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リオデジャネイロ日本商工会議所50周年記念式典に寄せて。堤 寿彦会頭挨拶文。
リオデジャネイロ日本商工会議所第26代会頭の三菱商事リオ支店長、堤 寿彦さんがブラジル日本商工会議所のメンバーによるメーリングリストBATEPAPOに参加され、自己紹介を兼ねての最初の挨拶文が配信されて来ましたが、九州男児の男気溢れた剣豪で若い頃にはポルトガルでの語学研修をされていた時に料理本も出しておられる作家、壇一雄さんと共同生活をした事もあるとの事で商社員としての猛烈社員振りを発揮されて来られただけでない人間身を感じさせるお方のようです。リオデジャネイロ日本商工会議所50周年記念式典での挨拶文と共に堤さんのお便りを原文のまま収録して置きたいと思います。
写真は、堤さんにお願いして送って頂いたものです。


(来賓の方々への冒頭の挨拶−省略)
70年前、1936年のちょうど今頃、このヨットクラブの対面のあの公園にたたずんで、目の前のPao de Acucarを大きく見上げ、次の言葉を残した作家が居ります。
〔巨大な岩山のそびえ立つ岸深で懐の深い港。暮れ行く湾頭の風光を眺め惜しんだ〕
この島崎藤村が読んだ、今も変わらぬ、そのたたずまいを背景に、本日ここに、皆様と50年記念のお祝いの式を執り行うことになりました。
丁度50年前、時は、クビチェッキによりブラジリアへの首都移転の方向付けがなされ始め、またしばらく後 VWのブラジルで国産乗用車初のカブトムシ(ビートル)が、リオの町を颯爽と走り抜けるこの時代、年浮ノよりますと、1955年9月25日、戦前からありました蜂谷商会を中心に、現在の当商工会議所の母体であるリオ日伯商業会議所が誕生し、その後1971年末、現在のリオデジャネイロ日本商工会議所と名称を変更致しました。
50年前、 時を同じくして設立された、当市企業を代浮キるリオドセ社、昨年50年を祝ったペトロブラス社が、また本日お出で戴だいている日系の組織でも、体育連盟、先般50年のお祝いをされましたNiteroi日系協会など次々に産声を上げ、ある意味で、ここにお集まり下さった皆様とも、手に手をとって過ごしてきた半世紀であったかと思います。
笠戸丸から考えますと、このほぼ百年で、現在日本で働いておられる日系の方の人数をほんの少し下回る25万人の日本人が移民されブラジル各地で大きな貢献をして来られました。皆様のそのご努力・功績に対し、大いなる敬意を浮オ度いと思います。
日本では、この50年、敗戦から抜け出し、迎える高度成長、オリンピック、東京万博、バブル及びその崩壊、それに阪神大震災を含む様々な事柄に綾取られる激動の時代を過ごし、当地においても、世界の動きや日本のそれにシンクロナイズするように日本企業の進出、成長、国の経済混乱、インフレ、石油ショック、累積債務などによる困難な環境での挫折、撤退など喜怒哀楽を歴史の中に飲み込むには充分な期間である50年がそこにありました。10年前には、諸先輩や日系の方々の協力とご尽力によりリオ植物園内に日本庭園も設けられ、盛大な開園式も挙行されており今年は10周年になります。
それやこれやを経て、現在は登録会員数は、個人も含め59社となっています。
その歴史の個々のシーンを語るには、この場に置いては時間があまりにも足りませんが、しかし、その一こま一こまを作り継続して来れたのは、間違いなく、それを支えて、またその周りで協力、ご支援いただいた皆様や先達の人々の勇気と努力の集積であることは間違いありません。今、50年という、めぐり合わせの場において、26代目の会頭としてこの場で開会のご挨拶をできることに厳かな緊張と喜びを感じております。私事では有りますが、自分は、お世話になる会社や社会に対する、【貢献】と【信頼】とそして、一歩を踏み出す【少しの勇気】をもって、屈託無くことに当たることを自分の信条として参りました。この気持ちは、リオにおいても全く同じであります。
今夜は、3時間ほどのお祝いの宴となりますが、限られた時間と、人数の中で、この半年一生懸命準備致しました。先輩達への敬意とお祝いの気持ちを、ここにご参集の皆様と共に分かち合えれば幸いです。
本日は、サンパウロから、ブラジル日本商工会議所の田中会頭,べレン(パラ)から五女瀦實・ェ、マナウス(アマゾナス)から山岸会頭及び丸岡専務理事もお祝いにご参加下さいました。是非、ご一緒にご歓談下さい。
最後となりますが、お祝いの記念として、しおり=ブックマークを準備致しました。
そのしおりの中に、気持ちを込めて書きましたポルトガル語と日本語の言葉を、開会とお祝い、それに今後の50年、百年に向かう期待を込めた私のご挨拶の言葉として締めくくりたいと思います。

          初春の頃、50年の旅の途中で、、、
〔ポルトガル語; O caminho nunca e longo demais, quando um amigo nao nos
         esquece.

〔日本語:      君が出来る 全ての手段で、
         君が出来る全ての場所で、
         君が出来る全ての時に、
          君が出来る限り。
         【ここ】と【今】しかない【時】
           祝、50年!
 堤 寿彦 拝

皆様
工藤御大のお取り計らいでサークルに入らせて頂きましたリオの堤です。
長年、武道をやっている身からすると、このサークルが体育会系なのか、愛好会系なのか不明ですが、皆様のご指南、お手柔らかにお願い致します。
雑巾がけは、道場でしっかり鍛えていますので、こき使っていただいて、全く高「ません。最初は、自己紹介ということで、時代錯誤的に歴史を遡ります。
小生、皇国植民会社のブラジル代理人で移民の父と呼ばれる上塚周平氏や、笠戸丸に少し遡る1906年、神奈川丸の自由移民としてリオ近郊のサント・アントニオ耕地に入植された隈部三郎氏(現在、この方のご子孫にも居合と剣道を教えて居ます)と同じ郷里熊本のある田舎町で西南の役の激戦地のど真ん中で生まれました。余談ですが、すぐ近くの山のふもとには、フジモリ元ペルー大統領の実家もあり、当時凱旋帰国の際は、幟を並べ熱狂的に迎たという、ちゃきちゃきの肥後もっこすの土地柄です。
故郷の実家の縁側にの柱には、当時最新鋭の前込め式エンピール銃の直径一センチ・長さ3センチ位の鉛製の玉が幾つか突き刺さったまま残っており、庭先でも良く見つけ遊んだものです。
当時連隊長心得であった乃木希典は、実家裏庭に陣営を敷き、17日間続いたー雨の田原坂の戦いに出陣しています。しかし、家族全員、心情的には、西郷隆盛を応援していたと言います。隆盛の末弟・小兵衛は、近くの高瀬川のほとりで討ち死にしましたが、その小兵衛を撃った銃など、官軍の重火器は当時、大阪の軍工廠から‘郵便汽船三菱’(日本郵船や今私が勤める三菱商事のルーツですが)が、専属で九州に運んでいましたので、‘男同士の夢の跡。。。’と有名な‘田原坂’の曲で歌われる、故郷の土地の織り成す奇縁と言うものを感じます。
そういう訳で、黙っていても、そこいら辺に、日本刀がごろごろしている土地柄であったので、山の中でのチャンバラは日常茶飯事でした。鼻垂れ同級生の中には、貧しくておもちゃを買えず、真剣を振り回していた奴もいたんじゃないでしょうか。。
武道を述ぶれば、きりが無いのでこのご挨拶では省略します。
時は移り、20才を越えたばかりの私は、ポルトガルの田舎の港町に立ちます。それがいわゆる、ポルトガル語や海外文化としっかり面と向かった最初です。ひょんな事で出会った、壇一雄氏の海岸別荘に数週間転げ込み、毎日、その朝2人で釣ったばかりの炙った秋刀魚やBACALHAUを肴に、人生談義に話が弾みました。
彼が作家だと知ったのは、数日経った後でした。無頼派作家として並び称される、太宰治や坂口安吾と共に檀氏の人生も波乱万丈であり、若気の至りで聞かせて頂く話は、正に、時間の経つのも忘れる毎日でした。彼が、九州に帰り、ガンで亡くなったのはそれから数年後です。
息子さんや、お嬢さんの檀 ふみさんにも、お父上の海外最後の土地となったポルトガルでの面白い話を、後でして差しあげました。
檀ふみさんや、彼を信望していた 俳優の高倉健さんなども、後に足跡を辿りあのリスボンそばの田舎町の別荘を訪れています。
リスボンやポルトでは、当時アンゴラやモザンビークの独立運動が激しい70年代前半で、コインブラで少し勉強しながら、週末ポルトガルの軍人達に居合をほぼ8ヶ月教えました。
今考えれば、あの頃が小生の、ボヘミアン時代といえます。
それから、2年前に伯国三菱商事リオ支店長として赴任するまでのほぼ30年弱、ポルトガル語や中南米とは全く疎遠な世界で仕事をして参りましたが、日本で作ったブラジルの友人の数やチャンネルは結高り、地球の裏側ブラジルの輪郭を知りたく、日系・非日系社会に拘らずどっぷりと浸かった生活を送っています。
女房は熊本の実家もすぐ近くで同級生、小生のボヘミアン生活に40年近く付き合ってくれています。
金曜ランチに少しピンが入り手元不如意で書き過ぎましたが、余り長くなると、工藤さんから、仕事せずに何遣ってんだ。。とカられますので、飛び飛びになった年代の話は将来の何かの機会に残し、時を今に引き戻し、、、、、最後に、リオ商工会会頭として、50周年のお祝い(9月23日)をした際の、拙い挨拶の下書きを添付致しますします。(リオ商工会の歴史が少しご参考になると思います)。
‘トロピカーナ。。BATEPAPOは、男同士の夢の跡’と言う句で締め括ります。
堤 拝




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