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ブラジル中西部への6708kmの家族大遠征旅行の記録 (後編)
1962年5月11日にあるぜんちな丸第12次航の皆さんと共にサントス港に到着してブラジルでの生活が始まったのですが、当時移住船に乗って来たとは言え早稲田の現役の学生であり休学が認められる最大の2年間をブラジルを中心とした中南米12各国(船が立ち寄った国を含む)をほっつき歩き帰国後早稲田を卒業、再移住して最初に入ったのが現トカンチン州のグルピーの町でした。現在は、州都パルマス、アラグアイーナの町に継ぎ州内3番目の町に成長している大きな町を37年振りに家族と共に訪ねることができ当時唯一のアミゴとも言えるジェラルド神父さん(72歳)、青森県出身の秋田谷男則さん(83歳)ともお会い出来住んでいたシャカラ・サンタ・テレーザのバナナ畑後とアグア・フランカの確認作業が出来大満足の旅となりました。
写真は、モンシニョール・ジェラルドさんと撮ったものです。




グルピーを出て昨夜泊まったゴヤス(ゴヤス州の旧都)では立派なホテルなのに各部屋に電話が無くインタネット接続が出来ず丸一日連絡が途絶えました。本日夕刻、温泉地カルダス・ノーボの日本人経営のTAIYO THERMAS HOTELに泊まっておりやっと部屋で電話接続が出来これを叩いています。明日はリオ・ケンチに移動して後1泊、金、土の2日間を掛けて南に2000kmの岐路が待っています。無事帰り着くように無理をせずに戻る積もりです。2日遅れですが第6日目の報告を下記して置きます。
8月8日(月) 第6日目
日中の32度の温度にあたり日射病に掛かったようで少し発熱、鼻水が出て体がだるく起き出せず8時過ぎまで愚図愚図していた。ホテルで朝食を採り、グルピー訪問の目的の一つであるPadre Geraldo(ジェラルド神父)を訪問する事にして歩いて近くの教会に出向く。40年前に住んでいたシャカラ・サンタテレザの農場から約4km離れたこの教会まで自転車で日曜日のミサに通っていた。当時、ブラジルで唯一のAMIGO(友人)と呼べる付き合いをしていたのはこのジェラルド神父さんと昨年亡くなったと聞かされたルイ神父さんしか居なかった。ブラジルに於ける最初のアミゴと言える大事な人でポルトアレグレにも2度ほど訪ねて呉れたことがあるがそれももう15年以上昔の事で娘達がインデペンデンシア大通りの丸紅の社宅時代に来てくれたのが最後だったと記憶力の良い次女茜が良く覚えていた。既に現役の神父さんを引退してモンシニョル・ジェラルドとして悠悠自適の老後を過ごしておられ我々の訪問を非常に喜んで呉れた。現在72歳との事で私より僅か7歳違いですがグルピー時代は私が25歳、パドレ・ジェラルドが32歳だったことになるが、もっと年齢の差がある神父さんだとの認識が有りましたが同じように年を取るとそれ程の年齢の差を感じさせない。
夜また夕食をご一緒して貰う約束をして積もり話を残しホテルに戻り昼食、食後の休息後、シャカラ・サンタテレーザを探しに出かける。元のBR14(国道14号線=ベレンーブラジリア)が町の真ん中を通っていたのを思い出しそれがアヴェニーダ・ゴヤスと名前が変わっていたが、このゴヤス大通りをブラジリア側に少し走るとムツカという小さい川があり現在ではこのムツカの川沿いでカーニバルが行われるとの事でここから登り坂になり上りきったところにRODOBRAS(ベレンーブラジリア建設当時の道路建設公社)がありその脇を左に折れて2キロ程の所にシャカラ・サンタ・テレーザがあったことから変わりきった舗装の道を記憶を辿り辿り車で探したが、それらしい場所にNOVA FRONTEIRA COUNTRY CLUBEと言う綺麗なクラブ施設が出来ていた。農地内にAGUA FRANCAと言う小さな川が流れていたことからカントリークラブに入らせて貰い確認作業をするが要領をえないまま一旦グルピーの町に戻り当時隣接地に住んでいた青森県出身の秋田谷さんのお宅を探す。ホテルVENEZA PLAZAと同じRUA 10に住んでいるとの情報をジェラルド神父さんから聞いていたので近くの人に聞いて尋ね当てる。
秋田谷 男則(タケノリ)さん83歳は、72年前の1933年に11歳の時に青森県から家族と共に移住してこられた戦前移民の方でパラナでコーヒー園を経営成功しておられたがその全財産を処分して開拓最全線のグルピーに1960年代初頭に移って来られ米作りように購入した大農場がポッセイロと呼ばれる今の土地無し農民の不法侵入地区で土地開拓を断念したり精米所が政府の農業政策変更で破産したり大変苦労されたようです。40年前にグルピーの町を出る時にはシャカラ・サンタ・テレーザ(私たちが勝手に名付けた50町歩の所有土地)の隣接地に住んでおられた方で当時8歳だった幸男さんがアマゾナス銀行に勤務しながらお父さんの面倒を見ておられた。男則さんは、車椅子に乗っておられたが記憶はしっかりしており昔しの話を聞かせて貰いました。年を取り口髭を蓄えている現在の私は、当時と殆ど変わって居ないとの事で不思議な者を見るような懐かしげな様子で力強く握手をしてくれました。働き者の岩手県出身の奥様は10数年前に亡くなられたとの事でお会いできませんでしたが、男則さんのお姉さんもロンドリーナの寒い冬の季節を嫌いグルピーに来ておられ話が弾む。
暗くなる前に是非元のシャカラ・サンタ・テレーザの所在位置を確認したいとの強い希望から5年ほど前に売却したと言う秋田谷さんの元の農地に幸男さんの車で家族全員で出向く事にする。既に探した当りの直ぐ燐接の舗装のない赤土の道を少し下ると5年前まで住んでおられた秋田谷さんの家が見つかりその隣の小高い丘に建っていた今は無い我が家(雨で流されてしまったそうです)、牧場になっているバナナ畑、静かに牛が草を食む牧場が薪を切り出していた潅木の農地の変わり果てた土地でした。直ぐそこまで町の区画ロッテが来ており舗装も直ぐそこまで来ており古い農地だけがまだそのまま残っていました。多分2度と来ることはないと思いますが、この次に来る機会があれば町並みが農地まで延びて来ているだろうと想像しました。昔と変わらぬ熱い日差し綺麗な夕日、草の匂い、大きく茂ったブリチの椰子の木、牛の群れ懐かしい原風景を娘達にも見せてやることができ、今回の旅の目的を果たした気がしました。
夜、8時にジェラルド神父さんを迎えに行きリオグランデ出身のオーナが経営するポルタール・デ・パンパと言うシュラスカリアでリオグランデ風の焼肉パーテイーを幸男さんにも参加して貰い歓談する。思い出しもしなかった昔の出来事や、懐かしい名前が飛び出し40年の歳月の隔たりを感じると共に当時にタイムスリップして鮮明に思い出されたり不思議なひと時を過ごす。
ジェラルド神父さんは、一人一人に名前を確認し神の加護(ベンャ刀jをして呉れ旅の無事を祈ってくれました。神父さんの家まで送り別れる時に強く交わした握手は、彼の人間身を伝える暖かさを感じ多分これが最後の別れとなる可柏ォが強いだけにぐっと込み上げて来るものを感じました。何時の日かまたポルトアレグレに行くよとの約束でしたが実現するのでしょうか?
過去との邂逅、娘達に親父の生き様の一部なりとも伝える事が出来た今回のグルピーへの旅はこうして終わりました。
明日から生活の本拠、ポルトアレグレへの帰路に入ります。

家族旅行の記録第7日目を送ります。
日本もお盆休みに突入するようですが、私は土曜日にはポルトアレグレに戻り来週か
らはまた仕事に没入することになりそうですが、車での家族旅行は、一家5人が同じ
車に寄り添い合い一家の総てを乗せての長距離旅行、何とか無事ポルトアレグレに戻
り着きたいと願ってます。グルピーのモンシニョール・ジェラルド神父さんのベン
ン(神の加護)を受けているので安心していますが、運転にはくれぐれも気を付けた
いと思います。
8月9日(火) 第7日目
朝7時に起床、電話でのインタネット接続でメールを落とし必要な返事等をして朝食をとり、9時前にホテルを出る。べレンーブラジリア街道を途中から右にそれ一部舗装がないがゴヤス州の旧都ゴヤスの町に直接出る街道を選びゴヤスに向かう。150kmのみ私が運転し残りの450kmは、次女茜が担当する。夕刻4時前にゴヤスに到着、町の入り口の町で2番目に大きなCASA de PONTE HOTELに泊まることにした。町の入り口に有り出来てからまだ3年しか経っていない新しいホテルで窓からは川を隔てて町で一番高い教会の尖塔が見える。シャワーが電気でなくスチームで水量、温度の調節が出来て嬉しいが、唯一難点は、電話が各部屋に引かれておらず受付の電話が唯一の外線とのことでインターネット接続が不可狽ナ音信不通となる。
町の博物館等は、総て午後5時で閉まるとの事で車を車庫に入れそのまま町の見学に出る。ゴヤスの町は、1727年に創設され1937年までゴヤス州の州都であったが68年前に現在の計画都市ゴイアニアに州都が移された。その後町の発展は、止まり高層建築ひとつ無く(土地の地盤が甘く技術的にも3階以上の建物の建設が難しいといの事)、石畳のブラジル帝政、コロニアの様相をそのまま残した町として生き延び2001年に世界文化遺産に登録されてからは、観光の町として注目されている。州都のゴイアニアより150キロ程離れており余程のことが無い限り立ち寄ることは少なく私も今回が始めての訪問となる。電線、電話線等を総て地下に埋め込み町には電柱が無く昔のままの風情を残し石畳とコロニア風の家並みが続く。ミナス州の世界文化遺産指定のオウロ・プレットの町に似た感じがする。1500年に発見された505年の歴史しかない新しい国ブラジルですが、それでも一見の価値がある世界遺産が方々にある。レシフェー郊外のオリンダ、サルバドールのペロリニオ、ミナスのオウロ・プレット、リオのパラチ、リオグランデのインヂオ教化部落の廃墟サンミゲル、この旧都ゴヤスの町と世界遺産として残されている歴史文化遺産の町を見て周りましたが、ポルトガル人のブラジルに持ち込んだ文化が先住民のインヂオ文化、奴隷がもたらしたアフリカ文化、その後のドイツ、イタリア移民を中心とした移民文化が巧く混ざり合い、根付いたブラジル独特の文化の匂いを残すこれらの世界遺産は、外国の観光客に注目され始めており嬉しいか限りである。
町の真ん中に【赤い川】が流れその両側に昔の町が残されており、狭い路地に色取り取りの軒並みが並び、昔有名だっただれそれがここに住んでいたとか、自家製のDOCE(菓子類)を売る店、小さな博物館?教会が各広場にある。地元の551種類の色の違う砂で着色した色合いの柔らかい風景画を描いて世界的に有名なGOIANDIRA d0 COUTO女史の作品を陳列している博物館を訪問した後、町の中心地に聳えるカテドラール(大伽藍)の隣に帝政時代の1700年代から96人のゴヤス州知事が住んだというPALACIO CONDE dos ARCOS(州知事公邸兼州政庁)を訪問した。現在も町の設立日を祝う日には年間3日間だけゴイアニアからゴヤスに州政府が移り州知事がこのPALACIOに住み首都がゴヤスに戻ってくる儀式を1937年以来継続しているとのことです。
町の観光地図に従い暗くなる前に殆どを見て回る。夕食は、町のプラッサの近くにあるレストランでカルドと呼ばれる豆、鶏肉のスープとゴヤス名物のエンパドン・ゴイアノを楽しむ。クプアスのクリーム状リコールも美味しい。
一旦ホテルに戻るがインタネットが使えず私は9時には床に着くが娘達はまた夜の町に出て行き三脚を使って黄色い色の街灯を背景に夜景を撮って来たようです。

8月10日(水) 第8日目
昨夜は、9時に床を取り何度か目を覚ましたが、疲れていたのか7時前まで起きられず結局10時間近く寝たことになる。窓から見える景色は、最高で【赤い川】が日本の鄙びた温泉地にある川と重なる。違うのは古い自然レンガで建てられた家とコロニア風の屋根瓦、に教会で車の音が煩いことであろう。
朝食後、再度町の中心地を歩き昨日訪問できなかった博物館等を覗いて周る。ホテルの近くにインタネット接続が出来る店があり私だけホテルに戻りPCを抱えて接続をTRYするがブロードバンドの接続は、環境が整っていないのか繋がらず、電話線は店の奥の住居地にしかないとかで接続できず。1時間だけ店のインタネットでサーフィング、阪神が何とか中日に5−3で勝ち首位の座を中日に譲り渡さなくて済んだこと、衆議院選挙が実施されること等を知り、YAHOOでメールを落としたが返事が掛けずホテルに戻る。女性部隊4人は、普通の民家を利用したお土産店、菓子店、衣料店、靴屋さん等を一軒一軒覗いて歩き品定め気に入ったものがあれば買い求め銘々色々買い込んで11時半頃ホテルに戻り12時のCHK OUTに何とか間に合う。まだ行っていないMUSEU de BANDEIRASを見て置きたいとの事で車をホテルに置いてまた歩きに出る。現在補修中とかで閉まっており諦めて町の公園前に有った地方食を食べさせるレストランに陣取り、昨夜も試したエンパドオン・ゴイアノ(ゴヤス風エンパーダ)を注文しクプアスのジュースで昼食を済まし結局ゴヤスを出たのが午後2時になる。次の目的地ブラジルでも有名な温泉地カルダス・ノーバス、リオ・ケンチ【暖かい川】の温泉地を目指す。ここが最後の訪問地でそれ以後は2日間を掛けてポルトアレグレまで走り戻ることになる。州都ゴイアニアまで150kmを私が運転する。1933に建設された計画都市で4年後の1937年から州都になったゴイアニアの発展振りは、ブラジルの発展を象徴するような町で町の入り口の小高い丘からの町の眺めは大都会を感じさせた。問題は、バイパスが無いことからゴイアニアの町を通り抜けて南部、サンパウロ方面に向かう街道に出る道を見つけることで区画整理が整然としているとは言え大変苦労するが何とか町を通り抜けることが出来た。
ベレンーブラジリアの継続街道、トランスブラジリアーナは、複線工事を実施しており往路は、苦労したとの事でゴイアニアからカルダス・ノーバスまでのゴヤス州道を南下し7時前にカルダス・ノーバスに到着する。街道の傍に【太陽テルマスホテル】と言う大きな看板が出ているのを目聡く弥生が見つけ探して見る事にした。4 RODASでチェックするとNHKが見られカラオケ設備があり、温泉プール以外に日本風野外風呂、サウナまであるとの事で少し苦労したが見つける事が出来る。夕食は9時までとの事でシャワーを浴びて先ず夕食を済まし今回の旅で初めて海水パンツに着替えて水に浸かる。日本式野外風呂に入りゆっくりする。温度は42度から53度までとの事で浸かっている間は暖かいが外に出ると結濠ヲく感じる。ブラジルには鉱泉が出る場所は結国S国に広がっているが熱い温泉が出るところは、少なくやはり一番有名なのはこのカルダス・ノーバスと隣接のリオ・ケンチが有名で一度浸かって見たいと思っていたのでマット・グロッルyび南マット・グロッモフパンタナル方面まで足を伸ばせなかっただけに長旅の前に温泉に浸かって帰ろうと言う事になった。

明日から忙しくなりそうですのでHPの更新等の時間が割けるかどうか分かりませんので残り3日分を下記の通り掲載して置きます。
8月11日(木) 第9日目
昨夜は、ホテルの部屋のTVにNHKが入り、電話によるインタネット接続が可狽ナ午前1時まで電話接続したり写真を整理したりして過ごす。朝は7時のNHKのニュースを見て日本の出来事をFLWする。
夜遅くまで温泉プールで遊んでいた娘達も中々起きて来ず9時半の朝食にやっと間に合うペースで一日が始まる。
朝食後海水着を着用しサウナと朝湯に入り11時のCHK OUT時間までのんびりする。今日は隣町のリオ・ケンチまでの移動35KMのみで最後の買い物をするとの事でカルダス・ノーバスの中心地に車を停めてショッピング、ポルトアレグレでもそうであるが、女性群の買い物に付き合うには骨がおれる。1時半まで町を歩きやっと目的地を目指す事になる。温泉地リオ・ケンチの観光コンプレックスRIO QUENTE RISORTSは、温泉が出ることからブラジルに於ける水資源をベースにした最大の施設で2003−2004年と連続してブラジルに於けるリゾート施設部門でチャンピオンに選ばれている。HOT PARKにはゴイアニア、ブラジリア、ウベランヂア等の近郊都市のみならずサンパウロ、リオ始めブラジル全国からの訪問客を受け入れている。
RIO QUENTE RESORTSコンプレックスは、HOT PARK施設を中心としてホテル、ポウザーダ、コンドミニアム、個人の会員等が共同使用できる施設で娘達も楽しみにしていたが、7月の休暇が終わった8月よりは、毎週木曜日が定休日で各施設の補修、清掃の日に当てるとの事で午後4時の送迎バスでHOT PARKに行くが施設を利用できず娘達は、文句タラタラどうしても明日TRYしたいとのこと。
私は6時の送迎バスでバンガローに一足先に戻り女性群は、それでも8時まで温泉プールの施設で遊んで帰る。大きなピッアーを持って8時過ぎにバンガローに戻り明日は、HOT PARKに行ってから発つか嵐闥ハり早朝出発するか話し合うが皆2度と来る機会があるかどうか分からないので経験して行きたいとの事でそうする事にする。
三角屋根のバンガローで2階が付いているのではないかと思っていたが平屋でダブルベットにシングルベット3つが駄々広い場所に設営されている5人部屋のバンガローでこれが一番経済的な宿だとの事でしたが5人で350ドル(一人当たり70ドル)で今回の旅行中の一番高い宿となる。宿代にHOT PARK入場料と施設使用料(20ドル?)も含まれているとの事で木曜日で使えなかったことから10時CHK OUTを12時にして貰い金曜日の午前中にTRYすることにして早めに寝ることにした。 

8月12日(金) 第10日目
バンガローで7時過ぎに次々起き出す。どうしてもHOT PARKを見て行きたいとの事で昨夜話し合った通り早朝出発を諦めCHK OUT時間を10時から12時に延長して貰い多分二度と来ることのないであろうHOT PARKに家族全員で9時の送迎バスで出かける。
熱い湯が豊富に湧き出し川の水が鉱泉で温かくなる天然の温泉でその水量は、物凄いものである。HOT PARKは、10時から総ての施設が動き始め娘達は、色々試していたがどうしても安全性あり面白いからと温泉の水が太いパイプの中を勢い良く流れる中を大きな浮き袋に乗って滑り降りるのをTRYする。もう一つは浮き袋に寝転がっていたら川の水が流れトンネルも含め1周300メター程の丸い人造川を流されながら一周するのをTRY後は温泉プールで体操をしたりのんびり過ごし12時の送迎バスでバンガローに戻りCHK OUTし何とか午後の1時過ぎに旅立つことが出来た。ゴヤス州からミナスジェライス州のアラグアイと言う町まで165kmを私が運転しそこからウベランジア、ウベラーバまでは茜が運転、それ以後は、リベロンプレット、リメイラ、カンピーナスまで弥生が交代して運転してくれる。ホテルに到着したのが10時30分で合計9時間半で650kmを走ったことになる。
12時過ぎには床に着くが娘達はカンピーナスの大学にポルトアレグレから勉学に来ているお友達と連絡が付いたとの事で夜中から夜の町に出て行ったようである。
明日は何とか遅くなってもポルトアレグレまで戻りたい。

愈々ポルトアレグレに帰還嵐閧ナす。 8月13日(土)
現在、サンパウロ州で2番目に大きな都市CANPINASのSOL INN HOTELに昨夜遅くから滞在しております。8時にホテル発の嵐閧ナ準備中ですが少し遅れるかもしれません。何とか本日中にポルトアレグレに無事帰還したいと願って増すが。。。途中でもう一泊することになるかも知れません。
宇宙船の野口飛行士の帰還にあやかり無事安着したいと思います。途中で逃げ出さずに済み、日本もお盆休みで仕事は来週からまた精を出す事にします。
旅行の報告書は継続して終わりまで出す嵐閧ナすが、少し時差が出て来そうです。 

8月13日(土) 第11日目
7時起床。インタネットに電話接続、メールのCHKとポルトアレグレへの帰還を目指してカンピーナスを出発、一路南に向けて走り今日中にポルトアレグレに到着する嵐閧ニのお知らせをMLに掲載し朝食を採り、荷物を纏めCHK OUT(これが今回の旅行の最後の宿泊所となる)8時半にカンピーナスを出発する。
夜出て行った娘達は、結局朝の6時前にホテルに戻って来たとのことで殆ど寝ておらず車の中で寝るとの事で運転は余り期待できない状況の出発となる。
最初の運転手は、何時ものように私が勤める。ャ鴻Jバ、ピエダデを経てBR116号線に出るジュキアの手前でトラックが崖か転落しそれを引き上げる作業をしているとの事で12時から30分以上通行止めで待たされる。3時間半を掛けて200kmしか走っていなかったがこの通行止め待ち時間から運転手交代。けい子が担当する。ジュキア、レジストロ、クリチーバ、ジョインヴィーレまで400km、道程の約半分の地点で午後6時、茜と運転を交代。フロリアノポリスまではまだ幾分明るく道路も完全複線で走り良かったが、それ以後は単線の追い抜き禁止区が延々と続く中、多くのトラックを1台、1台追い抜きながらの難航、サンタカタリーナ州の海岸線を粗、走り抜け午後11時にャ塔uリウの何時も立ち寄るガャ潟刀Eポスト・ジャポネースまで頑張って呉れる。
11時から午前2時まで残り230kmを靄がかかり視界が聞かない中をけい子が3時間掛けて完走してくれる。
我が家に着いて車から荷物を降ろす段になって驚いた大きなトランク、小さなトランク、バラ積みのプラスチック袋類、靴、マテ茶の吸引道具、魔法瓶、お土産類、何度エレベータで運び上げたことか。よくもまあこんなに荷物を詰め込んでいたなと驚く。今回は一度も使用しなかったがキャンプ用のテント、マットレスまで入っていたのには驚いた。
ADSLのイナターネットを繋ぎ下記無事安着をMLに流し床に着いたのが午前4時、本当に長い一日であった。明日の朝、8時からの大河ドラマ【義経】に合わせて起きられるかしら?
【今朝(もう昨日になりますが)8時半にカンピーナスを出発、17時間半掛けてカンピーナス、ャ鴻Jバ、ピエダデ、ジュキイア、レジストロ、クリチーバ、ジョインビーレ、フロリアノポリス、ツバロン、クリシウマ、トーレス、オゾリオ、ポルトアレグレと実に1190kmを走り(単純平均時速68km)無事8月14日(日)午前2時ジャストに我が家に帰還しました。ホンダCIVICの全走行距離は、何と6708kmとなる。良く走ったものだ。
家族全員での車の旅はこれが最後となると思うが、それぞれ大きな思い出を残して来たと思います。
簡単な旅行記は『私たちの40年!!』HPにも書き残して置きたいと思いますが、皆さんからの感想、コメント、質問等があればそれも一緒に掲載したく宜しくお願いします。】
家族旅行の記録終了。



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