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佐藤 喬 移住研OB会会長の【ブエノスアイレス雑感】と6人のおまけ旅(ブエノスアイレスの巻)最終編です。
10月初旬からブラジルサンパウロに到着し早稲田大学海外移住研究会OBとの交歓の後、一行6人のおまけ旅に出られサルバドール、マナオス、チリのサンチャゴ、プエルト・モン、アルゼンチンのバリローチェ、ブエノスアイレスを歴訪されその都度黒瀬さんの名文と岡部さんの写真を交え黒須さんのホームページに【南米訪問団記録】として掲載しておられます。何れ南米訪問団に参加した方は、勿論の事、参加出来なかった方の寄稿等を纏めて掲載して行きたいとのご意向で『私たちの40年!!』ホームページでもそれをフォロウして行きたいと思います。
佐藤 喬 移住研OB会会長のブエノスアイレス雑感は、若き日のタンゴへの思いと現実のブエノスアイレスを交差され、重ね合わせた思いは、胸に沁み込んで来る旅情を感じさせブラジルのサルバドール雑感と共に秀逸の書き物だと思います。
写真は、6人のブエノスアイレスの中心地、五月広場で撮られたものをお借りしました。


ブエノスアイレス雑感
                                            佐藤 喬
ブエノスアイレス、その昔、スペイン人がこの場所の沖合いを通過した時、さわやかな風が吹いてきて、船は満帆、そこで順風(ブエノスアイレス)と叫んだとか。
 南半球の春十月、馥郁(ふくいく)たる大気に包まれながら、私はブエノスアイレスにいた。
 ラプラタの河口に面し、この平原都市は、目の前に眠れるが如く横たわっていた。石造りの古い建物が並び、街路樹が亭々と生い茂るアベニーダ(路)を、例によって煙草をくわえ、ポケットに手を突っ込んで飄々(ひょうひょう)として私は歩いた。
 南米の巴里と呼ばれているらしいが、巴里に比し、いささか垢抜けしていない。そんなところが人を魅了するらしい。古い建物と近代的なビル群が微妙なコントラストを成している。この町は、とにもかくにも道幅が広い。七月九日通りなどは、百米以上もあるとのこと。道が広いということは、人を広闊(こうかつ)な気分にさせるらしい。
花の都巴里ではないが、花の都ブエノス。国花「せいぼ」(SEIBO)は満開だったが、ハカランダは三分咲きか。
ブエノスといえばタンゴの故郷。昔、東京の信濃町にタンゲイラ(タンゴの好きなお嬢さん)という喫茶店があった。日がな一日、一杯のコヒーでタンゴを聞いていたってことがあったなー。又、当時、東芝レコードが東芝タンゴポルテニアという同好会を開いていたが、その向こうをはって、世田谷の北沢のお医者さんが、北沢タンゴポルテニアという会を作っていた。月に一回か二回タンゴのレコードコンサートを開いていた。毎回、参加者 十四、五人、半数は女子大生か、OL。それも目当てで、十九歳の私はよく行ったものだ。あのチャーミングな女性達は何処にいってしまったのか。
現実のブエノスのタンゴは新曲が多くて、私のようなオールド・タンゴファンには、今一つ楽しめなかった。オールド・タンゴ、「エル・アマネセール」(夜明け)、「オルガニート・デ・ラ・タルデ」(黄昏のオルガン弾き)、「フェリシア」、「ア・メディア・ルス」等々。ああいった曲は何処へいってしまったのだろう。連想は青年時代の日本に飛び、又ブエノスに飛び、支離滅裂な状態で心の中をさまよったが、いずれにしても、なつかしいブエノス滞在であった。
ブエノスアイレスよ、又来るからね。再見(つあいちぇん)。
何を思い、何を語るか人の群(むれ)
      我が前を行く異国(とつくに)の人
平成十六年十月                 

6人のおまけ旅(ブエノスアイレスの巻)
                             Reported by 黒瀬 宏洋
                             Photos by Sato,Okabe,etc.
10/24(日、晴れ) 
 バリローチェを飛び立ち、暫くすると機窓からは、起伏に富む景色は失せ、延々と続く平原〜パンパス〜のやや単調な光景に変わった。やっと、視界に町並みが入ってきた。ブエノスアイレスに近付いたようだ。高度を次第に下げていく飛行機は一旦ラプラタ河の上に出たかと思うと、急に左旋回し、港湾地区の上を通過して、PM4時半頃、着陸態勢に入った。何度も地図で眺めてお馴染みのブエノス中心部の区画割りが、機窓左側からよく見て取れる。これがタンゴの都・南米の巴里と呼ばれるブエノスアイレスなのだ。気持ちが大いに高ぶってくる。アエロパルケ空港では、ガイド原あやさん(母親仕込みの達者な日本語)が我々を出迎えてくれた。専用バスが、空港すぐ前の大通りをセントロに向け走り始めると、左手に泥色の水を集めたラプラタ河が悠然と流れていた。
 投宿先のホテル・コンコルドはセントロにあり、繁華街フロリダ通りなどに出るのに至極便利である。夕食は、原さん紹介の日本料理店に出掛け、サンチャゴ以来の日本食を口にした。
10/25(月、晴れ)
 AM8時、専用バスでホテル出発。まず、五月広場に行く。広場東側にオレンジ色の壁をした大統領府がある。何かというとこの広場で集会が開かれるという。北西端のカテドラル大聖堂に入る。一見、大理石の壁と思ったら、下の方だけ本物、上の方は大理石を模して描いたものという。南米の解放者サンマルティン将軍の棺が安置されていた。建物の外壁に赤いペンキが塗られている。ペソ大幅切り下げ反対のデモに参加した一部不埒者の不祥事を忘れぬためそのまま残しているとのこと。また、大聖堂ドアの外にホームレスが寝ている。国境を接する近隣国から流れ込んだ不法滞在者という。不法滞在者は低賃金の仕事をアルゼンチン人から奪い大きな社会問題になっているらしい。広場西側には植民地時代の市議会の建物がそのままの形で保存されていた。
 車でサンテルモ地区(植民地時代の中心街で、古い町並みが残っている。地区内には移民船がバラストとして積み込んできた小石を敷き詰めた街路がある。なお、帰りの船は肉を運んだという)を抜け、タンゴ発祥地のボカ地区へ移動。 名曲カミニートにちなむ小道を歩く。写真でお馴染みのカラフルな建物が片側に並んでいた。両側に絵を売っている絵描きが並んでいる。山之内夫人が気に入った絵を1点買い求めた。小道の先には移住者時代の旧港があった。
 次に、パレルモ公園に移動。途中、オベリスクの立つ幅員145mの「7月9日大通り」を通った。沿道ところどころに3分から4分咲きの紫色の花をつけたハカランダの並木が眺められた。花の命が数日と短く“ハカナンダ”の花だと、ガイドが笑わせてくれる。綿の木も街路樹に混じりまるで白い花をつけているようだ。
 公園内には、赤い花をつけたCEIBO(国花)、色々の種類のバラが咲き揃っていた。hornero(鳥)はオスが巣を作り、メスは気に入れば、その巣で卵を産むという。そんな竈状の巣も公園内で見掛けた。通りすがりの現地女学生一行が我々に愛嬌を振りまいてくれる。彼女らは写真を快く撮らせてくれた。話ではブエノスの人はお高くとまっていると聞かされていたが、幸いなことに、短い滞在期間ではあったが、我々はそんな思いをせずに済んだ。
 幅広の「解放者(サンマルティン)大通り」は一方通行であった。時間制になっているらしい。 ブエノス屈指の高級地区で人気スポットのレコレッタにも立ち寄った。若い男が預かった犬を10匹ほど連れて散歩させていたが、その手綱捌きは見事なもの。近くの高級墓所団地にある エビータ
(ペロン夫人)の墓を訪れた。彼女の衰えぬ人気を反映し献花が絶えないようだ。
 昼食は、ガイドの原さんと一緒にオーナー自身が特別に腕を振るって作ってくれた中華料理を食べた。とても美味しく満足した。帰りは、フロリダ通りで買い物をすることにし歩くことになった。丁度、コロン劇場の脇を通った。評判どおり、ミラノのスカラ座・パリのオペラ座などと較べ遜色のない建物である。フロリダ通りでは、「インカのバラ」と呼ばれる紅色の貴石(大理石の一種とか)や革製品が土産物として夫人たちに人気があった。 
 一旦、ホテルで休息し、PM8時、迎えの車でタンゴショー(夕食付き)観賞に出掛ける。サンテルモ地区にあるEL VIEJO ALMACEN(古い倉庫)はブエノスでのトップクラスの店ということである。席は、舞台から見て左手2階にあった。舞台を見下ろす位置のため、ダンサー達の動きがよく見えた。男女互いに相手の股間を足で蹴り上げる所作が多く、これまで日本で見てきたタンゴの踊りとは全く別物との感じを受けた。しかし、蹴り上げたり、回転したり、宙返りしたりと舞台一杯目まぐるしく動き回るショーとしてのタンゴダンスは十分楽しめるものだった。出演したピアニスト、ボーカリストも有名なミュージシャンという。ただ、馴染みのクラッシク・タンゴ曲をあまり聞けずその点少し物足りなかった。
10/26(火 曇り、ときどき小雨)
 コロニア終日ツアーに出掛ける日だ。AM9:30 専用バスでBUQUEBUS ターミナルへ。ホテルから歩いて行ける距離だった。
 BUQUEBUS社の高速フェリーは、ブエノスアイレスからラプラタ河対岸にあるコロニアへ我々を乗せて順調に進んだ。優雅なクルージングを想像していたが、対岸の陸地は殆んど識別できず、泥色の大河の中をただ進むだけである。オソルノ山周辺やバリローチェ周辺の湖水地帯を見てきたあとでは、あまりに単調で味気ない風景である。ラプラタ河と河両岸に広がる平原の大きさにただ圧倒されるだけであった。1時間程経って低い家並みをバックにしたコロニア埠頭に近付いた。しかし、それから散々だった。接岸せず、折角近付いた埠頭から離れ、船は港内をうろうろする。予定外の場所
(?)に横付けするのに更に小1時間ほど掛かったのではなかろうか。ここで改めて知ったことは、乗客へ遅れた事情を説明し詫びることを南米の国々で期待するのは無理だということだった。結局、遅れた理由は謎のままであった。
 待ち受けていたBUQUEBUS社のバスにあたふたと乗り込みレストランに直行、昼食を摂る。出てきたラビオリ風の料理は、私には結構いけると思ったが、仲間にはあまり評判がよくなかった。
 その後、若いイタリア系女性ガイドの早口での英語説明を聞きながら、旧市街を徒歩で観光する。コロニア(正式名称Colonia del Sacramento 人口 1996年 2万2千)は元々ポルトガル人が1680年建設した町だが、その後スペイン人とポルトガル人の支配が何度か入れ替わった。教会をスペイン人が襲わないことをいいことに、ポルトガル人が隠れ場所や倉庫としてそれを利用した。小石を敷いた道の中央にV字型の溝を設け、ラプラタ河に排水を自然に流れるように道を造ったのは、ポルトガル人で、フラットに小石を敷き詰めた方はスペイン人だったなど、とガイドの説明が続いた。説明中、ポルトガル・スペイン植民者双方の悪口を言いながら、自分はイタリア系だからどちらの肩を持つ訳でもないと笑わせる。最終的に、コロニアからポルトガル人が退去した後、スペイン人は役所など公的な建物は破壊したが、民間の建物は残して再利用してきた。世界遺産として、旧市街が保存状態よく残っているのはそのためだろう。もっとゆっくり見て廻りたいと思ったが、ガイド説明が終わり、帰りの船便の時刻も迫ってきた。そこで、中心部の見物を切り上げ、埠頭まで人通りの少ない街路を我々だけで歩いた。
 とにかく、地続きのブラジルを本拠地とするポルトガル人勢力とラプラタ河を挟んで隣り合わせるスペイン人勢力との争奪の的となったウルグアイの土地。そのウルグアイの中でポルトガル人勢力最後の橋頭堡コロニアの数奇な運命を体験するツアーができた。(なお、1828年、ブラジル・アルゼンチン間の講和で、ウルグアイの独立が認められた。)
10/27(水 晴れ)
 朝食後、同室の佐藤が腹の具合を悪くし、昼まで休んでいるというので、一人でプエルト・マデーロ地区にある赤レンガ倉庫を改造したレストラン街を北端から南端まで歩いてみた。途中、ドックに架かる橋の先にホテル・ヒルトンが威容を誇っていた。赤レンガ通りには、早朝のため、まだ清掃人の姿が見えるだけだったが、アサード(肉の炭火焼)レストランなどが並んでいた。ここのアサード料理を食べずにブエノスに別れを告げるのが一寸悔やまれた。
 ついでに、フロリダ通りまで徒歩で移動した。早朝にかかわらず、、ブエノス一番の繁華通りは既に活気に溢れていた。革製品を販売する店舗が目立った。
 昼食は、体調を回復した佐藤を含めた全員で、ホテルから歩いて行ける日本料理店(現地人経営だろう)に行った。ラーメンを薦められて食べたが、黒色の汁にそばが浮かぶアルゼンチン風ラーメンで、とても汁が飲める代物ではなかった。てんぷらうどん、焼き魚などは、まあまあの様子。
 PM2時頃、ホテルからエセイサ国際空港に向かった。
  Adios Buenos Aires! Adios  Pampa  Mia!
               「ブエノスアイレスの巻」終り
後記 10/29 午後1時半過ぎ、一足先に帰国した菅間団長の出迎える成田空港に着く。およそ1ヶ月に及ぶ旅行の間、全員、重い病気に罹ることなく、事故・盗難にも遭わずに無事帰国できたことは喜ばしい限りである。また、歓待してくれた南米各地の移住研の仲間たち、稲門会OB諸氏、お世話になった旅行社の担当者たち、ガイドの皆さんにこの場をお借りし感謝の気持ちを伝えたい。本当に有難う。長期間の旅を楽しめたのもあなたがたとそれに我々家族のサポートのお陰です。             南米の旅<完>




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