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パラグアイ移住者動向の考察(1)−(10)【前編】 野口 紘一
『私たちの40年!!』HPには、各国の移住の歴史と言う項目がありますが、今回カリフォルニア在住の元パラグアイ移住者の野口 紘一さんが実経験とご自分の検分、研究を元に掲題の【パラグアイ移住者動向の考察】をメーリング・リスト《パラグアイ》と『私たちの40年!!』に書き込んでおられます。貴重なパラグアイ移住者の動向、戦前のラ・コルメナの移住地の戦前の動きから戦後開かれたパラグアイの計画移住地の状況、フランス移住政策との比較、最近の出稼ぎの動向から具体的なケースワークまで分かり易く且詳細なるパラグアイ移住者の動向を綴っておられます。前編として(1)−(10)までを掲載して置きます。
写真は、2003年にピラポ移住地の同船者、園田兄弟を訪問した時のものを使用しました。


パラグアイ移住者動向の考察(1) 野口 紘一
パラグワイ移民が始まってから、そろそろ、70年前のラ・コルメナ移住地からしたら、パラグワイ移民の歴史もかなりの年月を経た事が分ります。
戦後の移住の歴史を見ても、パラグワイ移民はブラジル移民に次ぐ数が移住しています。
しかし、その移住者の流れは、戦前からのラ・コルメナ移住者からしてパラグワイに見切りを付けて、アルゼンチンやブラジル、ウルグワイなどに再移住して行きました。
中には戦後移住者には、
  1、70年代からの日本高度成長に合わせて、家族の将来を祖国日本に賭けて、永住帰
国する者。
  2、日本に家長が出稼ぎに出て、日本に家族を呼び寄せる者。
  3、隣国アルゼンチン、ブラジルなどに転住して、不遇の環境で日本に出稼ぎに出て、 
資金と帰国費用を貯め、帰国した人。
  4、農業や小規模事業で儲けて全てを処分して家族で帰国した人。
  5、事故や病気などで、働き手を亡くして日本に帰国した人。
  6、家族の内、子供などを日本に勉学に送り、そのまま日本に居付いた人。
  7、治安悪化で、強盗などに合い報復を恐れて日本に帰国した人。
  8、日本の親兄弟の急死で相続者として日本帰国した人。

以上のごとく、かなりの分類としてその形態が分れます。それぞれの理由は個人的なものが多く作用して居ますが、根幹には日本の経済発展と言う、パラグワイとの格差が有る事を見逃せません。
次回にはそれらの要因を探り考査して見たいと考えています。
 野口より。

パラグアイ移住者動向の考察(2) 野口 紘一
パラグワイの移住者が大きく日本に向かって動き出したのはやはり日本が景気上昇で、人手不足と言う労働人口の減少による、緊急的に政府に企業側の要請としての労働賃金格差を視野に入れた、緊急避難的な応急処置としての政府の対応がなされたからと感じます。
各企業での委託を受けた、労働手配コンサルタントが動き、ブラジルや、アルゼンチン、パラグワイ、ペルーなど南米に過去、日本人が移住した国を目掛けて、手配師達が日本に組織的かつ、連続して計画的に継続しての労働者送り出し現象が、逆流移民現象を起したと見られる。
その日本国内賃金とパラグワイとの格差を見ても、1980年台初頭の一日当りの重労働の建設労務者などの格差を見ても2万円は最低稼ぎ出しており、パラグワイの賃金差からすれば、日本で4日仕事をすればパラグワイでの1ヶ月の賃金となる感じで、賃金格差の激しさが多くの日系人を刺激して日本に雪崩現象的な日系労働人口の移動が起こったと感じられる。
ブラジルからだけで27万人にも達した人口移動は近年になり、定住化現象も見られ、出身地の南米各国に送金される金額にしても巨額な金額となり、今では完全に定着して来た出稼ぎ現象となっている、この事を頭に置いてパラグワイ移住者動向を見ていきたいと思うのであります。
 野口より。

パラグアイ移住者動向の考察(3) 野口 紘一
パラグワイからの転住者をアルゼンチンで見ると、その中には当然私も1960年代の単身移住者として、その数に入りますが。多くのパラグワイからのて転移住者がブエノス郊外で、蔬菜栽培、花の温室栽培、洗濯屋などの三代日系人職種に携わり、中には少ない小数の人が、日本漁船に乗り組み現地採用として仕事をしていました。
魚業関連では当時の大手水産会社が、当時、唯一に魚が自然死していると言われた、南極に近い大西洋での豊富な漁場での操業で、日本からの交替要員の経費節約の関係からも、当時多くのパラグワイからの転移住者が給料の良さに引かれて応募した職場でした。その他ほんの僅かな人が、アルゼンチンの辺ぴな田舎で、当時アルゼンチンでは食料とはされていない馬を馬肉にする為に、馬を買い集めていた人も居ました。日本では当時食生活の変化でャZージの需要を充たす為に、安い単価の馬肉使うャZージを製造する為に、その仲買の仕事をしていたような人も居ました。
しかし殆どはブエノス近郊での蔬菜、花、洗濯屋などで仕事をして、タノモシ講での仲間金融で資金を得て、独立して行きましたが、80年台に情勢が急変して、日本出稼ぎブームからは全てが一変して行き、私が仕事をしていた郊外の小さな町では10家族ぐらい居た日本人が現在では僅か半分の5家族となっています。
その内に現在でも出稼ぎに出ている家族は2軒有り、その衰退ぶりが、日本人会の消滅、日本語学校の廃校など大きな影響が有ります。
次回はパラグワイから出てから、その後の人の流れと動きを見てみたいと思います 
 野口より

パラグアイ移住者動向の考察(4) 野口 紘一
パラグワイ移住者の動きをラ・コルメナ移住時代からの転住先を見てみると、一番多いのがやはりアルゼンチンです、スペイン語が共通の言語であり、ラプラタ河の本流と支流の関係で、鉄道もチャカリータ駅までの直行便がパラグワイと繋いでおり、関連性としては、かなり引きつける魅力も大きいと感じます。
当時は移住者は殆どがブエノス下船かラプラタ下船のどっちかで、ブエノス市内の日本人会館の宿泊所で泊まり、休憩と荷物の受け渡しで2〜3泊してから汽車で、パラグワイに向けて出発して行きました。荷物が河船に乗せ変えられ、エンカナシオンの町まで運ばれたと言う事を聞いた事が有りますが、確認はしていません。
パラグワイとアルゼンチンとは共通の言語と河と鉄道と道路で繋がり連帯する多くの事が有ります。1964年にポサダからバスでブエノスまでで乗車した事がありますが、道路も比較的良く、途中からはパン・アメリカンハイウエーの工事中でしたが、高速が利用でき快適な旅でした。貨物輸送も毎日定期便がポサダとブエノス間をトラックが結んでおり、転移住者が家族を連れて、荷物を担いで行くとしても無理なコースではなく、比較的楽に行けたと感じます。
1960年初頭はミッショネス州では、日本人では簡単に永住権の瑞ソをして、セドラのIDカードが貰えたと言う事も有ります。ポサダ市でセドラを収得して、ブエノスに出て労働許可証を取り、堂々と仕事が出来ました。私もその手を使い、ブエノスで保健所の身体検査のチン検を受けて、労働許可証を貰った覚えが有ります。当時のウルグワイは日本人の数も少なく、パラグワイからの日本人が、もぐり込める場所的なチャンスも少なかったと感じます。当時のブラジルは親戚、兄弟などの身内の移住者が居た人は、ブラジルを選んでいましたがそれと、アマンバイ農協などに居た人が、サンパウロまでの鉄道が有り、ブエノスより、ブラジル圏の中で、仕事をしていた人がかなり多くて、ブラジル転移住を選択したと感じます。次回もこの続きを書きます。
 野口より。

パラグアイ移住者動向の考察(5) 野口 紘一
パラグワイの戦後の移住者が隣国に再移住を開始したのは一応落ちついてから、1960年頃からと感じます。
1、廻りのパラグワイの状況が見えて来た事。
2、スペイン語の会話も覚えて、子供達が就労期に入り、より良き環境と生活条件を考えて、ツングー実の販売も化学ペイントの開発と生産が急激に増えて破綻して、トウモロコシの販売価格も、内陸国の河船輸送のコスト高に食われて、実質的な収益が無い、働くほど借金がかさむ農業経営に傾いて来た事。
3、短期換金作物の蔬菜栽培も需要が無く、生産過剰となり、僅かアスンション首都近郊において、採算が取れ、かなりの収益を出す人が出てきた頃で、数にしたら僅かな人でした。
4、アマンバイ農協で力を入れていた、採卵養鶏が軌道に乗り出して、一部の農家での現金収入が増えていたが、現実としての、相対的な比率で転移住が動き出したのが1960年に入ってからと見られる。
5、イグワス移住地に入植した人と、膝を交えて真剣にアルゼンチンで話をした事が有りますが、自分が描いた理想と、現実が余りにも差が有り、教育を第一とした今までの教育方針とのギャップ
  に、現地での子供達に与える高等教育の不安が一番大きかったと話していたのが印象的でした。
以上の様に大雑把に分けて、分類して考査していく過程でも、隣国アルゼンチンの文化的社会環境と教育環境の整った過程を踏んだ、アルゼンチン日系2世の社会的進出が理想の住みかとして感じたと思われる。かなりの日本人が安定した生活を営み、当時の日本人が、大きな仕事場としていた。花、蔬菜、洗濯屋の三大ビジネスで、安定的な生活と子弟の教育が出来る環境と、感じていたと思います。
次回もこの続きを書きます。
 野口より。

パラグアイ移住者動向の考察(6) 野口 紘一
1964年過ぎると、パラグワイからの転移住者がブエノスで仕事をする姿が、かしこに見られる様になりました。
当時、ブエノス市内ではかなりの日本人洗濯屋が開業していました。それと近郊蔬菜栽培が戦前から盛んで、人手を欲しがっていました。同じ様に花の栽培では日本人も、花市場でかなりの勢力がありました。
温室栽培の花の生育はかなりの人手を取り、手間の掛る作業です、夏の暑い日に温室での作業はキツイ労働となり、それをこなす勤勉な労働者として、花栽培技術の収得もかねて、パラグワイからの転住者が就労していました。
子供がその仕事に就労して、パラグワイにまだ両親が住んで居るのを利用して、鉄木を温室用枠木としてパラグワイで切り出して、製材してアルゼンチンの川船を利用してパラナ河を下り、ラプラタ河を降りてブエノス近くのテイーグレ河口の入江の製材屋まで運び、そこで温室用に製品化して、パラグワイから出て来た家族と、かなりの数の温室を初めから建てた家族を知っています、先発隊として言葉と南米の習慣が分る子供が露払いとなった様です、その事はラ・コルメナからの移住者も同じ様にして、洗濯屋を開業して居ました。兄弟二人で2軒も開いていましてた。両親と下の兄弟二人は温室栽培をして、かなりのカーネーションとバラを切り出していましたが、パラグワイ転移住が成功した家族と感じました。
細かい事例で見て見ると、家族の団結と結束した家族労働力が大きな成果を生み出した原動力と感じました。銀行にも融資を頼めず、タノモシ講の仲間金融からの信用貸しでの資金を元手に、多くのパラグワイからの転住者がスタートしてアルゼンチンに根を張って行ったと感じます。後には移住事業団からの融資も受けられる様になりましたが、中にはその資金を借りて80年台に入り、日本へ家族を置いて出稼ぎに出て、日本でかなりの資金を貯めて、家族を全部呼び寄せてアルゼンチンの借入れ金を半ば踏み倒した人も知っています。80年を境にしてアルゼンチン成功者とそれで無い人が出稼ぎと言う日本行きを選択し出したと感じます。次回は隣国ボリビアや、ペルーからの転住者の件も交えて考査して見たいと思っています。
 野口より。

パラグアイ移住者動向の考察(7) 野口 紘一
アルゼンチンに再移住して来た日本人は一番、数的にはパラグワイからです。ボリビアからも沖縄県人を頼って、来ていました。沖縄県人の粘り強さ、団結力などは、琉球魂と言う感じの力が有りましたが、ブエノス市内で洗濯屋を開業している7割は沖縄県人の人が占めていました。
団結力が強くて、当時1960年には、ブエノス市内には沖縄県人会館が有りました。通称沖連と称していましたが、村人会なども有りまして、親戚などが固まって力合わせてタノモシ講を作り、仲間金融を盛んに行なっていました。
ボリビアには沖縄県人の入植地も有ったほどですから、同郷を頼ってブエノスに来た人が沢山居ました。しかし数ではパラグワイには全然敵いませんでした。
ペルーから、2世などが来ていたのを知っています。数にしたらほんの僅かです。そのペルー二世も沖縄県人が多くて、それからブラジルに技術者移住をした高学歴の技術者の若者が、アルゼンチンの会社に仕事を見つけてブエノスに来ていた人と会った事が有ります。転住と言ってもかなりの日本人がそれぞれの個人の夢と希望を賭けてアルゼンチンに来ていました。アルゼンチンに来ている転住者の家族持ちは、パラグワイ出身者が一番多かったと思います。
この流れが変わったのは1980年に入り、日本が高度成長の経済発展で、就労人口の減少で、単純労働者の大きな不足が楓ハ化して来て、政府と企業が苦肉の策で考えたのが、南米からの日系人を労働者として呼び寄せする事でした。
これが開始されると根本的に、アルゼンチン、ブラジル、パラグワイなどの集団移住地から、日本に向けて逆流が開始されたのであります。
その流れは止める事の出来ない流れとなり、今ではブラジルだけで、28万人の日系人が祖国日本に出稼ぎに出ており、すでに一部は定住化現象も出て来て、05年の集計では、前年から25%増の5万人が永住しており、一年間で11857名増加してブラジルからの出稼ぎ者が28万6557名となっている。
パラグワイ二世も、親が大使館に出生届けを出していて、出稼ぎに日本に行く時、日本のパスポートで行った人を知っています。
移住者の動きも1980年からは、加速的な早さで一部、アルゼンチンなどでは、パラグワイからの転移住者が生活苦からの出稼ぎを選択して、日本に行き、親子5人全部仕事が出来た家族などは、直ぐに車を買い、家を買いして、ブエノス近郊の農地を放棄してしまったと聞いた事が有ります。
次回もこの続きを書いて見たいと思っています。

パラグアイ移住者動向の考察(8) 野口 紘一
パラグワイからの転移住者が、祖国日本に出稼ぎに出てどのくらい稼いだかと言う事を、昨年の2月にアルゼンチンで聞き取り調査した事が有ります。
聞き取り調査の対象は女性、
年齢は出稼ぎ当時、48歳、
出稼ぎ理由、すでに息子が2名、日本で仕事をしていた。
夫が病に倒れ、多額の借り入れ金の支払いに困り、息子を頼りに東京近郊の看護の家政婦協会に身を置いて仕事をする。
出発時期、  1989年頃。
出稼ぎ期間 集計で合わせて6ヵ年、その間四回アルゼンチンに一時帰国する。
出稼ぎ収益金  6ヵ年総合で約、日本円で1000万円
毎月の出費   一番大きなものは電話代、月/平均4万円最高10万円、
住居費など、  家政婦協会の宿舎に格安で、仕事が無い時は居たとの事。住込みでの看護の仕事で家政婦としての住居と、食事は雇用者側で負担して、稼ぎが丸々手元に残ったと言う。
アルゼンチンに戻った理由、 主人の病気悪化で、最後を見とる為に帰国して、出稼ぎ中止する。
収支の細分検証、日本滞在経費及び郷里訪問、観光は含まず。
出稼ぎ収益金には電話代、一時帰国費用、四回分の旅費は含まれず。収益金は一時帰国時に、少しずつ持ち返ったと言う事です。
その収益金で債務を全額,利息を含めて支払い、借金を精算した。
主人の看護、入院経費、葬儀経費、家族の生活費などに残りを使い、現在はアルゼンチン政府の年金不足分の足しにして居ると言う事です。
現在は高齢の母親と二人で僅かな近郊野菜と、お花を栽培して暮らしている。息子2名は現在も日本出稼ぎ滞在中。
この事例を見ても、女性でもかなりの出稼ぎ収入が見込め、パラグワイを出てからの生活改善、生活困窮からの脱出に大きな貢献をしている。
1975年過ぎて、日本に居る親兄弟などの冠婚葬祭で日本訪問するパラグワイや、近隣諸国に居るパラグワイ転移住者が増えて行き、時代の日本の最新現状を目にして、当時の日本が進める『所得倍増』や、『列島改造』などでの日本の大きな変わり様に動かされ、日本帰国を出稼ぎと言う『引き金』が行動を開始させ、弾みとなったと推測する。
次回もこの流れを精査して、事例を参考に見て行きたいと考えて居る。

パラグアイ移住者動向の考察(9) 野口 紘一
パラグワイに移住した人々で、大雑把に分類すると3組の考えを持つグループに分かれると思います。
1、パラグワイを生涯の住家と定め、安住の地として、その大地での家族の繁栄を願うブループ。
2、あくまでも出稼ぎ的な、昔の田舎から海外に移住した一旗組と同じ感覚での、移住者のグループ。
3、理想を求めて、自分の将来を学んだ技術と経験での『人生一度、自分の情熱を試したい』と言う比較的若い世代のグループ。
私が個人的な偏見での分類ですが、しかし、そのどれかに入るか、複数でその分類のカテゴリーの中に含まれると感じます。
その(2)の中の一旗組も、あきらめ的な感覚と、住めば都の生活で、パラグワイ化した感覚が芽生えて、成長して安住の地と傾いて行った人も多いと感じます。
その中には、戦後を過ぎて高度成長する、日本在住の親の遺産分けや、遺産相続での財産をパラグワイで受け取り、それを元手に事業を拡大して安定経営と、再投資しての家族の子供達の成長につれて、教育と農業や、それに関連する事業の投資で規模拡大と将来性を掴んだグループも見逃す事は出来ません。この件はアルゼンチンにパラグワイから転移住して行った人々も含まれます。そしてその事例も目にして、洗濯屋の増設、温室の増設などで経営規模の拡大と、いざと言う時の、情勢不安の為のドル預金などを持ち、将来の安定成長を掴んだ人達も、アルゼンチンで安住の地を掴んだと感じます。
次回も家族の中での、子供達の動向も見て行きたいと思います。

パラグアイ移住者動向の考察(10) 野口 紘一
パラグワイでの入植からの年月が経つにつれて、正比例する様にして、パラグワイから隣国に転移住して行く人達や、帰国する人などの動きがありました。そのパラグワイで、初期の貧困時期に突然訪ねた移住地の家族の夕食に、テーブルを同じくして食卓を囲んだ事が有ります、調味料が岩塩を瓶で潰したものだけで、飼っていたニワトリをつぶして味噌汁に入れて有り、野菜が無くて、ラッキョーの漬物が有るだけでした。
そこの家族の16歳の女の子供を、アルゼンチンのポサダまで、お手伝いとして、連れて行くのを手助けした事が有ります。長男もそれから直ぐにブエノスの花屋に仕事に出ていきました。いくらかの現金収入となり、家族を助けていました。
初期の生活困窮時代は子供を高等教育することが出来ずに、隣国に仕事にでるケースが多くて、その事が親を呼び寄せる一番の原因となりました。アルゼンチンではそのケースが顕著でした。
その後、時代が動いて日本に居る親兄弟が子弟の教育や、日本での仕事の呼び寄せとして、祖国日本で修学や就職をしに、帰国したケースがかなり有ります。パラグワイでは日本語学校の普及でかなりの子弟が日本語に堪狽ナ、その事が大きく手助けしたと感じます。
隣国アルゼンチンにはポサダ市に勉学に出たり、ロサリオの町にまでパラグワイからの日系学生が来ていました。その他アルゼンチンでの嫁不足の解消に多くのアルゼンチン農家がパラグワイから出て、安定して農業や洗濯屋の事業を始めた人が、日本から来て、日本語が話せて、農業などに違和感が無い、若い日本人女性をパラグワイから迎え入れています。
60年当時アスンションで、養蜂などをしていた坂梨氏がその後、日本食品の行商販売で、パラグワイとアルゼンチンを往復して、日本米やもち米、あずきアルゼンチンから海産物や輸入日本食品などを交易して、それに連れて移住地での求職情報や花嫁情報がアルゼンチンに流れて、大きな情報と成って行ったと感じます。人の流れが無いと、日系人の動向もニユースとは成りません、当時の電話やパャRンも無い時代に貴重な情報源でした。
1965年ぐらいからは、特にアルゼンチンへ行く若い世代が増えた時期でした。
要約すると、修学と就職、結婚としての若い年代の隣国、特にアルゼンチンへの動きが加速して、定住からのパラグワイより家族全員の呼び寄せ、その後は日本に出稼ぎブームが起こるまでは、そのパターンが続きました。
ブエノス郊外でもその時期が最盛期と感じます、日本人会、県人会、日本語学校など、多くの日本人社会が繁栄した時代です。
次回も実例を見ながら考査したいと思います。




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