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【パラグワイ国盗り計画】(その2) 元パラグアイ移民の野口 紘一さんの原稿です。
野口さんは既に御紹介している通り、戦前、台湾の台北で生まれ終戦と共に福岡の大牟田市に帰郷、18歳と2ヶ月で東京に出てその後パラグアイに移住、アルゼンチンに転住、日本に帰国、アメリカに再移住、現在はカリフォルニアのサンフランシスコ郊外に墓も建てて永住。趣味は有機の野菜栽培と旅行という数奇の人生を歩み世界規模での人生の歩みを『私の還暦の過去帳』に抜群の記憶力と筆力で書き残しておられる健筆家です。田中さん主宰のPARAGUYと言うMLでお知り合いなり、お願いして野口さんの書かれた【パラグアイ国盗り計画】を寄稿集の各国の移住の歴史欄に掲載さえて頂く事になりました。(その2)は第7回以後のもので最終の11回までを収録しました。
写真は野口さんから次の様な説明文と共に送って頂いたものです。『1964年頃にアルゼンチンのサルタ州で佐藤農場支配人をしていた頃の写真です、その当時ボリビアで活動していたゲバラの革命運動家の活躍で、ボリビア国境付近は治安が悪く、農場売店で売る生活貯蔵物資の襲撃で、自衛の為に農場で所持していた銃器と写した写真です』


パラグワイ国盗り計画   第7回
私が現在書いています、当時のパラグワイ国盗り計画を立案告ャした人は思い出すと、中心となって話した人は全て過去に消えてこの世に居ない事に気が付きました。自衛隊出身で、酒の席で一番先、話しを切り出した人はアルゼンチンに長く住んでいて、6年ほど前にガンで亡くなられて、興味を示して話しに加わりこれが本当に実行出来ればと言った人も、15年ほど前に同じく病気で亡くなられていました。パラグワイで話しを聞いた人もブラジルに再移住したり、パラグワイで亡くなり子供の代になっています、時代が変わり変化していく中、昔120年もの前に、ドイツ人達が自由を求めて、『新ゲルマーニア』と言う新しい移住地を開いて居たと言う事は、今は名前のみ残りましたが、桃源郷を求める人がパラグワイに沢山移住して来ていたと言う事です、現代はメノニータと言う宗教集団が根を下ろして、ドイツ系集団を作り、パラグワイで生活しています。成功してこれからも伸びて行くと感じています。40年前にこれが実行されていたら今の日本の政治もいくらかは変化があつたと思います。アメリカがハワイやアラスカ、プエル.トリコなど本土から遠く離れた場所を確保して其の他南太平洋でアメリカ領サモアなどを保有しています。それから南米に近い、ヴァージン.アイランドの島もアメリカ領です。その様に日本では余り知られては居ませんが、日本もその様な飛び地でも確保して、政治を根付かせる事を真剣に考えていたら、現在はかなりの変化が有ったと確信しています。戦前に日本が所有していた南海諸島も全て無く、当時その島で生産される砂糖や、熱帯果樹などが日本の消費を多くカバーして居た事を考えると、単に夢で終わらせる事はしたくは無かったのでした。イギリスなどは今の世でも海外に領土を確保して、大英帝国の力を残していますが、アルゼンチンと領土紛争を起した、フォークランド諸島も英国の領土です、南極に近い場所ですが、地下資源を抱えて重要な島となっています。
歴史を見ても、、武力を持って侵略した植民地政策は今では無理です、しかし選挙で交替する政権からでは、人が作る国ですからどこからも文句を付けられる事は有りません。反共、親米政策を掲げていれば、南米諸国では余り摩擦がない平凡な内陸国としして居られ、パラグワイは他国からの経済的な交渉は受けるかもしれないが、それは資本主義の世界、常識の事ですーー。
計画は細部に渡り、暇に任して練り上げて組み立てて行きました。私達が立案して、細部の検討に入り、仮定として政権を選挙でこれから6〜7年の先に取ったとすると、逆算してどの時点でどの様な具体的な設定を築き、それを訓練又は用意して具体化する行程を詰めました。まったくの卓上計算の想定でしたが何か、パラグワイの将来を我々が担うと言う気迫までその頃持っていました。パラグワイは女性が裏では主導権を握る国です、三国戦争で男が少なくなり、女性に優遇されて、誰かが話していましたが、『甘やかされた〜!』などと言う時代も存在したと感じます、でも当時ストロエスネル将軍の独裁政権下でしたが、独裁と言う感じは世間一般生活では余り感じませんでした。
経済は安定して、外国為替でガラニーの交換比率も悪くは無く、当時アルゼンチンより外国物資の贅沢品が市場に有りました。ロドリゲス将軍が1982年の、35年の独裁政権打倒が成立するまでは、コロラド党(通称赤党)と言われた政党が53年以上も独裁政権を保持していましたので、1989年の39年ぶりの文民政権誕生までは、選挙での公正さは無かったと言われていました。
私達がパラグワイ選挙の一票を握る女性の政治的啓蒙を考えて若いパラグワイ女性を目に付けていました。日本に研修に送り出す時は、女性を多くと考えていました。その優秀な女性が日本人男性と結ばれれば、これは一番の得策です、住宅や生活援助を計画して、パラグワイでの振興に関連する農業、軽工業などを、側面的な改革と合わせて、実行していく計画でした。
昔、スペインの南米侵略はインジオ部落を襲撃して、奴隷として沢山の女性を拉致して、一人のスペイン侵略者の男性が短期間に奴隷とした多数の女性に、150人以上も沢山の子供を産ませてその子供達を家族として、成人した暁に自分の手勢と訓練してまた奥地のインジオ達の領域を、侵略して行った歴史を見れば特に南米の家族主義の連携を考えると、もっと日本人の移住を日本で啓蒙して、推進することも計画に入れていました。
パラグワイの国盗りはこれが一番と感じ、一番の基本として、土台を固める計画を立て、立案した計画に加えて行きました。若い我々が何も思考的に制約なく、自由な発想で未来を考えていたのではないかと感じました。
 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画  第8回
パラグワイは多くのヨーロッパ人達が昔から、宗教で、信条で、桃源郷として、自分達の楽園を夢見て来た人が多い場所です、しかし、日本人移住地ではその当時、一部の移住者が隣国に再移住を始めた時期でした。一番の理由は、農作物を作っても売れない、販売価格が低い、輸送経費が掛かり過ぎる、その為生活が成り立たず、ジリ貧の希望が見えない生活に陥っていた時期でした。僅かにアスンション近郊で野菜栽培でいくらか儲けて居る人が居たぐらいでした。
その様な時期で、当時のアスンション日本大使館を訪ねても、『パラグワイは、まだ開拓が始まったばかりだからーー!』と言う感じで、近所の日本人レストランで食事をしているる大使館員の話しを、近くのテーブルで偶然聞いた事は、『早く本省に帰国したいと言う話ばかりで、どのくらいドルが貯まった』と言う話しでした。それが一般的な公務員の考え方と感じました。
我々が計画する事は、世間常識からしたらキチガイか、少し頭がおかしい妄想主義者の話しか、危険分子のたくらみと思われて話しをする人にも用心して、相談や参考になる話を聞きに行っていました。日本人移住者は田舎の保守的な、村社会の中で育った人が多い感じでしたので、特に言葉は注意して、心許した人以外は、余り話す事は有りませんでした。
計画は段取りの設計から抜け出て、具体的な数字と詰めの計算を緻密にして、前の見本が無い手探りの計画立案を描いて行きました。その途中で歴史の本を見ていたら、スペイン人で一番多く奴隷としたインジオの女性に子供を産ませた男は、260人近い数字だったと書いてありました。嘘か真かは、その真偽は知りませんが驚く数字です。仮に260人を産ませたら、20年先はどえらい人数となります、結婚年齢が低い時代です、それで一族固まれば、恐ろしいパワーとなったと感じます、昔ですー!
余り人口がいない時代、その様な家族が固まって、分家して力合わせて、領土を拡張して行ったら、直ぐに大きな領地を持ち、大きな政治の勢力となったと感じます。日本人移住者が結束して力合わせて、一大勢力とする事は、移住者の年齢からしたら当時の状況は大変厳しい情勢と判断しました。余りにも地域が密でそれ以外は交渉が無い、日本の村社会をそのまま持ってきた感じがしたからです。理想とする事が余りにも小さく、金や仲間の近所より、一山多く儲ける事が目標でした。
下準備が整った時点で、その事が大きな壁となりました。最終の計画が済んだ時点で、我々が一番心配したのはやはり、移住地の日本人の集団でした。儲け話しには直ぐに乗って来るのに、先の見えない、先の分らない、金にもならない話しはそっぽを向いて、用心して心開いて話し合う事も出来ませんでした。
日本の田舎から部落総出で移住してきた人達もいましたので、中には日本の村社会より、厳しい環境が有る地域が存在して、狭い移住地を作り、親戚や家族でないと信用してくれない風潮が有り、とても我々の計画を話し、相談する事も無理と感ずる所も有りました。そこが一番の難点を感じ、打開点を探していましたが、生活に追われ、なおかつ現実に迫られた生活苦が我々が百年の先を見て語る事を、夢物語として拒否していました。現実の厳しさが夢を見るのも、それを実行するのも、全てが大きなギャップとなり、改革を夢見てーー!将来を思い、計画した数字が現実との埋まらない差に、先にこの計画を進め様とすればするほど、壁に出会い、パラグワイの日本人社会では、時期早朝と感じる様になりました。
武力で政府転覆をすると、どのくらいの人数で成功するか考えた事は、2500名の精鋭がいたら出来ると、自衛隊出身者が話していました。200輌の戦闘車両、トラック、ジープなどが有れば、それを支える分散した移住地の支援があれば成功は間違い無いと言っていました。
しかし、その様な事は当時のパラグワイ社会では受け入れてくれる余地も無く、日本政府が援助と支援があればと話す、自衛隊出身者も現実を見て、夢で終るか〜!と嘆いていました。計画を詰めた時点で、もう一度改めて見直す事にしました。
ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画   第9回
パラグワイを見て感じる事は、まだまだ余裕の有る国です、しかし、人と財力と教育と、情熱が不足していると感じました。豊かな土地を持ち、僅かな人口ではとても開発は無理と思い、またそれに一番必要な資金も不足していました。
アルベルト.フジモリ前ペルー大統領が日本から移住した移民の子供で初めて一国の大統領と成った事は、かなりの衝撃でした。泡沫候補とささやかれながら、最後まで残り、大統領までなった事は、選挙の恐ろしさと、意外さが有ります。
ペルーは原住民の血を引く人が80%以上も居ると言われて、一部スペイン人侵略者の血を維持する一握りの白人がペルーの社会を押えています、その中でフジモリ氏が大統領に就任した事は、我々、南米を知るものとして衝撃の心を持ちました。
彼が辞任しなくて、あと10年間以上、大統領を維持したら、かなり南米の政治地図が変わっていたと感じます、彼が長年隣国と争ってきた国境紛争も解決して、彼の改革と建設で3000以上の学校建設がなされ、その成果が完全に出てきたら加速されたスピードと成って、ペルーが新しい国となったと感じます。我々が夢見た事は、後になってフジモリ氏により形は変われど実現した事は、パラグワイでも夢では無かったのでした。
今から思うと当時のパラグワイの移住形態が複雑で、移住者のレベルが余りにも狭かった事を感じます。
私達が計画を立案して、最終的なプランを整理していました。ストロエスネル将軍が当時のパラグワイの大統領で、かなりの独裁政治をしていましたが、彼はドイツ人移民の2世です。
1964年頃に当時のアルゼンチンのポサダで、ある日本人の一世から話しを聞いたのでしたが、戦前、アルゼンチンのポサダでカフェー屋を開いていたが、いきなり『あいつは学生時代に俺の店でコーヒーを飲み、そのコーヒー代も無かった時代が有り、こずかいを与えていたーー』と話していました。
彼はその後、パラグワイで政権を取り、大統領まで登りつめた男でした。そんなドイツ人2世がパラグワイで政権が取れたわけですから、日本人が団結すれば必ず日系か、その支持者が大統領になれると確信していました。
それは裏を支える、ドイツ人の移民を見逃す事は出来ません、彼等は団結力が強くて、お互いに力を出し合って前に進む事を考えています。あるパラグワイに移民で来ていた日本人が話してくれた事があります、その事は良く日本人の性格を浮オていると感じました。
彼は戦時中、満州でロシア軍の捕虜となり、シべリアに送られて、そこの捕虜収容所でドイツ人の捕虜と一緒になり、彼等が団結して権利を主張して仲間を守り、仕事でもノルマ以上は絶対に手を貸さなかったそうですが、日本人は仲間割れして、仲間を裏切り、お互いが疑心と猜疑心での付き合いで、まとまりが無くその事がもとで、多くの人が死亡した原因ともなったと話していました。そのような話を具体的に聞くと、心乱れました。
果してこの話を日本人社会で話して、同士を集める事は出来るか、大きな壁に突き当たりました。それは致命的な計画の壁となりまして、移住地の村社会から、もっと小さな部落社会と細分化された付き合いでは一度話すと、取り返しがつかない事態となると卵ェされました。開拓初期にお互いが森林伐採を競い合い、『俺の土地は20町歩開拓したーー!』
『俺は23町歩がーー!』と、後も、先も考えずに資金を注ぎ込み気が付いたら、仲間割れと、いがみ合いと猜疑心が残ったと話してくれた人が居ました。それで植えつけた永年作物が先の見えない産物で、販売市場が無くて破綻の道を歩き出した時代と一致して、我々が計画の時期として、一番の不適切な次期に始めたと感じました。それは深く探りを入れるほど分って来ました。
自衛隊出身者がパラグワイに用事で行き、確かめて確信して来ました。彼は帰宅して、その夜一番に口を開いた事は『時期早々ーー!』の一言でした。
 次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画  第10回
『時期早々ー!』との答えに我々は頭を抱えて考えていました。しかし、情勢は変わりませんので、これからどうするか協議しました。アルゼンチンのミッショネス州に僅かですが昔からの日本人移住者が落ちついていました。
中にはかなりパラグワイからの、昔の転住者がいました。それと婚姻関係でパラグワイから嫁に行った人も居ました。それらの日本人とブエノスに出て来て、パラグワイの将来を思う人達を集めて話しを進めるか、検討することにしました。
これは時間的に、距離的に難しい事です、その当時は汽車でブエノスからパラグワイ国境のポサダの町まで一日掛かり、それからバスで2〜3時間は掛かる所ばかりです、話しと言っても電話などない時代、とても通信連絡が出来ません、話しをすれば必ずや理解をしてくれる人も居ましたが、所詮が無理と感じる様になって、当時のブエノス近郊でのパラグワイからの転住者は生活に追われて、かなりの人が時間的な余裕を無くして生活していましたので、両方の日本人と日系人に話しを持って行くチャンスが無く、ここでも壁に突き当たり、しばらくは我々の頭を冷やして、冷却期間とする事にしました。
要点は一冊のノートに全部まとめて、他の検討資料は全部廃棄してしまいました。残ったのは一冊のノートと、パラグワイの地図類でした。全てを記載して、その要点が全ての計画を組み立て、実行後のプランも練って記載されていました。
その全てを私が預かり保管して、しばらくは夜の集会も中止する事にしました。丁度その頃でした、ある人から話しが有りまして、アルゼンチンの北部、サルタ州で農場の支配人の仕事を持って来ましたので、私も心乱れて考え、一度下見がてらサルタ州に行き、帰りにパラグワイに寄って私も現実の確認をする事にしました。仲間にその事を話して、出発していきました。
おそらくそれで、この話しの決着を付けるつもりでした。ブエノスを出て、汽車で先ずパラグワイの隣りのミッショネス州のポサダまで行き、そこから渡しでエンカルの町に渡りました。
パラナ河の流れが両国を二分して、悠長にかなりの水量を湛えて流れて行くのを見て、この雄大な観景に見惚れていました。渡し場で幾人かの日本人と会い、中には家族でパラグワイを離れて、隣国のアルゼンチンに転住する家族と見られる人達も居ました。私は複雑な気持ちを抱きながら、乗合小型バスで移住地の奥に友を訪ねて行きました。
ブエノスからのお土産を抱えた私を歓迎して迎えてくれまして、その夜は二人で酒を酌み交わして、持参したノートを見せました。彼はしばらくはノートを熟読していましたが、最後に一言ーー!『あとはパラグワイ移住地に居る日本人が動けば、必ずや成功すると思うーー!しかしそれはかなりの難題で、誰かここで営農して移住地に住んで、一人ずつ口説いて行かなければ誰もその話しは信じてくれないし、また話しの相手もしてくれない』と彼は話してくれた。私も同感の心を持って、その夜は床に付いたが中々眠れなかった。その翌朝、彼は朝の仕事が一段落した時点で、話してくれた。その話しはかなり私の心に染みて聞いていたが、彼は『パラグワイの時間と、日本の社会が動いて行く時間との差が余りにも大きいので、こちらの話しがまとまり動いた時は、日本ははるか彼方の方に移動しており、その民族的な国民性を埋めるギャップは難しいーー!』との彼の話しに何かこの計画の一番の誤差が有る感じを受けた。
レベルの違いと、早さが噛み合わないのであれば、計画事態が実行のチャンスを掴む事はますます困難になると感じた。私はパラグワイまで来て良かったと感じた。私は一番大切な事を覚ったと感じ、具体的な計画を中止する決意が付いた。後は何も後悔は無かった。全てが済んだと感じた。
彼は私が中止の決定をすると言うと、短く『それが良いーー!』と話すとまた畑に戻って行った。
私も他の用事をかたずけて来ると話すと、『夜にまた話しに来まますからーー!』と告げて友達の家を出た。
次回で最終回となります。

パラグワイ国盗り計画 
最終回、
パラグワイの国盗り計画を立案して、初めは色々な本や資料を集め、読んでから最後はノート一冊にまとめ、そこに全てが順序良く整理されて、まとめられていました。
当時はパャRンも無く、全てをノートに記載しておく他は有りませんでした。私はその日にエンカルの町に出て、町で商店を開いている日本人の知り合いを訪ねて、当時のパラグワイの状況と景気の先行きを聞きました。それは余り芳しくないのもでした。やはり日本人の農業経営が苦しくて、余裕など無い生活の人が多いと話してくれ、野菜を作ってもエンカルの町が直ぐに溢れてしまう様に野菜が生産されて、このままでは半分の移住者が隣国に移転して行くと話してくれました。
私はその話しを聞いて、心が寂しくなる感じでしたが、生活が成り立たないのであれば、この話しはすべきでは無いと心に感じそれ以上は話す事は無く、買物を済ませると、またバスで友人の農場に戻って行った。私は昨夜の話しを最後に全てを心とカバンに深く仕舞い込み、パラグワイでは二度と話す事も無かった。
その夜、友人と別れの酒を酌み交わしていた。彼は私にブラジルに転移住すると、ポツリと漏らした。『兄がブラジルに移住していて、サンパウロで養鶏で成功して、家族で来る様にと誘ってくれて、決心がついて今度の収穫が終ると、私もこのパラグワイには居ないーー!』と話してくれた。全てがこれで終ったと感じ別れの酒は苦かった。翌朝早くバスに乗り、いつ会えるか分らない友と肩を抱き合って最後の別れとした。彼は最後に『この話しは夢と思うなーー!いつの日かチャンスが来るからーー!』と送り出してくれた。この別れが彼との最後であつた。その後二度と彼とは会う事は無かったが、今では最後まで残り、協議した人は全部亡くなるか、消息不明の事になり、ただこの計画が闇の彼方に消えてしまう前に、歴史のほんの僅かなページに書き残して置きたいと思いました。
そのあとだいぶ時間が経ってから、ペルーでアルベルト.フジモリ氏が大統領に就任した時の感激は同じ南米の国で現実に起きた快挙に、飛び上がって喜んだものでしたが、今ではすっかり世界情勢から、パラグワイの世の中も様変わりして、今では夢物語にしか過ぎません。ノートや地図など全ては、私がボリビア国境のサルタ州から帰って、そこの農場に支配人として行く送別会の、アサードの焼肉を作る焚き火の火に投げ込まれて全てが灰となってしまった。
世の中にはヒョンな事から、人が考えない様な事が生まれて来る事が有ります、現代社会ではとてもその様な発想は無理かと感じますが、昔はそんな事を夢見る事が出来たのでした。
終り。




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