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日本学生移住連盟創生期の新井範明さんの奥様新井慶子さんの記事が掲載されていました。
今、サンパウロ新聞の連載で『女性シリーズ』が大久保純子記者により掲載されております。今回の主人公が新井慶子さんとのことで大変懐かしく思います。新井さんご夫妻のことは私たちの40年寄稿集でも3度に渡り取り上げております。40数年前ブラジル到着間もない新井夫妻をトメアスー移住地に訪ねており2002年1月に再度トメアスー訪問時に再会しましたが来訪者記録の古いノートを取り出し遠い昔の悪筆を見せられたりトメアスー移住地の新年会で大声を上げて歌ったりした覚えてもいない昔の話を聞かして貰いました。ご主人の新井範明さんは、日本学生海外移住連盟の創生期の先輩です。今回は奥様に焦点をあてての記述嬉しい限りです。新井さん関係の寄稿は、下記です。写真は、2001年にお宅に寄せて頂いた時に撮らせて貰ったものです。
小雨のベレンで下船された同船者を訪ねての旅。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=21
皆様のご支援に感謝して 【月刊「聖母の騎士」2001年6月号より転載】
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=94
新井 範明 学移連創生期の先輩(上智大学)第2トメアスーBUREU区で健在。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=542


連載三部:女性シリーズJ・活字がつなぐ文化の香り・トメアスー新井慶子
急な訪問にも拘わらず、手作り餃子や有機トマト、漬物を出し、NHKをつけてくれた。トメアスーのブレウ地区に住む新井慶子さん(六八歳、北海道旭川出身)は、夫に連れられて、一九六二年二月、「あめりか丸」でトメアスーに入植した。戦後の呼び寄せ移民だ。
 「やっぱりNHKが入っても、新聞で字を確認したくてね」と、笑いながら本紙を手に取ってくれた。ベレンまでは毎日その日の新聞が届くというのに、わずか三百五十キロ、直線距離ではたった百キロしか離れていないトメアスーには、いまだ一週間分の新聞がドサッと届く。
「主人がペルー育ちでね」と、ブラジルに来たきっかけを語り出す。
 ご主人の範明さんの父親・亀吉さんは戦前、文部省派遣の日本語教師としてペルーのワンカイオに赴任。第二次世界大戦となり、範明さんが三歳の時、一家はペルーからアメリカに抑留された。その後、アメリカ人捕虜と交換されて、シンガポールへ渡る。シンガポールの昭南市で小学校に上がった。
 一九九九年、範明さん一家はアメリアに抑留された件で、当時のクリントン大統領から謝罪の手紙と五千ドルの賠償金を受け取っている。
 「アメリカで抑留されていても、日本語で会話ができたし、シンガポールでもイギリス人が作ったという大邸宅に住まわせてもらって、熱帯の良い思い出ばかりが心に残った。だから、戦後日本へ帰国しても暖かい国に行きたくて仕方なかったんですよね」と範明さん。
 憲明さんは上智大学へ入学後、海外移住研究会を作り、当時、全国の大学で海外や移住を目指したクラブが加盟して結成した日本学生海外移住連盟の第二代総務部長となる。移住を決意し、本格的に農業を学ぶため、大学を三年で中退。アマゾンへの移住を前に、高校の同級生だった慶子さんにプロポーズした。
 「丈夫で長持ちそうに見えたんでしょう」と、照れながら慶子さんは笑う。 一九六一年六月十日、高校の恩師を媒酌人に入籍。その年の十二月三十日には移民船に乗っていた。
 憲明さんはトメアスーの永野敬士氏、沢田穀氏と日本の須磨和章氏が共同出資した農場の支配人として渡伯した。三年間、共同農場の支配人をした後、独立農となった。(つづく・大久保純子記者)
連載三部:女性シリーズ・お金があれば帰りたかった・トメアスー新井慶子さん
一九八二年十二月十六日、一家に思わぬ不幸が襲いかかる。好奇心が強い、一番やんちゃな十一歳の息子が、現地の子たちと鉄砲で遊んでいるうちにそれが暴発し、死亡してしまったのだ。
 「ショックでした」。噛みしめるように慶子さんは語る。あまりのショックに寝込んでしまったという。次の年の二月ぐらいになって、「このままではいけない。何かをしなくては…」と慶子さんは必死に模索した。
 慶子さんの息子はトメアスー十字路の学校まで送り迎えをして、日本語を学んでいた。しかし、新井さん一家が住むブレウ地区の近所の子供たちは日本語を勉強している子が少ないことに気付く。そこで、八三年三月からブレウ地区で日本語学校を開校することにした。
 「二十人も集まれば、十分と思っていたんですが、多い時は四十人佑發寮古未・茲討・譴董廚函⊂亟蕕埜譴襦#
 デカセギブームで子供たちが減る八九年まで、慶子さんはブレウ地区で日本語教師を務めた。九七年から二〇〇三年まではトメアスー連合婦人会の会長も務めた。
 夫の範明さんは、「ブラジルに骨を埋めるつもりで来た」と言うものの、「奥さんの慶子さんは…」と思い、聞いてみた。
 「来て二、三年はお金があったら、本当に帰りたかったですよ。食糧難の時代に育っていますから、食べ物などは我慢できます。でも、虫だけは四十年経った今でも、嫌ですね」と、チラリと範明さんを見て微笑んだ。
 「両親の金婚式に十七年ぶりに日本へ帰ったら、兄弟たちに『慶子は人数に入っていなかったのよ』なんて言われちゃいました」と肩を竦める。慶子さんは十人兄弟の三番目だ。
 「この前、NHKで過疎化した北海道の町で、年金生活者が羊の牧場をしているのを見たのよ。もしも、日本へ帰るなら、高齢化で過疎化した電效呂如∋纏・・任C燭ら楽しいだろうなぁ」と夢を語る。そういえば、慶子さんは旭川の出身だ。
 だが、すぐに笑いながら続けた。「でもね、寒いのは堪えたわ。北海道でバスを待っていたら、足の下から冷えてくるのよね。四十年もアマゾンにいたら寒さに弱くなっちゃった。やっぱりここがいいかしら」。そう語る慶子さんの後ろで日本語のニュースが流れていた。
 食卓に並ぶ慶子さんの手料理は、なぜか暑いアマゾンで、北海道の磯の香りがした。(つづく・大久保純子記者)



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