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あるぜんちな丸第12次航同船者のいる移住地を訪ねて。 阪口多加代さんの寄稿
大阪に住む3歳違いの妹、阪口多加代がもう40年近く前に亡くなった母の分も含めてブラジルを訪問して呉れた。けい子の大学の休みの期間をフルに使うとの条件で2ヶ月弱でしたがレシフェー、サンルイスの北東泊、北伯旅行、アルゼンチン、パラグアイを含むイグアスの滝見学旅行、リオのフンシャル移住地訪問を含めた旅行、南伯を中心とした小旅行と結構ブラジルを堪能して貰った。パラグアイのピラポ移住地に入植した園田さんのご家族、アルゼンチンのグアルアペス移住地の多田さん、高松さんとの再会、リオのフンシャル移住地訪問と岩本さん、村山さんとの再会、正直云って私の方はそれ程覚えていないのですが、船内でも目立っていたのか船内新聞を編集していたと言うだけでそんな人もいたナーと思い出して呉れる事が多く話が繋がります。それでも中々話題は一般的な上辺の会話が多い中、懐に飛び込んで行って何かと聞き出し本質に迫る私が聞き得なかった話し等を結構詳細に書き残している彼女が書いた移住地編を紹介して置きます。
写真は、パラグアイの世界遺産の一つツリニダデのインヂオ教化部落で園田さんのご家族と鹿児島県の研修生二人を入れた記念写真を使用しました。


移住地編
今回兄に連れられて、各地の移住地の方々にお会いする機会が出来、移住とは・・・を少しながら覗かせて頂きました。
 ピラポ移住地ではちょうど四四周年が明日との事で運動場脇にて多数の人々が、前夜祭なる物をしていて、手作りの品々をテントに持ち寄り、バザーの様に賑やかだった。運動場では競技の練習?が行われていたのを、横目で通りすぎた。園田様宅にお邪魔して一泊させて頂きました。私達よりも早く着いた研修生の二人と親戚の姪御さんと三人が長期にお泊りの上にもう三人を快く引き受けて下さる園田様の心意気に頭が下がる思いがしました。常にお客さんが寄って来る様で、とっても世話好きで、白黒をはっきり言える、賑やかなのが好きな方でした。日本のお友達の息子さんを一ヶ月も預かった事があるそうです。着く早々に昼食を食べ損ねた私達に突き立てのお餅と海苔を出して下さった。まさかパラグアイでお餅に出会えるなんて〜、思いもしなかったので、大感激。日本のスーパーで売っている真空パックの硬いお餅よりも、ここで食べた柔らかな、きめ細かなお餅がとっても美味しくて、忘れられない味です。姫マッタケの栽培をおもに営んでいた。乾燥工場を見学したが、日本から取り寄せられた最新型の乾燥機械何台も並べていた。ここまで来るのには、大変であったろうに・・・と思うが少しも苦労をした事を口にすること無く、今を大切に、又苦労があったからこそ、ここまで、これた。と云う自信がみなぎられていた。奥様はランの花を趣味として、庭一杯に多種のランを育てて居られる。旅行に行く先々でランを見っけては持ち帰り、花を咲かせているベテランであった。又、若い頃に夕暮れで、自転車に乗って帰る途中男の人に襲われそうになったとの事。農協で働いていた時に、その男の人が農協へ買い物に来たのでラードと塩を一緒に包んで渡して、仕返しをした、と云う勇敢な奥様である。昔は水も井戸水で電気はモーターを動かしたが、小さな子供達二人が裸足で井戸から水を汲み上げたり、モーターを廻して動かさせて育だてた。子供達に対して、苦労させたとは思わずに苦労したことが良かった。と語っていた。子供の教育上学校は町にあるので、町にアパートを借りての二重生活でもあったとの事。
夕食を皆で手伝った。どこに何があるか、わからずに戸惑うが、持ち前のあつかましさを発揮して、お醤油は、砂糖は、と奥様をこき使い、どっちが客か分からない位、和気藹々と夕食を作って楽しかった。もちろん味付けは日本食並みである。皆がそれぞれのオカズを作り食卓に華を飾り賑やかな夕食を囲んで楽しくよばれた。食後に電話が有り、テレビを見ているかとの事、あわててテレビを見るとパラグアイの首都アスンシオンのスーパーマーケットが火事になり死者が出て入るではないか、死者と行方不明者で三百人も超す大惨事の火事であった。なぜこの様な大惨事が起こったのかはスーパー側が商品を持ち出されるのを恐れて、入り口を閉めてしまったらしい。日本では考え付かない行為をやってのけるとは、よほど治安が悪いのであろうか?神戸の震災の時に長田のスーパーが傾きになって入り口が閉まらずに商品がすべて無くなった事があったのを思い出した。この火事で三日間喪に服すとので明日の運動会は順延となり午前中の合同慰霊祭のみとなった。そこで予定を変更して、世界遺産のトリニダーの遺跡を見学出来るようになった。
朝起きて、お弁当を持ってピクニックとしゃれこむ事になり、またまた台所を占領しておにぎりやおかずを手分けして作った。大勢の人達と一緒に食べる、公園も空気が澄み渡り、楽しく、お弁当がとても美味しかった。園田様方々のおかげで楽しい一時過ごせて感謝の気持ちで一杯です。ほんま〜にありがとさんでした。
 グアルアーペ移住地に行くのに国道を何回も行ったり来たり、人に聞いたりして、やっとの思いで辿り着く。多田様のお宅にお邪魔する。みかん畑や野菜畑、果物、マテ茶の大樹、等々さまざまな品々が元気良く植えられている。私でも知っている野菜や花が一杯あった。ブラジルでも日本の種を蒔くと育てる事が出来るものが沢山あるとの事。多田様のお宅は息子さん二人とお嫁さん一人の五人で農業を営んでいた。弟さんにみかん畑に案内して貰いもぎ立てのみかんをよばれた。犬も一緒にみかんを食べた。私のみかんの剥き方が違っていたので、正しい剥き方をおそわりました。なるほど上手く剥けるので何個ももいでは剥きして、そのみかんを犬にあげると幾らでも喜んで食べてくれた。一回に五,六個は食べなければおさまらないらしい。 お兄さんは日本に出稼ぎで2年間働いた事がある。日本は物価が高くて、外に出歩くとお金が貯まらないので余り遊ぶ事が無かったが、勤め先がとても好かったので、楽しく働けたし、百万円程は持って帰って来たし、想い出が出来た。と話して下さった。二年間で百万を貯めることは、並み大抵の事ではないはず。それを実行出来たのは意思の固さと、誘惑に負けずに頑張る事が出来た賜物であろう。又、ここは通いで来ていて、町に家がある二重生活をしている。との事だ。
昼食をご馳走になった。野菜やお漬物はすべて自家製で、とっても美味しかった。味も日本食と変わらず工夫をこらしていた。ご主人も奥様も飾り気の無い、気さくな感じで、兄と楽しそうに昔をなつかしんで話しこんでいた。同船者の高松様に連絡をしてもらい、畑に居るとの事、鶴の一声で、いくぞ!と言うと奥様は心得たもので、マテ茶と椅子を用意して、トラックに乗る準備する。椅子をトラックの上に乗せてそこへ座る為であった。おもしろそうなのでトラックの椅子に座らせて貰って会いに行く。直ぐそこだよ。と言いながら十分間位走った。アルゼンチンの直ぐそこと、日本の直ぐそことは間隔が掛け離れていて、ビックリする。畑と聞いたので、どんな畑があるのか、ワクワクした。行く道は松林が続き一カ所だけ広々とした整地があった。そこが畑でアメリカ松の苗木を植える手作業をしていた。田植えとなんら変わらずの姿に感動する。今こんな風景にお目に掛かれるのはまれである。日本の田植えは残念?ながら機械での作業がほとんどだ。このアメリカ松が大きくなるのは孫の時代になるとの事、何十年先を見込んでの投資に気が遠くなりそうで、初めて移住してきた時代もこんな状態であったのであろうかと想像する。高松様も町に住み畑まで毎日通勤しているとの事、まるでサラリーマンの如くで大変であろうに・・・マテ茶を廻し飲みしながら一時を過ごした。多田様の所に戻り、別れを告げるが、名残惜しそうにしている姿が目に浮かぶ。
 リオ・フンシャル移住地の岩本様宅にお邪魔する。判りにくいだろうとの事で、国道迄出迎えて下さった。ここの移住地には同船者3家族が入植し四十二年間が住み着いており定着率100%と言う珍しい移住地で北海道の炭鉱離職者が多く炭鉱村とも云われている珍しく動きの無い所です。岩本様のお宅はゴヤバと言う果物で生活が成り立っているとの事。広々とした所に何千本ものゴヤバの樹木があり果実もちゃんと一個一個袋に入れて、大切に愛着をもって育ててました。試食をさせて頂いたのですが、とっても美味しかったです。ブラジルでは高価な果物との事、日本では果物と言うより缶ジュースが有るくらいで、初めてお目にかかる代物でした。ここの夏は40度まで上がるらしくて、とても暑くて堪らない中の作業が行われ大変なお仕事をしてこられたが、今は現地の人々を雇って監督だけをしています。と奥様が話して下さいました。又ここは治安が悪いから夜は外には出ない。出る時は団体でバスを借りてお友達と一緒行動する。月に2回は町に出るか、リオに出かけています。これもゴヤバのお蔭です。との事でした。夕食をご馳走になりましたが、日本食ばかりでした。材料はサンパウロから車で売りに来るとの事です。夕食後おいとまをするが、途中で資料館入りの岩本さんから寄贈された幻の船内新聞と同船者名簿を椅子の上に置き忘れて来ているのに気付いて明日朝もう一度お邪魔する事になった。そのお蔭で、村山様にもお会いできました。村山様のお庭には「世界人類が平和でありますよう」と書いた白色の四角形の立て札?が置いてあった。日本から持って来たとの事、私も良く見かけるので懐かしくなり日本に居るような錯覚をしたが黄色のイツペイの花が咲き誇っていて、やはりブラジルに来ているのだと、我に返る。
ご主人亡き後、息子様が与党労働党から市議会議員選挙に立候補していて自分のネーム入りのティシャツを着て車で出かける所でお会い出来ラッキーでした。
日本人会館、日本人学校、運動場などがある。ここに昔、皇太子殿下がお忍びでこられたことの有るのを記念して花崗岩の記念碑が建てられた所も見学が出来て、忘れ物に福あり。
 移住地の皆様の“日本人魂”を決して忘れてはいずに、踏ん張っている様子に感服する思いでした。二世、三世に対する教育にも熱心で何処へ行っても、まずは学校の事を考えて二重生活をしながらでも子供の成長を重んじて遣ってこられた。広い土地は有るが、それを維持していくのは大変な苦労と動力が必要であったと思う。最初の頃は皆必死で広い土地を耕し、無我夢中でつっぱしっていたのであろう。苦労を苦労と思わずに居られる今だから私達を迎えてくれたのだろう。快く迎えて下さった皆様に感謝すると共に、ご健康とご多幸をお祈りします。



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