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パラグアイ移住者動向の考察(11)−(16総集編)【後編】 野口 紘一
野口紘一さんの書かれた「パラグアイ移住者動向の考察」後編です。御自身がパラグアイ移住者としての経験をお持ちでパラグアイからアルゼンチンの北部サルトの農場支配人として転出、その後カリフォルニアに再移住して現在北米にお住みですが、台湾からの引き上げ福岡県での幼少時代から数奇の人生行路を歩んだ野口さんの「還暦備忘録」は、一冊の本には収まらない人生の記録ですが、パラグアイ移住者の移住先国パラグアイへの定着の過程とその後に多くの移住者の皆さんが辿られた道程を克明に調べ直接関係したケースワーク的な報告を含めた貴重な調査結果と其の考察です。『私たちの40年!!』同船者が現在も定着しているブラジル、アルゼンチン、ボリビアに付いても同種の「動向と考察」を纏めて下さる方が現れるのを期待しています。
写真は、パラグアイからではなくお隣のアルゼンチンのミッショネス州グアルアペス移住地からブエノス近郊に国内移動された同船者、大西さん、水野さん、三浦さんと681分の6(1%弱)が集まった時のものです。


パラグアイ移住者動向の考察(11) 野口 紘一
パラグワイでは移住者が戦前と戦後に別れて入植した所は1ヶ所でした。 ラ・コルメナ移住地で戦前に入植した人達は戦争中は隣国に転住することが難しく、移動が困難でした。定期的に警察所に出頭して、住居確認と人員確認を受けていた様でした。その事はアルゼンチンでも、郊外に住んでいた人が話してくれましたが、パラグワイと同じ様に警察所に顔を出して、挨拶するだけで帰宅していた様でした。しかし、終戦間際になると、殆ど1ヶ月に一度ぐらいになっていた様で、行かなくても何も言われる事はなかったそうです。
戦前の移住者が隣国に再移住して行った原因も調べる事も余り無くて、戦後、第2コルメナ移住地が造成され、移住者が移住事業団からの、戦後の余剰人口の調整の為に移住が再開された感じでした。
戦後の移住再開でも戦前の入植者の脱耕した根本的な原因は調査されずに、再開されたと感じました。
それは第2移住地を訪ねて、戦後移住してきた方を訪ねて、膝を交えて話をする機会が有りました。戦前のコルメナ最初の移住者と直接アルゼンチンで話して、その問題点を探り、どのような問題点が戦前と戦後で一致するか、比較した事が有ります。
1、経済的環境の日本的な感覚からした、誤算的な見方とその事実的な経済、生活困窮から来る不満の一致。
2、教育環境の不備と子供に掛ける将来の不安。 
3、パラグワイ国に対しての発展と経済的な卵ェが、農業経営から見て、卵ェが貧困的なネガテイブな自給自足的な経営を強いられる経営形態を直ぐに改善出来ない卵ェ。
4、事業団の係員が話した、ばら色のパラグワイの卵ェと、将来が不安と混迷から、体験と現実から学んだ自己の卵ェが隣国再移住と言う結論に達した事。
具体的な言葉として戦後の移住者が私に話した事は、『前もってコルメナとパラグワイ移住地を見ていたら、こんな所には移住して来る事は無かった。』と言う言葉でした。
今さら日本の財産も整理して来たので、おめおめと負け犬の様に日本には帰国は出来ないと言う根性が出来ていました。
答えとして、隣国に転住する費用とチャンスが有れば再移住を考えている人が居たと言う事です。
この事を総体として、現在のラ・コルメナを見ると、日本人と、日系人総合の人口総数を見ると、自然増加を考えなくても、いかに沢山の日本人がコルメナから出て行ったかを知ることが出来ます。 
次回はフランス政府が行なった戦後の、アルジェリア植民地独立からのアルゼンチン国、フォルモッサ州への大西洋を越えた再移住と比較をしてみたいと思っています。

パラグアイ移住者動向の考察(12) 野口 紘一
パラグワイの移住者がアスンション近郊に再移住して蔬菜栽培や産卵養鶏を始めてかなりの成功を収めて、安定経営に向けた生活を始めた人も出てくる様になりました。
時期的には1960年始めと感じます、養鶏ではアマンバイ農協からもアスンション市場に卵が来ていました。
当時の採取品質不安定な採卵では、日本人の本格的な養鶏に太刀打ちする事は難しくて、市場を独占して行きました。
蔬菜栽培は、サラダ菜とトマトが主流でしたが、トマトの投機的な栽培は、直ぐに過剰生産と、値段の沫獅ネどに阻まれて一部の儲けた人を除いて、アルゼンチンに移動した人も出て来ました。
エンカルからのパラグワイ国内の再移住も、限定的で限られていて、日本より小型トラックや耕運機などを持参して来て、かなりの就労家族労力が有った人が、早く安定経営と生活をパラグワイで掴んで居た感じがします。それ以外の移住者との格差が1965年からははっきりと分れて、新車のトラックを買う購買力を持つ人も現れて居た頃です。当時のフランス植民地、アルジェリアから独立を嫌った、フランス人、入植者がアルゼンチン、フォルモッサ州に再移住をして来た時期が有ります。アルジェーと気候的に同じで、当時のアルゼンチンで残された最後の未開の土地でした。
しかし、当時のフランス政府の政治的、経済的、社会的に組織された再移住はフランス政府が200年以上も長く、植民地政策の経験と実績とに裏打ちされた、持続的、かつ効果的に組織化された行政が動いていたと感じます。
植民地政策でも現地にフランス語を根ずかせて、公用語としてのフランス語を定め、その土地に経済的、政治的に浸透させる力を見ていましたので、その格差と移住する人間の扱いに大きな差が有る事を感じました。
植民地開発に囚人を送り込み、南米ギアナなどはフランス政府の収奪的な開発が有り、外人部隊を創設して、植民地戦争などに大きな力を発揮させた事も良く知られています。
次回もこの続きを書く嵐閧ナす。

パラグアイ移住者動向の考察(13) 野口 紘一
パラグワイの国内再移住も一段落した時期は1965年前後と感じられます。ピラポ、フラム、ラパス、フジ、サンタロサ、チャべスなどからエンカナシオン市を拠点にして、首都アスンション <= エンカル市 =>ポサダ、ロサリオ、ブエノス、ラプラタなどと亞国へ、エンカルから出ていった人が多数と感じます。
アマンバイ農協の移住者達が歩いた道は、キャピタンバードの奥地から、アスンション、サンパウロ、ブエノスの都市と分れたと感じられます。国境を隔ててブラジルの町が有り、夕方から自分で収穫した作物を市場で売っていた事が普通でしたので、ポルトガル語には違和感が無かったと感じます、ブラジル経済の影響が大きく、目がブラジルのサンパウロなどに向いていて、大きな日本町などが有り、サンパウロ市内や近郊などの日系人や同郷の移住者の縁故が強かったと感じられます。
ボリビアのサンフアン移住地の例を見ても、ラ・コルメナと余り差は無く、呼び寄せ、単身、花嫁などサンファンの地を踏んだ全移住者の内千六百二曙ワ人の名前が記録されていますが、現在そのうち、現在移住地に残るのは約二割だという。
フランス人、入植者がアルゼンチン、フォルモッサ州に再移住をして来た時期が有ります。アルジェーと気候的に同じで、比較的広大な土地をフランス政府の援助で取得していたが、2〜3年ぐらいで殆どのフランス人がブエノスに出て、フォルモッサ州には支配人を置いて、管理させ、殆どはアルジェーの生活と同じ様に、都市生活をしたと聞きました。それだけ農業経営に余裕が有り、資金的にも裕福さが有って、フランス政府の持続的、効果的なバックアップがなされたと感じます。それに対して比較する対象物としては不適切と言う人がいますが、それは当を得た答えと感じます、しかし比べて見るとーー!
日本政府の移住事業団のトップが警察官僚の天下りの温床であり、硬直した縦割り指令の、命令下で動いていた警察官僚の指導で、農業の実態も、経験も、移住の理論的な研究も、現地での実質的な経験と、その体験的な発想も無い人間が動かしていたと言う事は内部的に詳しい人の話を総合して、これまでの移住政策の失敗なども総合して、比較考査すると、それにフランス政府の現実の再移住政策の実行過程を比較すると、日本の移住政策が当時の官僚の中に戦前の棄民政策の頭での解釈で、戦後の外地引揚者などに対応する『余剰人口対策』の一環して、遂行した感じが有ると話した人を忘れる事は出来ません。
『過去を見、現在を考え、未来を卵ェすると言う賢者の思考』が有れば、移住者が生活資金にも困窮して、次ぎの生活設計と次期世代に対する資本金をも稼ぎ、蓄える事が出来ない環境を日本国政府が見過ごし、放棄していた事は移住行政の大きな誤りと感じます。
その事が適切に理解され、援助されていれば、私が移住地で見た、『この背中に背負っている子を妊娠しても、降ろす金も無く、育てる金も無く、純膜獅ィ腹に入れて過酷な農作業をして、産んで、育て無ければならない運命とはーー!』と、そして貧困の中で避妊具も買う金も無く、嘆いていた婦人と話した時は涙が込み上げて来た事が有ります。そしてその子供は3ヶ月ぐらいして栄養不良で死亡したと聞いた事が有ります。
次回も現実に動いた移住者の行動分析を書きたいと考えています。

パラグアイ移住者動向の考察(14) 野口 紘一
パラグワイ国内での日本人戦後移住者の再転住が一段落となった時期は65年を挟んで、その前後と感じます。
イグワス移住地はパラグワイ縦断国際道路の建設を視野に入れて開かれましたが、すでに1964年にはブエノス市内で移住地から全てを捨てて、出て来ていた家族が居ました。
現地環境が日本人に対しては余りに過酷で、生活条件がかけ離れていたと、話していたのを覚えています。日本に帰国せずに、アルゼンチンに腰を落ちつけた様でした。
長くイグワス移住地に住んで居た方は、ブラジルに大きな目を向けていた様でした。その事はブラジルとパラグワイを結ぶ橋が完成して、確かな事となり、周辺の活気と共に、定住が進みサンパウロやブエノスなどに出ていく人は、単身か勉学の為に出て行く、小人数の方に限定される感じとなりました。
隣り、アルゼンチンのミッショネス州に出た方も有ると聞きましたが確認はしていません。イグワス移住地の近くで農大の学友が、杉野農場を開いた事は、理論を実践する若い学徒の集団と感じました。
私も若い情熱をボリビア国境のアルゼンチン奥地で、理論を実践と言う行動で試していましたので、彼等の気持ちが理解できました。
何も行動も起さずに、試す事もしなくて、口先だけで理論を捏ね回すより、実際に行動を起して、貧困からの打破、将来の設計、次ぎの世代の子供の為に、人生一回の夢を掛けて再移住をした勇気有る方々に敬意を捧げ、尊敬を致します。そしてその過程で倒れた方々に深く哀悼を捧げ、その人達の夢と理想が今こそ花開いたと感じます。
日本の好景気の影響が南米まで到達して、出稼ぎブームが起るまで、各移住地は平穏の中で成長し、発展していたと感じます。
次回はこの総集編をまとめて終りにしたいと思います。

パラグアイ移住者動向の考察 15 総集編(1) 野口 紘一
パラグワイの移住者の動向も、今ではその研究と、過去の移動痕跡を記録に残し、歴史の僅かな1ページを記す事と考えています。
また事実は小説より奇なりと言う、特異な記録となる事も有ります。
パラグワイ最初の移住地、ラ・コルメナの歴史をみて、現在の日本人の最初の移住者から、四世までの生き方を見ても、現在の安定、住民のパラグワイ化で現地に溶けこんだ生活と、地域社会の重要な役割を担っている日系人と感じます。コルメナのパラグワイで果した大きな役目は、日本人と言う存在感を広め、勤勉、実直、向学心などと共に、大和魂と言う、即ち自制心及び思い遣りや慈しみなど、「義」、「礼」、「智」、「信」、「忠」、「勇」、「孝」等と徳目を戦前の移住者が持ち合わせて、苦難の開拓に斧を原始林に向けて開発した事を、隣国のボリビアや、アルゼンチンなどが注目していたと言う事です。この事が戦後のボリビア移住やアルゼンチン移住などの政府間協定がスムーズに行ったと感じられます。フラム移住地の歴史を見ても、入植当時のエンカナシオン市の人口が僅か3万5千人ほどしかなく、短期換金作物の生産物が溢れて行き詰まっていた時期も有ります。そのような時期を過ぎて、現在の移住地が有り、移住者が繁栄を掴んだのです。その歴史的事実を反省するとその過度期の生活困窮時代に政府の政策として、生活保護的な救済が有ったなら、赤子や若年の移住地で出生した子供達の命とその養育に親も安心して転住のストレスをも抱えることなく、生活して、安住の地を開く事が出来たと感じます。パラグワイから転移住して行き、移住地に残され、その移住地の土と返った、数々の魂が有ることも忘れてはいけません。

墓地で見た事をここに書き残して置きたい。(私の還暦過去帳より)
訪れた開拓地の墓標が思い出される。白木の粗末な墓碑に墨で書かれ、名前が雨風に曝されて消えかかって、地面に埋められた部分はすでに白蟻に食われた哀れな姿で、熱帯の灼熱の太陽にさらされて、夏草の茂みに静かに立っているその姿を思い出した。心痛む事は、沢山の子供の歳を書いた墓標が有る事だった。何も手入れがしてない墓地の片隅に、整然と並ぶ墓標の列は、近くで鳴く虫の音に、泣き叫ぶ子供の声を聞いた思いだった。
私が訪ねた所は、パラグワイの移住地の墓地で、かなりの人がブラジルや、アルゼンチンに転移住して、もはやその土地には家族は誰も住んでいない訪れる人も少ない場所で有った。しかし、その中で一ヶ所、夏草を綺麗に取り除き、朽ち掛けてぼろぼろになった墓標も側に取り除いてあり、穴を掘った後も平らにして、その上に花が置いてあった。
墓標の消えかかった文字を見ると、女の子供の名前が有って、当年二歳と微かに読めた。誰か隣国に転移住して、生活が安定したので自分の子供を迎えに来たのだと感じたが、まだ沢山の墓標の姿を見るにつけ、おそらく遺骨を掘り出しに我が子を迎えに来た人の気持ちが、子供に対する愛情を感じさせる気がした。側で鳴く虫達の鳴き声は、数々の子供の墓標の叫び声と感じるーー、親を呼び、探している悲しい叫び声と取れた。物言わぬ朽ちた墓標達がその月日の長さを感じ、哀れでならなかった。
転移住者は物言わぬ地下の魂を連れていく事が出来なかったのです。
この事は現在でも忘れてはいけない事柄と感じます。
次回は総集編の残りを書きます。
その後は、故、杉野忠夫農学博士、農大教授の昭和三庶O年、移住監督としてブラジル丸で南米のパラグワイまで横浜港から、移住者を引率して行かれた、移住監督手記を連載致します。
当時のパラグワイ移住地の正確で緻密な調査を見る事が出来ます。
拓殖学原論の研究と郷里、石川県での農民道場開設、訓練と京都大学助教授時代の農業経済の研究に裏打ちされた理論展開での思考の元に、その視野は現代の今の世でも、パラグワイ移住研究に大きな印となっています。

パラグアイ移住者動向の考察、16 総集編 終り。
パラグワイには現在日本からの移住者は有りません、政府の移住政策も有りません、パラグワイの日本人移住地も落ちついて、エンカルからポサダのアルゼンチン側にゴルフをしにベンツの高級車で出かける人も居る世の中で、大豆と小麦の2種類の作付け穀物の安定生産と国際相場の高値移行で健全経営をする事が出来ます。時代が変わり、ポサダに行く渡しの船にトランクと布団袋を乗せて、家族が不安と希望と入り混じった撫でエンカルから離れ行く町を眺めていた情景は過去の昔となりました。
しかし、なぜ日本から全財産を整理して家族を引き連れて来てジャングルの過酷な労働を耐えて、切り開いた農地を捨てなければならなかったか、その質問を移住事業団と政府に向けたい。
しかし移住事業団も無し、政府も全ての官僚が入れ替わり時代の流れで全て消し去られている、今のパラグワイを見れば過去の苦難を知る事は出来ない、人の中には思い出したくないと言う人もいる、『現在が有り、これからは将来を見て生きて行くのだから』と、アマンバイ農協でもコーヒー栽培の間作に蔬菜を作り、町で夜の市場で売り生計を助け、養鶏を始めて卵をアスンションに送り、台湾桐を植え付け、原始林から硬木を切り出して、現金収入を計り、しかしそれでも再移住して行ったのです。
エンカル近郊で油桐の永年作物を、茨城県でも優秀な梨と桃の栽培者としてその手法で育てて、近所のドイツ人が驚嘆するほどの短期間で大きな実を作ったが、それが全て売り物にならないと嘆いていたのを見た。そこに全て日本から持ってきた資金を吸い取られ、『油桐の木の間作に植えたトマトとレチュウガで生きたが、今ではエンカルの町はトマトもスイカも溢れて金にもならない』と、あきらめてブエノスに出た人と会ったが、全てがある特定の要因で追い詰められている。
移住者の高知県大正町と広島県沼隈町の比較も私の目で確かめているが、高知の大正町には1958年頃に訪ねた事があり、現実に移住前と移住後のパラグワイの生活の両面を比較してみた事が有る。沼隈町の出身で神原汽船の、現在ラプラタで洗濯屋をされている、親戚筋の方ともブエノス近郊で一時、一緒に仕事をして詳しく転移住の経緯をこの耳で聞いた事が有り、批判と言う対象物を得たと思います。
当時の農大の先輩でアマンバイ農協の設立にも関り、移住事業団に勤務されていた方にもパラグワイの詳しい話しを聞き、また、パラグワイのアスンションで、フラム入植地の造成にも関った農大先輩の服部氏とも詳しい話しをして、当時のパラグワイの移住地を自分の足で全部見て、得た結論が、当時ブエノスに転移住されていたコルメナ移住地の戦前の第一回移住者、隈部友吉氏の意見と同じとなり、私自身が最終的に転移住を決意したのです。それは単身移住者として正解でした。
それは今でも変わりません、去年ブエノスを訪問した時に、友人がしみじみと『お前は思い切って移住地と頭を切り替えて行動して良かったな〜!』と言ってくれました。同時期にアルゼンチンに転移住した人の多くは鬼門に入り異国の土と成っています、その2世は日本に出稼ぎに出て全てが過去の出来事と消え様としています。私の動向の考査が少しでも後の世で役にたてばと思います。
この今までの記録をラ・コルメナの青木家の惨劇で生き残って現在ブエノスに住んで居る私の友人、青木ラモン氏と彼のお姉さん及び、全ての勇気有る転移住者達に捧げます。






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