つか教会の尖塔が覗いている。まさに、世界遺産に登録されている歴史地区の真っ只中にいると実感できる。坂を下ってバスの待ち合わせ場所に行く。

 バスは海岸に向かう。サント・アントニオ・ダ・バーラ要塞とそれに隣接するビーチは市民・観光客で賑やかであった。しつこい物売りにつきまとわれもした。水着姿でしばしこのようなビーチに寝そべるのも悪くはなさそうだ。いつかそんな旅を楽しみたいものだ。
 ホテルへの帰途、なかなかモダンなショッピング・モールに立寄る。古都の雰囲気から急に現代に引き戻された感じを受けた。

10/11(晴れ)
 今日はサルヴァドール郊外ツアーに出掛ける。北村さんの他に現地男性ガイドがつく。目的地は事前に知らされていない。旅行計画作成段階で旅行社には、もし残っていればサトウキビ畑そして黒人社会をより濃厚に味わえるサルヴァドール後背地を見たいと希望を入れておいた。

 車は高速道路R324に乗る。トドス・オス・サントス湾の奥に近いサント・アマーロとカショエーラを訪れるという。途中、カカオ栽培などの研究所に立寄ったが休みであった。ゲート前からカカオの木を覗き込みながら、現地ガイドからカカオ豆収穫方法等の薀蓄を聞くことになった。彼いわく、
「カカオの木は成長するまで10年かかる。収穫は年2回、6月と12月。うり状の果実がつき、厚い果肉の中に球状の種子が50〜100個入っている。種子を天日で乾かし……」
 現在、カカオ(原産地はメキシコ)の主産地は西アフリカだが、作家ジョルジェ・アマードの父親がバイーアのカカオ園オーナーであったことから、ここバイーア州も有力産地の一つであると判る。 
 サントアマーロ市(人口2万5千)に車が向かうと、沿道にサトウキビ畑が見えてきた。実は、我が世を誇ったサトウキビ栽培も今ではすっかり凋落したと聞き及び、サトウキビ畑がまだ残っているとは期待していなかった。しかし、その片鱗がまだ残っていた。
 街に近付くと廃墟と化した農場主の邸宅跡、砂糖精製工場跡が眼に留まり始めた。市中に入っても、昔は立派であったろう建物が空虚化してところどころに残っていた。「砂糖景気の夢の跡」を見せ付けられ、いささか世のうつろいのはかなさを感じた。
 他方、サトウキビ栽培でこき使われた黒人奴隷の後裔は今どうやって生活しているのだろうか?砂糖産業に代わる産業らしいものも見当たらない。休日でもないのに、広場で座り込んだり、ぶらぶら歩いている人々は黒一色。奇妙なことに、鳥かごを手に下げて歩く若者がいる。鳥を散歩させているらしい。ガイドの説明では、公務員の仕事につく者が多いという。しかし、皆が公務員になれるわけもあるまい。自給自足で食うには困らないのだろうか?(帰国後、サトウキビから作られる「バイオ燃料エタノール」の日本売込みに伯政府が力を入れている、とのTV番組を見た。エタノールでサトウキビ栽培の勢いが復活するかも?)
 現地ガイドが、青空市場に我々を誘導する。色々なもの(ファリーニャと呼ばれる得体の知れない赤い液体でこれを犬が飲むとクラクラするとか、マンジオカの粉、香辛料などなど)が売られており、市場は混雑しているが、買い手より売り手の方が多い感じがした。日本人が珍しいと見えて、子供たちが付きまとってくる。後で団員に聞くと、この市場をひやかして歩いたのがとても面白かったという。メイン通りのカフェテリアでトイレを借り、この黒人の町とお別れした。
 途中、土地なし農民運動(MST)を実践している団地に立寄った。国有地を集団で無断使用している現場である。観光名所化しているのかドイツ人の一行も見物していた。ここでカカオ豆を天日干しする工程を目撃することができた。
 パラガス川に面するカショエーラに向かう途中、瘤のある白い牛が放牧されている。インドで路上に寝そべっている聖なる牛に似ていると思ったら、案の定インドから連れてこられた牛で、肉牛として飼育されているという。インドに残っていれば、食べられことはなかろうに、牛にとってなんと災難であろう。乾燥した気候に適応性があることを買われて持ち込まれたようだ。なお、ここの牛は牧草だけで育っているのでBSEの心配はないとガイドが胸を張った。
 パラガス川にかかる狭い鉄橋を渡り、眺望のよいファゼンダ・サンタ・クルスで昼食をとる。魚、ビーフ、鶏肉から一品チョイスする。ボリュームたっぷり。それぞれ分け合って食べた。欧州からの観光客で満員であった。日本人客はこのルートをまだ知らないようだ。
 来た時と同じ鉄橋を引き返したところがカショエーラ市(人口2万)。橋のたもとが独立戦争の舞台となったという。1989年の大洪水で街が冠水したということで、市役所の庁舎は洪水対策上嵩上げされていた。教会に向かって歩いていると、すらっとした黒人美女が急に現れ、ある戸口に入っていった。佐藤会長がすばやく彼女の後からドアを開けくだんの美女と仲間の女性たちと声を交わした。針子たちの仕事場であった。
 バロック式の教会に隣接するペンションでは、カウンターなどジャカランダを使って作られていた。黒檀のように堅そうだった。最後に市役所前の詩人が経営する画廊に寄った。展示中の色使いの一風変わった1点は、当地の有望女性画家のもので、値上がり間違いないということだった。帰りも同じR324を通り、サルヴァドールに戻った。
10/12
AM5:30ホテル出発、サルヴァドール空港に向かう。大西洋に沿った道をゆく。見事なビーチが続く。(以上、「サルヴァドールの巻」を終わる。)



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