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変わったあるぜんちな丸同船者 キュラサオからリオまで同船のペドロ・ペレストレーロさんからのお便りです。
『私たちの40年!!』ホームページでは、ポルトガル語版も公開しております。ポルトガル語版は、長女の弥生に総ての管理運営を一任しており、彼女が好きなように好きな事を書いているようですが、そのポルトガル語版にポルトガル人で戦後キュラサオ島に移住後9歳の時に家族と共に移住船あるぜんちな丸にキュラサオ島から乗船リオまで21日間日本人移住者と同船したとの事で当時の思い出を寄せて呉れております。私達の第12次航より幾分前の第9次航のようです。その後PEDROさんは、再度カナダに移住して現在はカナダにお住みとの事でポルトガル語を書くのも久し振りだしその後キュラサオ、リオも訪問した事はないとの事ですが、あるぜんちな丸と言う舞閧ゥら若き日の出来事を思い出したとのお便りです。ポルトガル語版に掲載されているお便りを日本語に訳してここに紹介して置きます。
写真は、ペードロさんとキュラサオ島で生まれ同じ船でブラジルに移住したご兄弟の3人です。


弥生 さま
長らくポルトガル語を書いたことが無いので間違いがあれば直して下さい。また使用中のPCは、ポルトガル語侮ヲが出来ないこともありHP掲載時には正確に侮ヲして下さい。我が家ではフランス語しかしゃべらず仕事場では英語を使用しています。
船内で撮った写真は、残念ながら一枚もありません。1959年9月のあるぜんちな丸船内で撮った写真を持っておられる方が見付れば是非送って下さると嬉しいです。
添付写真は、左からカルロス、リータに私ペードロです。モントリオールの北にあるリータの別荘で撮ったものです。
もう一枚は、1959年キュラサオ島を発つ前に住んでいた家の前で撮ったものです。
私の家族は父母と男兄弟3人、私、二人の姉妹の合計6人兄弟でした。私の姉二人はポルトガルのマデイラ群島で第2次世界大戦中に生まれました。私の父は、単身でヴェネズエラから20キロ程離れたカリブ海のオランダ領キュラサオ島に移住しました。父は、当時世界最大の石油会社SHELL PETOLEUMに勤務していました。1945年に母は私の姉二人リータとアナリアを二人を連れて父の住むキュラサオ島に移住しました。
キュラャIで1947年に姉のアナ、1950年に私ペードロ、1951年に弟のカルロス、1959年の2月に末弟のルイスが生まれました。
この時期にSHELLは人員整理を始め多くの従業員が職を失いました。今でいうOUTSOURCING政策です。この傾向は80年代から現在まで続いていますが、キュラサオ島での仕事確保が難しくなったことから父はブラジル移住を考え既にリオに住んでいた叔母を頼ってブラジルに移住することに決めたのでした。
私達の家族は、1959年の9月にあるぜんちな丸に乗船し21日間の船内生活を経験する事になりました。長姉は、1959年にキュラサオで結婚していた事から島に残り1961年にブラジル丸でブラジルに移住することになりました。私は当時8歳でアジア系の人達を見たことがありませんでした。2等船室が満杯で私たちポルトガル人とその子孫25名は、移住者と同じ船倉の3等船室に乗船しました。船倉とはいえ私達は、移住者の大部屋獅セな式でなく小さく仕切った部屋が与えられました。
最初の日に私たちの仲間が時計、財布、貴重品を無くしました。ヨーロッパ式の考え方に慣れていた私たちは、紛失したものは二度と戻ってこないと諦めていたところ、驚いた事に紛失物が総て船長さんの所に届けられていました。
船倉の3等船客だった私達は、好むと好まないに係らず移住者の皆さんと同じ待遇で同じ生活を送る事になりました。日本食、大衆浴場、熱いお茶を飲む習慣等に最初は違和感を感じましたが直ぐに慣れました。現在は、私は日本食、特にてんぷらと照り焼きは大好きです。
私と弟は、カーボイごっこで遊びながら日本の子供たちと友達になりました。私と弟は、新しい撃てば音がして煙が出るピストルを持っていましたが、日本の仲間は、プラスチックの色がついたピストルを持っておりこれは撃つと水が出るものでした。私たち二人対あるぜんちな丸全体の子供達の戦いは、我々のピストルは、絶対不敗だと気負っていました。しかしながら、直ぐに日本人の安物のピストルは、大きな威力を発揮私たちを完全に濡らしてしまうが我々のピストルは相手を濡らすことが出来ず完敗し新しい仲間にピストルを変えて貰う必要を感じました。綺麗なピストルが水鉄砲に勝てない事を悟るのに時間は掛かりませんでした。新しいお友達は、広い船の全域を案内して呉れ自然と日本文化に触れる機会が得られました。生涯忘れがたい21日間の船内生活でした。
私は、この間一体どのようにして理解しあっていたのか何語で会話をしていたのか想像も付きません。私は日本語をしゃべらないし彼らはポルトガル語又はパイアメント(キュラサオで話されていた言葉)又はオランダ語が全く分からないのだから。ところがこの21日間は、皆同じ言葉を話していたと感じるのはどうしてでしょうか?不思議でなりません。私の末弟は、まだ6ヶ月の可愛い盛りで日本のお母さん達が朝連れに来て食事の時間と寝る時間以外は近くにいませんでした。日本の皆さんは、金髪の弟を大変珍しく可愛がって呉れていました。日本の方は、ポルトガル語を私達と話そうとして来ましたが彼らは私達兄弟は、ポルトガル語が話せに事を知らなかったようです。私達は、ポルトガル語が助ェに話せずリオに付いてからポルトガル語を特別に勉強する必要があったのです。
キュラサオから真っ直ぐにカストロ時世のキューバに行きました。(これはキューバでなく現在話題になっているドミニカの間違いのようです=和田注)船は、何キロか港から離れた所に停船しキューバの兵隊さんが船に乗り込み検査の上10数家族が下船して行きました。どうしてあるぜんちな丸の船長さんは、ヴェネズエラ海岸に近いキュラサオに立ち寄った後カリブ海の北に位置するキューバに立ち寄ったのか今でも理解に苦しんでいます。
その後レシフェーに寄航し7日間も停船しました。リオにはコズメ、ダミアンのお祭りの前日に着きました。
長姉が1970年に家族全員で一番にモントリオールに再移住しその後、我々もその後を追うようにしてカナダに移りました。
父だけがブラジルに残り1972年に亡くなりました。母と次姉は、数年前にモントリオールで亡くなりました。
私はフランス語と英語の教育を受けコンピュタープログラマーとして大学を卒業し現在トロントに住み家族はモントリオールに住んでいます。
私は良く旅行しますし世界中の到る所を見て周っていますが、その多くは思い出すこともありません。ところがあるぜんちな丸での船旅は特別でその時の情景、音響、船倉特有の臭いまで鮮明に覚えております。あの船旅が、私の世界への扉を開いてくれたと言って良く私の知らない世界、文化への誘いであったと懐かしく思い出します。長々と昔話を語りましたが私の人生に於けるオアシスともいえるあるぜんちな丸での生活を思い出す縁としての『私たちの40年!!』ホームページとの邂逅を神に感謝しております。
ペードロ・ペレストレーロ

(追伸)赤道通過の折に伝統的な【赤道祭】があったのを覚えていますが、その時に日本の移住者の方が沢山写真を撮っておられたのを覚えていますが、何方か当時の写真をお持ちであれば是非送って頂きたいと思います。




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