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【暑い日】(ニューデリの事故) 出羽孝史さんの寄稿
リオにお住みの出羽孝史さんをTUNIBRAのリオ事務所に訪ねました。全館冷房のビルにある事務所で色々興味あるお話も伺え、何れご披露したいと思いますが、昼食に誘われビルを出ると真昼の強いリオの日差し『流石リオは暑いですね!』と云ったところ『今日はそれ程でもないよ、私の人生で本当に暑い思いをしたのは忘れもしないニューデリの暑さだよ』と当時の思いを書き綴った原稿を送って下さいました。旅行業界、特にJAL勤務33年の出羽さんならではの体験記、今はないパンナムが一等席を無料で提供して呉れたり搭乗券なしでブラジル国内を棺と共に飛ぶ話、実際に起きた史実の一部だけに興味深く読ませて頂きました。1972年の航空機事故ですが当然多きなニュースとして当時話題になった話でもありこんなに身近におられる出羽さんが深く関与していたとは夢にも思いませんでした。今後も月に一度はさり気無い文章を書き続けて送って下さるとの事ですので楽しみです。
写真は、強い日差しのリオの中心地、カリオッカ広場の前で撮らせて頂いた一枚です。


暑い日
          出羽孝史

 地球の温暖化が論じられています。夏は暑いのが当たりまえのリオですが、極端に暑い日には印度のニューデリを思い出します。
 なぜニューデリか。
 私が体験した、記憶から消したい地球上の最も暑い処は、ニューデリだったからです。
昔話になりますが、1972年の6月17日の早朝からの三日半、日中は摂氏50度、出る汗が直ちに乾き、塩になる炎天。インドの方には申し訳ありませんが、地獄を感じるところでした。
 日本航空のDC-8、羽田/ロンドン便、ニューデリでの墜落事故。
 1972年。私はその時、日本航空、リオの営業支店に勤務でした。
 リオの新聞社“オ・グローボ”から私の家に電話がかかってきたのは6月14日の午前3時。
「あなたの本社から事故に関する連絡はありませんか。事故の内容をご存じならお知らせいただきたい」
新聞社からの電話でびっくり仰天の私が事故の内容を知る訳がありません。
 早朝、まだ自宅の私に東京の本社から電話があり、事故機の乗客、南米関係はリオのレイラ・ヂニスとリーマのペルー人夫妻で、三人は死亡とのこと。
 あらためてびっくりです。レイラは話題が豊富の有名な美人女優で、私は彼女のファンでしたから。
 本社からの指示は遺族のどなたかを案内して現地に向かうこと。
 各朝刊の一面には事故とレイラの死が大型の文字で報じられています。
 朝一番遺族との連絡がとれ、義兄のマルセロ・セルケイラさんが行くことになり、急遽二人は黄熱病の予防接種。マルセロさんはブラジルの連邦議員だった人です。
当時世界でトップの航空会社、パナメリカンのリオ支店長に二人の航空券を依頼、その夜リオ発のB-707でニューヨークへ。(パナメリカンが提供の無償航空券はファースト・クラス)ニューヨークからは日航のDC-8に乗り換え、時差で羽田着は16日。日航の南回りの羽田発には間に合わず、再びパナメリカンでしたがが、これが遅れてニューデリ着は17日の午前3時でした。
 ホテルでしばし休息のあと、病院へ。
事故から三日目、猛暑のニューデリです。冷房設備のない病院の大部屋には遺体が山積みされています。言葉では言い表せない気が遠くなる悪臭。五体満足に近い遺体、そうではない遺体。丸焼きの動物を感じさせる遺体。床には黒ずんだ血が流れています。
 この中にレイラがいるのか。
 早速遺体の識別作業にかかりますが、探せども探せどもレイラは見つかりません。顔が傷みすぎて判別不可能の遺体がたくさんあります。マルセロさんによればレイラは盲腸の手術の傷跡がある。
盲腸の傷跡の遺体はありましたが、レイラではありません。
 その日、事故機に搭乗のペルー人夫妻の息子さん兄弟がリーマから到着。彼らの場合、幸いというべきでしょうか、両親の遺体が判別できて、傷だらけの無言の両親と涙の再会でした。
 事故機の乗客にはベトナム戦争に参加のアメリカの軍人もおり、アメリカの軍隊が派遣の数名が遺体の判別に参加していました。彼らの協力でマルセロさんが持参していたレイラの歯のレントゲンとの照合で、レイラの遺体確認の知らせを受けたのは翌日の朝のことです。
 板箱にすぎない棺桶は密閉が不可能のであるらしい印度、輸送中遺体から血が流れ出るケースが発生、それで身元確認済みの遺体は荼毘に付すことになっていました。
 午後の火葬場。粗末きわまる火葬場です。
 「マルセロさん、義妹さんとお別れを」
「セニョール・イズワ、許してくれ。あのほがらかで美しかった義妹の変わり果てた姿を自分は見るにしのびない」
無理もありません、マルセロさんはうなだれてお棺に目を向けようとしません。
 炎天下の火葬場。黒焦げの物体に近いレイラの遺体に手を合わせ、最後のお祈りを捧げたのはこの私ひとりでした。
 かわいそうなレイラ。彼女はオーストラリアのアデレイドの映画祭に出席、事故機にはバンコックから搭乗、ローマに向かう途中だったのです。
 その頃のブラジルには火葬の習慣がなく、荼毘に付したことは遺族に知らせるべきではないとマルセロさんが判断、遺骨は別の棺桶に収めることを担当者に依頼。
 ホテルの大広場に集められていた遭難者に遺品のなかからレイラの表紙が半分焼けた日記帳が見つかりました。「この飛行機はやがてニューデリに着く」と記されていて、あとは白紙。ポルトガル語で書かれた日記帳を見つけてくれたのが誰であったのか、私には記憶がありません。
いたんでいましたが、レイラの荷物も見つかり、両親を失ったリーマの息子さん兄弟と共に特別機で羽田向けの出発は6月20日の正午。
 東京で一泊。翌日、日航のJL−06便でニューヨークへ。ケネデイ空港でリーマの息子さん兄弟と別れ、私たちは22日の夜の再びパナメリカン航空でリオへ。
 乗り継ぎの待ち時間、ケネデイ空港の日航の特別室に安置された印度製のお棺を見ますとあまりにも粗末。これではリオのご遺族に申し訳ない。日航のケネデイ空港支店長の好意で美人女優にふさわしい豪華なお棺が手配され、我々は深く感謝。
 リオ着は23日の早朝でしたが、トラブルです。ガレオンは雲が低く、空港閉鎖で着陸できません。パナメリカンのB-707はサンパウロのヴィラコッポス空港へ。ブエノス行きのフライトですから、リオには戻らないとのこと。
さてどうするか。
 たまたま、ヴァリグのニューヨーク/リオ便もガレオンの閉鎖でヴィラコッポスにルート変更。やがてガレオンが開港になれば出発とのこと。好意的なヴァリグの配慮、航空券なしで私たちとレイラのお棺はヴァリグのB−707に便乗。そしてガレオン空港に到着は正午過ぎのことでした。
 余談ですが、航空券なしで定期便の旅客機には乗れません。切符なし、送り状なしで、レイラのお棺を含む手荷物と共にヴァリグの定期便に搭乗は私とマルセロさんの最初で恐らく最後の体験です。
 ガレオン空港は朝から迎えに来ていたレイラの遺族だけではなく、ものものしい報道陣とレイラのファンたち、足の踏み場もない人、人、人の混雑。私とマルセロさんはごく簡単なお別れの挨拶のみでした。
 事故。
1972年6月14日、現地時間午後8時16分(日本時間午後11時46分)頃、羽田発ロンドン行きのJL-471便がニューデリ・パラム空港への着陸進入中に空港の手前18.7KM地点、ニューデリ郊外のジャナム湖畔に墜落。着陸の瞬前、突然の砂嵐が原因の事故であったとのこと。
 事故機はDC-8-53型、運航乗務員3名、客室乗務員8名、乗客78名(内日本人10名)、計89名のうち運航乗務員3名、客室乗務員8名、乗客75名、計86名が死亡、乗客3名が重傷。さらに、事故現場の地上にいた現地人4名が犠牲になった惨事でした。
 ニューデリの病院では重傷で救出されたスチュワーデスが看護を受けていました。冷房のない病室では扇風機が回っていて、その扇風機が送り出す風は熱風でした。彼女は気の毒にも私たちがニューデリを出発の日の朝亡くなりました。あの扇風機の熱風が彼女の命をとったのでは。
「もし病院に冷房設備があったら、もしニューデリの夏でなかったら、彼女は助かったかも知れない」日本人の医師がそう言っていました。
 今でも、極端に暑い日には、記憶から消したいインドを思い出す私です。 




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