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栗本 克彦さんが7月28日午前7時50分に亡くなられました。(追悼特集1)
『私たちの40年!!』HPでは、初期の段階から栗本さんには日本の多くの支援者獲得にご尽力頂き栗本さんを通じて多くのメール友、仲間が生まれ2003年8月には大分県の昭和の町、豊後高田市を案内して頂いたり、別府での桐井さん、佐藤さんご夫妻ミニオフ会を持ち親しく話し合う事ができました。カメラを首から懸けて元気良く歩く姿は何度もガンとの戦いを潜り抜けてきた闘士というよりガンと共存しているヒョウヒョウとした物事を達観されている感じがしましたが別府でお別れした朝は別れを惜しむというかお互いに胸に熱いものが込み上げてくるのを覚えました。二人で福岡アビスパがJ1に昇格し栗本さんの大分との九州ダービを一緒に観戦することを約束していたのですがそれも果たせなくなりました。4月末に福岡までアビスパを応援に行ったのですが、栗本さんとはお会いできず電話連絡も取れないままに戻ってきたのが悔しいです。
写真は、別府の明礬温泉の宿まで来て下さった時に佐藤さんが撮っておられた最後の写真をお借りしました。


インタネットで知り合いホームページを通じて御互いの人生を知り尽くし機会を見つけての直接交流、生き身の付き合い、語らい、声を聞き、仕草を見ての触れ合いその後の別れIT時代でなければ恐らく知り合う事もなかった栗本さんとの繋がりをIT時代のホームページ、掲示板、画像掲示板等を通じて栗本さんの人生の最後3年弱のお付き合いを拾い集めて追悼特集として残して置きたい。

栗本さんが『私たちの40年!!』HPに現れるのは、寄稿集103番目の下記URLです。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=168
栗本 克彦さんの「わたしのページ」を見つけました。
ブラジル移民関係のHPを検索していて偶然、栗本 克彦さん(大分県在住)の「わたしのページ」を見つけました。栗本さんは、元大阪商船にも勤務しておられ我々のあるぜんちな丸第12次航の航海当時大阪商船大阪本社に勤務しておられたとの事。北朝鮮から歩いて38度線を越えて帰国され、数奇の人生を歩み70歳を越されてご自分のHPを開設、管理更新を続けておられ『私達の40年!!』HPとも共通点が多いことからリンクを唐轤ケて頂く事にしましたが、HPの第7章「南米航路移民船」を寄稿文欄に転載させて頂きます。是非「わたしのページ」の続きをHPでご覧下さい。写真は、若き頃のあんです丸乗船の時のものをHPから転載させて頂きました。栗本さん有難うございます。今後も宜しくお願いします。

2番目は、寄稿集145番目の下記URLです。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=243
希望の船出 栗本克彦さんの寄稿
『私たちの40年!!』HP寄稿集104番目に掲載している栗本克彦さんの「私のページ見つけました」で紹介している栗本さんの 【人生・ロマン・メッセージ】のHPの「日々新しく」との題で日記を9月から掲載されています。その最近の欄に希望の船出(9月28日付け)と題する栗本さんの文章が掲載されておりこれを写真と共に転載させて頂きました。「南米航路移民船」として続編23章以下を継続して掲載していくとの事で楽しみにしております。栗本さんは、3年来ガンとの共存共栄10月7日に東京で精密検査を再度受ける嵐閧ニの事ですが8月には帰路富士登山を果たし神戸にも立ち寄られた頑強な意思をお持ちの方ですので今回も乗り越えられるものと確信しておりますが、ご自愛頂きたい方です。
9月23日付けの富士山頂も一緒に転載しておきます。『私たちの40年!!』HPのリンク集にも栗本さんのHPがリンクされておりますので是非ゆっくり読んで見て下さい。

3番目は、寄稿集162番目の下記URLです。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=275
南米航路移民船A栗本さんの私のページから。
栗本克彦さんのHP 〔人生・ロマン・メッセージ〕の中にある私のページ第7章「南米航路移民船」を見つけて寄稿集第104番目に転載させて頂いておりますが、今回ガン再発で心身ともに滅入っておられるなか南米航路移民船AとBを書き上げられました。これは『私達の40年!!』の為に書いて下さったもので頭の下がる思いがします。ガン再発通知の後、富士登山に再挑戦、帰路わざわざ神戸に立ち寄られ自ら取材さえた渾身をこめた南米航路移民船AとBです。栗本さん本当に有難う御座います。
尚、栗本さんのHPと連絡を取る中で日本の多くのHP運営の素晴らしい人達との出会いが始まりました。この点でも日本の皆さんへの『私達の40年!!』紹介者としても大変お世話になりました。

4番目は、寄稿集163番目の下記URLです。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=276
南米航路移民船B栗本さんの私のページから
栗本 克彦さんのHP 『人生・ロマン・メッセージ』を私たちのHPにもリンクさせて頂いておりますが、その中の私のページ 南米航路移民船@を見つけて掲載させて頂き今回その続きAとBを掲載させて頂きました。大阪商船の通信員として若い頃に移民船にも乗られた経験から暖かい目線で移住を見つめて下さっており感謝しています。栗本さんのHP第9章少女と共にクリスマスおよび第11章日本一周そして南米に出てくるE子さんとの出会いと別れには涙を誘われますが、この度サンパウロ新聞の尋ね人記事によりお元気なE子さん事、藤木エリ子さんの消息が掴めました。若々しいお声で溌剌としておられるエリ子さんとの電話の会話に人事ながら胸が詰まりました。1952年当時15歳と21歳だったお二人の50年後の再会が東京の国立ガンセンターで手術を受ける栗本さんを見舞う形で実現しようとしている。詳細は栗本さんのHPでフォロウ下さい。写真は今年8月に富士登頂記念に撮られたものです。

休暇下船の決まった最終航海・・・ 寒い日本に向かう私のために編んだ白いマフラーをE子さんから渡された・・・南半球は真夏だった。サントスを出港する夜、私達は泣きながら別れの言葉を交わした・・・その後、E子さんはどんな人生を歩まれたのか分からない。涙があふれたE子さんのつぶらな瞳が私の脳裏に蘇ることがある。生きている間にもう一度!サンパウロの街とサントスの港を歩きたい!!

5番目の栗本さんの寄稿集への登場は、移民船に付いてでなく栗本さんの人生における大きな出来事のひとつともなった青春との邂逅です。『生きている間にもう一度!サンパウロの街とサントスの港を歩きたい!!』とのご希望を直接果たす事が出来ませんでしたが、その目的のひとつは果たせたようです。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=297
半世紀の歳月を経て再会へ!! 栗本さんのHPにある幻のE子さん見つかる。
『私たちの40年!!』HPに紹介している大分県在住の栗本克彦さんのHP『人生・ロマン・メッセージ』の《私のページ》第9章、第11章に出てくるE子さんの消息を調べて挙げたいとの気持が強く栗本さんに御相談した所、是非どうしているか消息だけでも知りたいとの気持と今更探してE子さんに迷惑を掛けるのではないかとの危惧の板挟みで決めかねておられた。コロニアの生き字引サンパウロ新聞内山編集長にお電話でお聞きしたが昔の話で判らないとの返事で殆ど諦めていたのですがサンパウロ新聞の10月22日版で簡単な尋ね人記事を掲載して頂いたところ、新聞の威力でご本人から電話を頂き思わず声が上ずる驚きを覚えました。同じサンパウロ新聞の10月31日付けの社会面で53年前のサントスと撮ったお二人の写真と共に大きなスペースの記事として掲載されました。ご本人が写真を提供し取材に応じられ新聞記事になっているのであればHPに公開するもの私は問題ないとの栗木さんの了解も得てここに紹介する次第です。これからの進展は、栗木さんご自身の問題として見守って行きたいと思います。写真は、訪日準備に忙しいエリ子さんをサンパウロのご自宅に同船者の小山徳さんに訪ねて頂き、撮られせて頂いたものです。


6番目の栗本さんの寄稿集は、第290番目の下記URLです。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=451
「シニアとパャRン〜粋な関係」大分合同新聞および「ブラジルへの思い」
今回の訪日で大分県を尋ね宇佐駅で待ち合わせ昭和の町豊後高田市、国東半島の富貴寺始め沢山の仏閣と宇佐神宮を案内して下さった栗本克彦さんとはHP、インターネットを通じてお知り合いになった方です。移民船の通信員としてブラジル移民50年祭の行われた1958年にブラジルに来ておられたブラジルとの関係45年の大先輩です。今回妹さんの後藤暎子さんと共に楽しい1日を過ごさせて頂きましたが、別れ際に手渡して呉れたのがこの大分合同新聞、2002年8月7日付けの新聞の切り抜きでした。丁度メール交信を始めた頃の記事で懐かしく思いました。
同じ時に渡された『ブラジルへの思い』を南米航路Cとして栗本さんのHPに掲載される嵐閧ナすが、今回肝臓ガンが再発10月22日から国立ガンセンターに再入院されるとの事でUPが遅れるとのことですので一足早くここにUPして置きます。
写真は、日本でお会いしたときに撮らせて頂いた栗本さんです。


『私たちの40年!!』HPには、掲示板が設けられており2002年の8月5日より栗本さんの書き込みが始まっています。栗本さんとの掲示板を通じての思い出の遣り取りを収録して置きます。
私たちの40年!! 私の40年とダブらせて感慨深い思いです。私の青春時代は大阪商船の船舶通信士で南米航路に乗船していました。
共同通信社のモールス符号で送られてくる日本のニュースを移住者の皆さんにお届けしていました。
そして移民船といえば、神戸の第4突堤、そしてラスト・ート横浜の大桟橋・・・テープと蛍の光・・・・・・未知の国への旅立ち、45日の船の生活、歳を取った所為か思い出が鮮明に蘇ることがあります。
そんな思いを込めてのHP 南米航路移民船をリンクして頂いて有難う!!
2002年8月5日の栗本さんの最初の書き込みです。同日付での返事が下記です。
栗本克彦 様
通信欄へのご投稿有難う御座います。栗本さんのHP【人生・ロマン・メッセージ】既に1万回を大きく上回るアクセスを誇り人間栗本が飛び込んで来る名作です。南米航路を寄稿集にも掲載させて頂いておりますが数奇の人生行路を歩んできた先輩として尊敬しております。あるぜんちな丸第12次航でも通信員の方がおられ船内ニュースのネタを提供して貰ってましたが、当時の残っている船内新聞には、春の選抜野球作新学院優勝とか島津貴子夫人ベビー御出産とか事が浜引退か?ゴールデウィクに130万人の人出等のニュースが見られますが栗本さんも同じようなお仕事をしておられたことがあるのですね。
お手元の資料等であるぜんちな丸に付いてもう少し数字等を教えて下さい。処女航海から移住終焉までに何人位の移住者を運んで呉れたのでしょうか。美人薄命といいますが余りにも短い命、どうして台湾まで引かれて行って解体されたのでしょうか?お時間のある時に教えて下さい。


私は日本全国のシルバー世代の集うメーリングリストの一つ「電脳老人力」に入っています。そのMLに投稿し、「私達の40年!!」を紹介させて頂きました。そのCOPYです。
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W杯で優勝し、ジーコ日本代武V監督などブラジルの話題
が多い中で、ブラジル、アルゼンチン在住日系人からのメールが急に増えてきました。
昭和30年代、私は移民船に乗り、多くの人達をブラジル、アルゼンチンなどに送っていました。
戦後、貧しい日本から新天地を求めて南米などに移住した日本人は6万3千人にのぼりました。 この人達の中で自分達が乗船した移民船の写真を、私のホームページ「南米航路移民船」から見つけてネットで紹介し合って下さったようです。
海外移住への夢と不安を乗せて航海した40数日、遠い南米に渡り、苦労した時代を思い……懐かしく思われたのでしょう、、当時を思い、祖国を思う心情に溢れたメールからそのご様子が伝わってきて、胸を打たれます。
南米は冬のシーズンを迎え、寒さが身にしみるようになりましたと書かれたメール・・・ 40年前に移民船の日の丸を見ながらタラップを降りたことを鮮明に思い出しますと書かれたメール・・・・
南半球、日本から見ると地球の裏側ブラジル、アルゼンチンで、懸命に生きておられるシルバー世代の日系人の方々を思います。
もう40年も前のことを話題にしながら、メールでの交流が始まり、ホームページを公開して本当に良かったと思っています。40年前はエアーメール、何日も・かって届かないこともありましたが、今は世界中に繋がったパャRンに向かい、キーボードを叩きながら、インターネットの素晴らしさを再認識しています。
私のHP「掲示板」に南米各地からの書き込みがあって、嬉しいです。
(参考) あるぜんちな丸第12次航で移住し、シルバー世代を迎えた 人達が作った HP「私たちの40年!!」のURLは   www.nikkeybrasil.com.br/40anos">http://www.nikkeybrasil.com.br/40anos

2002年8月8日の栗本さんの書き込みです。当日付けで下記返事を出しております。
栗本 克彦様
日本全国のシルバー世代に集うメーリングリストの一つ「電脳老人力」のMLを通じて『私たちの40年!!』を紹介して頂いたとの事、有難う御座います。又新たな出会いが電脳を通じて始まる頼エがしており胸がときめきます。
あるぜんちな丸第7次航の野口みどりさん親子三人とのあるぜんちな丸交歓会は、15名の関係者が集まりとても楽しい一時を過しました。写真等も『私たちの40年!!』写真集に掲載しております。このような『あるぜんちな丸友の会』の輪が大きく広がって行けばと期待しております。栗本さんの来伯を楽しみにしておりますので是非実現させて下さい。あるぜんちな丸でどの程度の移住者が運ばれたか正確な数字等が分かればお知らせ下さい。


ヒロシマ・ナガサキの原爆から55年目、8月10日のNHK TVで長崎で被爆しブラジルに渡ったサンタカタリ-ナ市の小川和己さんが、長崎市から送られた鐘を慣らしてモニュメントを開いたことが放映されていました。
日本は太陽がギラギラの猛暑ですが、暦の上では立秋とか
2002年8月10日に栗本さんが書かれた投稿です。8月12日の返事と一緒に掲載して置きます。

栗本 克彦 様
NHKのテレビで紹介されたのは、南伯のサンタカタリ-ナ州のラーモス移住地に入植された長崎県の原爆被爆者小川和己さんです。小川さんは学徒動員で三菱の長崎造船所で働いている時に被爆されその後リオ・グランデ港上陸第2回目の移住者として移住して来られラーモス移住地に長崎県出身者を多数呼寄せ長崎市から被爆した浦上天主堂にあった長崎の鐘のレプリカの一つを送られ現在ご自分の農場の一番良いところを割いて『平和公園』を建設中で今年の10月には開園の嵐閧ニの事です。この長崎の鐘は、現在海外には国連とラーモス移住地の二つしかない貴重なものとの事でサンタカタリ-ナ州議会、州政府アミン知事等も同州の平和を願う新名所としてPRして行く方針を打ち出しており、舗装道路、飛行場の建設等にも繋がり移住地の活性化、被爆者小川さんを通じての長崎県、日本との交流が広がって行く様です。10月の開園式には是非出向いて見たいと思ってます。貴重な通信有難う御座います。

栗本 克彦 様
本日のニッケイ新聞に下記の通り『長崎の鐘』の平和公園についての記事がでていましたので参考に添付しておきます。
ラーモスー『平和の鐘』鳴らせー長崎使節団も式典に参加
10月11日(金)
 ラーモス移住地原爆被爆者会(小川和巳代普jは曙ワ日午後零時三助ェ、サンタカタリーナ州ラーモス移住地『平和の鐘公園』で同公園第一期工事落成式を開く。工事完成とともに平和を誓い合う。
 式には、今朝サンパウロ国際空港に到着した長崎県人会創立四庶年慶祝使節団の最高顧問、加藤寛治県議会議長はじめ市議たちが参加する。
 ブラジル側からはサンタカタリーナ州知事、同州議会議長、フレイ・ロジェリオ市市長たちが参加する。公園建設工事は同州政府の協力で進められている。連絡電話=41・338・6445(パラナ州クリチーバ市平和公園建設事務局、中村矗)。


「私たちの40年!!」は日々充実されてるようで良いですね。
私のHPは最近更新されておらず、訪ねて下さる方に垂オ訳ないと思っています。
10月の再検査にちょっと気が重くなって動きが悪くなったようです。
日本では小泉首相の訪朝、北朝鮮との首脳会談が大きなのニュースになっています。
私にとって小学校の5年から中学2年まで過ごし、終戦を迎えた平壌ピョンヤンの記憶は鮮明です。
終戦時に北朝鮮在住の日本人、満州から逃避行の日本人は、連軍に便乗して北朝鮮の人々が行った抑留、略奪、枕sの数々で、何万人も死んでいきました。
これらの人々は北朝鮮に対し日本が謝罪したら、どんな気持ちでしょうか・・・・複雑な心境です。
日本政府は国交正常化よりも、先ずは拉致事件や工作船等の真実の解明が先で、謝罪、補償などもっての外であると思っています。このことをネットに流したら私のHP 「北朝鮮物語」 を見た人からの反響が大きく対応に追われています。
朝鮮半島の知人や同級生からメールが来て、北朝鮮のサイトで論説やコラムを読む機会が多いのですが、 私は戦争中の「大本営発普vを思い出しました。
母校 平壌第1中学校のHPがないかな? インターネットで検索したら金正日総書記の母校が出で来ました。 
勿論、彼らの言う解放後の新しい学校ですが、なんだか変な気がしました。
ブラジルとも、こうして距離と時間を忘れて交流が出来る時代なんですね!!
なんだか取りとめのないメールになりましたが、インターネットの力を再認識しています。
毎年のことですが、大好きな夏の終わりは、寂しさが私をつつみます。富士登山の、高山病と寒さで苦しんだことは忘れて楽しい夏の思い出になりました。
歳と共に月日の経つのを早く感じ、何もしないで、取り返しのつかない歳月を過ごしている感じで人生これで良いのかな??何か大切なことをしなかったような気がすることがあります。 
デジカメを忘れて富士登山、神戸を訪れ、記念碑の写真はまだ簡便なカメラの中に残されて、投稿がおくれて垂オ訳ありません。

2002年8月31日付けの栗本さんの書き込みとそれに対する返信です。
栗本 克彦 様
東京での定期ガン検査、富士登山、神戸港訪問、更に10月には再検査と何かと落着かない日々のようですが、無理をせずにゆっくり、のんびりして下さい。
小泉首相の訪朝問題は、そこに住んだ者しか分からない複雑な気持があるようですね。
所で初代あるぜんちな丸の豪華客船で大連から帰国された布施さんからの質問に対してのご返事有難う御座いました。直接メールでもご返事されたとの事ですが一応、この欄でも布施さんに栗本さんからの情報としてご返事しておきました。
神戸での移住者船出の碑に纏わる感慨等急ぎませんが宜しく御願いします。先ず栗本さんのHPに掲載して下さい。それを寄稿集に転載させて頂きます。
では又お体をお大事にして下さい。

和田 さん
写真を送っていただいたお陰で雑踏のなか直ぐわかり、成田で47年ぶり感動の再会が出来ました。
シンガ・ール、サンパウロ、そして東京で・・・・運命の出会いがありましたB
ご子息のお孫さん、丁度手のかかるときでしばらくはその世話をなさるそうです。 
栃木県小山市・・・今日も47年の空白を埋めたいので九州に帰る前に訪ねて、積もる話をします。
またゆっくりメールします・・・お礼の言葉まで・・・
エリ子さんも大変感謝していました。有難うございました。
*** 栗本克彦 ***
kurimoto@mvb.biglobe.ne.jp
www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri">http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri

2002年11月11日栗本さんが書かれた投稿とそれ以後の書き込みです。
栗本 克彦 様
成田での再会劇的でしたね。塀の上でどちら側に飛び降りるか躊躇っておられた栗本さんの肩を一押しするのをお手伝いしただけですが危険も伴う大きな賭けだっただけに結果がお二人に喜んで頂ける形で一応一件落着で肩の荷がおりました。これからの進展は少し距離をおいて外野席から応援の立場を取らせて頂きます。サンパウロ新聞に掲載された記事をそのまま『私たちの40年!!』HPにも紹介させて頂いておりますが、エリ子さんにお借りした写真も写真集に掲載しております。サンパウロ新聞のコラム欄モザイクにもコメントが出ていました。これも写真の説明文として掲載しております。エリ子さんはサンパウロを発つまで近くの東洋街(昔は日本人街と呼ばれていました)で多くの知人から冷かされたり羨ましがられたりで話題の人だったそうです。いつブラジルに戻ってくるかとの質問に答えられないパニック状態が続いていたとの事ですが新聞記事にもある通り日本に発った後の記事であれば一生すれ違いか巡り会えるとしてももっと先の事になっていたと思うと「運命」というか神の見えざる手を感じるとの事でしたが、本当かも知れませんね。この邂逅を大事にして下さい。
BOA SORTE E FELICIDADES !!

半世紀ぶりのX’mas
私の乗船したC丸は50年前の1952年シンガ・ールに入港しました。同じ岸壁にサンパウロに帰るE子さんの乗船したオランダ船テ号が接岸していました。私はE子さんと、船員クラブのX’masパーティに出席しました。数日後、日系ブラジル二世のE子さんはインド洋、アフリカ、大西洋の彼方、ブラジル、サンパウロの外港サントスまで、地球半周の長い長い船旅・・・そして私は針路を日本に向けて航海・・・永遠の別離と思いました。50年前、私は21才、E子さん17才、クリスマスイブの出来事です。私のホームページに書いたこの出来事をインターネットで見たブラジル在住の方がE子さんを探し出して下さいました。奇跡は続きます。 日本に出稼ぎの息子さんと会うため来日したE子さんと再会できたのです。 そして、ちょっと早い2002年X’mas を銀座で迎えることが出来ました。50年の歳月の重みと、シンガ・ールの可愛い少女〜サンパウロの可憐な乙女〜がダブって、私は胸が一杯になりました。
栗本さんのHP<人生・ロマン・メッセージ>の日々新しくの12月12日記載からの転載です。

ちょっと早い2002年のX’masを銀座でむかえられたとの事、良かったですね。今年最高の出来事でしょうか。何しろ50年振りのお二人のクリスマスですから。エリ子さんも喜ばれたと思います。直接お会いしていないのに何か身近な身内か何諸N来の旧友のように感じますが時と距離を感じさせないIT時代の有難さをまざまざ感じさせる出来事でした。
来年も栗本さんエリ子さんに取って良き年となるようお祈りしております。ブラジルの友より!!



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