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あるぜんちな丸の航跡と晩年  沼田 雷介さんの寄稿。
『私たちの40年!!』MLのメンバーで子供の頃から船が大好きで既に34年間の船の歴史を追いかけておられる船の専門家沼田 雷介さんから掲題の【あるぜんちな丸の航跡と晩年】という貴重な書き込みをして頂きました。寄稿集移住船に付いての欄に収録して置く事にしました。
あるぜんちな丸は、移住船としては、僅か13年ですが第1回の処女航海には842名の移住者を運び最終第40次航の127名まで合計10817名(1航海平均270名)改装後のにっぽん丸での移住者285名を加えて11102人の同船者が存在します。それぞれの移住者の夢を乗せて多くの乗組員の皆さんに送り出して頂いたのですが、それぞれの移住者のその後の辿った人生はどのようなものだったのでしょうか?出来るだけ集めて行きたいと願っていますが遅々として進みません。あせらずに続けて行くことにします。
写真は、沼田さんの記述にもあるあるぜんちな丸の船内で使用されていた備品の一つ時計です。


和田様、「あるぜんちな丸」の晩年のエピメ|ドについてお知らせします。
同時に改めて「あるぜんちな丸」の航跡について振り返ってみます。

あるぜんちな丸が1958年6月2日(月)16時に横浜から初めて南米に旅立ってから13年後、最後の南米航路に横浜を出港したのは、1971年10月29日(金)16時のことでした。この時、南米移住者311名が乗船したという記録が残されています。
南米諸港に入港後、パナマ運河を経てロサンゼルス、サンフランシスコ、ホノルルに寄港し、翌年1972年2月14日(月)に横浜に帰港して、名古屋、神戸に入港、南米航路の「あるぜんちな丸」の航海が終わりました。
その後、「あるぜんちな丸」は、生まれ故郷の三菱重工神戸造船所で白い船体のクル−ズ客船「にっぽん丸」として生まれ変わりました。
南米航路から退いたその年1972年4月5日には早速、東京晴海埠頭からマニラクル−ズに「にっぽん丸」として再デビュ−を果たしました。
同年7月29日には、客船として初めて日本一周クル−ズに就航したり、船として働き盛りの年齢で第2のキャリアを謳歌しました。
現在、日本ではビジネスの一線を退いたシルバ−世代の人たちが「飛鳥」「にっぽん丸」(3代目)「ぱしふぃっくびいなす」といったクル−ズ客船でクル−ズを謳歌していますが、当時は20−30代の若い世代の船旅の楽しさを知っていた人たちが乗客の半数以上を占めていたように思います。

その「にっぽん丸」に再び南米に向け航海する機会が訪れます。
1973年2月14日(水)横浜から世界一周クル−ズに旅立ち、南米諸港に寄港することになったのです。
戦前初代「ぶらじる丸」が西廻りケ−プタウン−南米経由世界一周航路に向け1940年9月15日に神戸から出港して以来、日本の客船として33年ぶりの世界一周航海でした。
この時の「にっぽん丸」の航跡は、1972年2月14日正午に横浜大桟橋を出港-ホノルル-ロサンゼルス-3月19-20日ベレム-3月23-24日レシフェ-3月27-28日サントス-3月31-4月2日ブエノスアイレス- 4月5日サントス-ケ−プタウン-ポ−トルイス-シンガポ−ル-香港を経て横浜に5月13日に帰港する3ヶ月の航海でした。
実はこの航海にも南米移住者が数名乗船し、最後の南米航路の航海から横浜に向け航行中の「ぶらじる丸」とハワイ沖で出会ったと、川島裕キャプテンは著書『海流』の中で記されています。

この世界一周クル−ズの後も「にっぽん丸」は政府や各自治体主催の「青年の船」としてチャ−タ−され、1976年まで活躍しています。
余談になりますが、政府主催の東南アジア青年の船「にっぽん丸」に乗船した当時のフィリピンやシンガポ−ル、タイ等東南アジア諸国の若者はその後、外交官や政治家、現地大企業の重役に就任している人たちも多いと聞いています。

「にっぽん丸」の最終航海は、栃木青年の船として1976年11月20日東京からマニラに向け出港した航海で、1976年12月6日東京晴海埠頭に帰港し、その僅か4日後の12月10日夕方、タグボ−トに曳航され解体地の高雄に向け出港しました。
私ごとになりますが、憧れていた船の1隻なのに「にっぽん丸」時代を含めて「あるぜんちな丸」をついに見ることができませんでした。
「にっぽん丸」が最後の航海を終えて晴海埠頭に入港する日は、船の雑誌を見て知っていたのですが、折り悪く中学校の期末試験の直前。雑誌にはちょうど試験が終わる11日夕方出港と記されていたので、普段は一夜漬けで勉強して試験に挑むのに、この時はどういうわけか珍しく試験に向けて勉強に集中することにしたのです。とは言っても当時から根っからの船好きだった私にとって「にっぽん丸」のことが気になって勉強に集中できるわけがありませんでした。試験終了後11日午後、「にっぽん丸」出港を見送ろうと晴海埠頭に行きましたが、既に「にっぽん丸」の姿はなく、代わりに「にっぽん丸」の代替船として商船三井客船がブラジルの船会社から購入した客船「セブンシ−ズ」が停泊していました。不可解に思って「セブンシ−ズ」のタラップを駆け登って舷門にいたフィリピン人乗組員に聞いて、「にっぽん丸」は1日早く台湾に向けて旅立ったことを初めて知ったのです。あれから30年近く経った今も悔しかった思い出が残っています。

ところで和田様がおっしゃっている通り、一時「あるぜんちな丸」で使われた船具が都内に出回ったことがあります。
実は「あるぜんちな丸」が解体された翌年8月に横浜高島屋で「船と船旅展」という催し物があり、そこで特別出店した船具屋さんのブ−スで、浮輪やテレグラフ等を見かけました。中には当時中学生だった私にも少し無理すれば購入できる物もありましたが、家で置く場所を考えて断念しました。折りも折り、知り合いの元南米航路の航海士や乗組員の方たちに知らせたところ、相当数買い求めていたようです。
よって、今も「あるぜんちな丸」の一部は、同船にこよなく愛着を感じている船乗りや関係者の人たちによって大切に保管されているのは間違いありません。

長文になってしまいましたが、ご参考までに。

沼田雷介



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