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パラグワイ日本人移住者の精神的思考の研究 野口紘一さんの論文です。
何時も実生活、経験に即した事実を理論的に整理して書き残す作業をしておられる野口さんのパラグアイ移民の精神的思考の考察を『私たちの40年!!』MLに投稿して呉れておりそれを下記に纏めて移住史の一面として収録して置くことにしました。野口さんご自身が書かれた掲載にあたっての序文です。
『今日からパラグワイでの移住地社会の日本人的思考の歴史と経緯を考えて、どのような遍歴を経て現在に到ったかを研究して見たいと思い、資料と面接での過去と現在を比較して見たいと思い、不定期に掲載するものであります。』
写真は、パラグアイの同船者が入植したピラポ移住地の2004年度の入植記念日(市の祝日)に行われた戦没者慰霊祭に参加した時に撮った同船者のお墓の写真を使用しました。


今日からパラグワイでの移住地社会の日本人的思考の歴史と経緯を考えて、どのような遍歴を経て現在に到ったかを研究して見たいと思い、資料と面接での過去と現在を比較して見たいと思い、不定期に掲載するものであります。

パラグワイ日本人移住者の歴史を見て、その移住者が現地での移住地で定住してからの、生活の中で現地化するまでの長い思考的、時間的歴史の流れを見ると・・、
1、 戦前の移住者達が農村、部落形態での隔離された閉鎖社会から、それこそ直接に日本の都会生活を飛び越えて現地移住地の社会形成に入って、そこで定住して2世、3世   まで育てた日本人的な思考。これは私が独断と偏見を持って付けた名称は「コルメナ的思考」
2、 それからそれに対抗して、比較と格差研究の対象として、戦後のコルメナ第2移住地の戦後移住者達の日本人的な思考。これは「新コルメナ的思考」と名称を付けておきます。それらには戦後移住者に、各地の移住者募集において、都会生活の勤労所得者であった都会生活経験者達が居た事です。
3、 戦後のフラム移住地などは、かなり多くの戦後海外からの引き揚者などが居て、特に満州や朝鮮など、それから樺太などからの移住者が居た事から、「戦後引き揚者的思考」と名称します。
4、 フラム移住地での分町計画での集団的農村形態のパラグワイ移住としての、地域住民の集団移転に等しい形態。これは「分町集団移転的移住者思考」と名称します。これは「大正町的と沼隈町的思考に2分される」
5、 フラム移住地などにおいて、東北地方からの政府の集団移民募集で一般公募での応募者で移住して来た、2・3男対策を含めての移住者達の思考。これは「東北移民広域公募者的思考」と名称します。

パラグワイの移住者によって、かなりの地域差、職業、職種別意識格差、年齢的教育環境での思考格差が有る事に気が付きまして、その意識差が長い移住生活の中で変化して育成され、また現地化して混ざり合いパラグワイ日系人の思考と言う源が出来たと感じます。
特に以下の(6)で書いている分類は少数ながら、かなりパラグワイ社会での影響があったと感じます。
6、パラグワイ移住者の中で少数ながら・・・
  (A)日本からの花嫁呼び寄せ移住者。
  (B)移住者と共に告ャ家族として来た若年独身移住者。
  (C)パラグワイ農業実習生、研修生などで来て居付いた少数ながらの移住者達。(例ー農大・杉野農
場、産業開発青年隊、学生海外移住連盟など)
  (D)高学歴と資金力とを持ち合わせて、起業家としてパラグワイのビジネスに貢献している個人移住
者。(例ーこのフリーメール主催者、田中氏)
  (E)ドミニカよりの転移住者。
  (F)日本、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアなどからの個人旅行、視察、技術、教育指導で来て定住した日系人。  この分類項目に入る移住者は数は少ないが、かなりのパラグワイ日系人社会に大きな影響力を残して、日本人的思考の早期日系パラグワイ化した2世・3世社会の橋渡しをしたと感じます。
7、 パラグワイの海外移住事業団造成各地区、移住地入植地型思考。
   これは公募での応募者が、集団で各地からの無差別の職種での入植と、1958年当時の入植者が移住地が満植で耕地配分が得られず、エンカル郊外に直接パラグワイ現地人より土地取得して、家屋、果樹、油桐の植え付け済み、いくらかの家畜、ニワトリなど付けてもらい購入して、早期に安定経営と生活がパラグワイ人の中での交際で、思考的に移住地と一区画離れた中で生活したので、他の同時入植者とかなりの思考の変化があったケースも見られる。
この様に、1〜7までの簡単な移住者の分類において、入植地において生活環境が影響して、日本人的な思考が大きく変化してきた。
パラグワイ出生や、幼年での家族と移住して来て、教育環境がパラグワイ現地化の中で、スペイン語、ガラニ′黷ネども直ぐに覚えて、なおかつも放課後に日本語学校に行った児童が、思考的には日本人の親の思考をそのまま持ち、パラグワイを理解出来る人間に育ったと感じられる。
アスンションの都会近郊での、フラム移住地からのパラグワイ国内転移住者の子弟が日本語環境が少なくて、日本人的な思考が偏った日本語教育環境に影響され、フラム移住地などと同時期の入植でありながら、諸N後にはかなりの日本人的な思考の差が出たことは注目すべきである。

パラグワイにおいて戦前と戦後の移住地が平行して、共存する場所はコルメナ移住地しか有りません。
今日は『コルメナ的思考』を考えて見たいと思います、コルメナは戦前の移住地としては、陸の孤島という感じでかなりアスンションからも離れていて、唯一、情報はブラジルとアルゼンチンからの日本情報が来ていました。
第二次大戦中はかなりの監視状態で、孤立した移住地でした。僅かに短波ラジオでの情報が手に入るくらいで、移住地内での集会や出入りも移住地の前に警察所の詰め所があり、監視の状態が終戦まで続いたと聞きました。
そのような状態での子供の学校教育と家庭教育は、教科書などの日本語の書籍や、新教科書など入荷することが出来ずに、かつ孤立した状態が5ヵ年ほど続いて、移住してきた昔の日本農村の村・部落の意識的思考の状態が継続した状態となり、日本の古き良き共同体的な村社会が存在したと感じます。
昔の日本に残っていた互助相互の精神での村社会的な考えで、思考されたと思います。皆同じ移住地生活レベルと考え型が鋳型に入った思考と感じます。それも無理も無い事で、当時の状況を考えるとそれしか選択が無い『もし戦争に負けて、日本が無くなったら・・』と言う不安が誰でも持っていたからでした。
それはパラグワイに住んで生活してみると直ぐに感じる、パラグワイ三国戦争での悲惨な敗退での結果を知っていたからでした。
連合軍の進撃と攻撃、占領とかなりの正確さで、日本国内情報が途絶ているのに反して、移住地の住民に入って来た事は、当時の日本人移住者の行動、言動、思考においてもかなりの影響が有ったと感じられる。
限定された移住地内で、行動も制限され移動は禁止されている常態での日本語社会では純粋に日本人が、パラグワイ社会において温存され、維持され、なおかつ、それしかない状態におかれて日本人社会が営まれて来た事を考えると、これこそ最上の参考となり、標準としての『比較する対象物』としての最高の場所として残ったと感じられる。
この事は戦後開かれた第2コルメナ移住地は、戦後の移住者が持ってきた、戦後の民主々義教育的思考と価値観の相異が比較対象とする絶好の場所と機会であると確信する。
この事は40年の時代を経ても、ブエノスで会った戦前のコルメナ移住地出身者が『コルメナ的思考』の考え方を持っていたのは、かなり興味がある事であった。

『コルメナ的思考』と感じる日本人の定住稲作民族の集団的な村落の農村共同体基本は宗教と感じます。
戦前のコルメナ移住地に入植して来た移住者が、日本で住んでいた村落の氏神様を祭る神社から、御札やお守りを授かって来ていたケースが多く見られたからです。台所のカマドには火の神様、井戸には水神様が、家の入り口には家内安全、五穀豊穣の札が唐チてあり、家の一番奥まった場所には仏壇が置いてあり、生活の基本が宗教という精神的な大きなバックボーンが有り、それが生活の基本として日常的な生活の思考となったと感じます。
この事は時代が経って、子供がパラグワイの学校に通学して教育を受けるようになって、パラグワイ社会がキリスト教のカトリックと言うスペインの侵略者の基本的な理念の宗教で、国全体が動いていることを考えると、あらゆる生活、教育、政治、社会的文化的なすみずみまで、カトリックと言う宗教の理念で計られる社会環境からは逃れることは出来ない事です。両親が言葉が出来なくても子供がスペイン語やガラニ′黷覚えて、使用人の指図や仕事の段取りまで出来る様になり、かつまた交渉や商売の事まで踏み込むようになると、親が日本から持ちこんだ宗教的理念と思考とそれに裏打ちされた行動が薄れて来るのは仕方がない事と感じます。
しかし、その子供達の行動理念の思考は親の持つDNAは絶対に消えることは有りません。戦後行動の自由や隣国に出国する事も制約がなくなると、多くの日本人達が親の時代から子供達や、2世の時代に移り行く様になったと感じます。そして最初に持ちこまれた移住者の精神的な思考が、次ぎの世代に交替して行ったと感じられます。それはカトリック精神も含めてのパラグワイ化としての時代的、精神的な思考の移籍と感じられます。
この事はコルメナ移住地が第2移住地を開き、戦後新しい移住者が入植して来て、戦前と違った精神的な思考する環境が開かれたのでした。戦後、日本では占領軍の進駐と同時に、多くのキリスト教布教や、新興宗教が活動して、PL教団、生長の家、立正佼成会、創価学会などの信者が誕生して、移住者の中にはその信者が含まれる様になって来ました。
『新コルメナ的思考』と言う精神的な理念は第二次大戦を挟んで大きく変わって来たと感じられます。終戦から諸N以上もしてからの移住で、かなりの精神的国「も変化していた頃ですから、中には戦前の移住者と相反する思考で摩擦も有ったと言われています。
次回はその『新コルメナ的思考』を考えて見たいと思っています。

『新コルメナ的思考』と阜サする、精神的理念にもとずく思考は対象とする良い例は、アメリカの初期開拓の歴史を見ると、それが感じられます。アメリカの思考と行動原理を、アメリカ建国の歴史から見て、アメリカが宗教抜きでは、理解出来ないことがあると言うことの認識があらためて感じられます。
日本の様に神社や氏神様に初詣をして、仏壇を祭り結婚式をキリスト教での結婚式で行ない、葬儀は仏教で執り行う事は、現代が戦後をスタート拠点とした精神的理念の思考変化が、大きく変わった事を示す良い例と感じます。アメリカの場合では初期開拓でアメリカ大陸に英国から渡ったピユーリタン(清教徒)に神が与えてくれた「約束の土地」であり「信仰共同体の建設場所」でも有った。現在でもアメリカの宗教的原理の流れで見ると、モルモン教、アーミッシュなどの宗教理念での生活者が居ます。パラグワイに住むドイツ系メタニーノ(メノー派)はプロテスタントの一派です、これは伝統派と開明派に分かれます。
これと同じく精神的理念を共同するアメリカのアーミッシュはパラグワイのメノニータと同じ『メノー派』です。この様にアメリカにおいての宗教的理念の関連性は大いにあると感じます。開拓初期は集団で砦を築き、要塞化した村落を作って、外敵のアメリカインデアンと戦い、教会を造り、原始林開拓して、農地や牧場を開いて、彼等がキリスト教の理念の元である聖書を信仰の中心に、聖書を社会的道徳の手本とし、法律として、また教科書として、そこから文字を教え、子供の教育手本としたことを考えて、その事を見ると、凝縮した狭い開拓初期のアメリカが、宗教を理念とした活動がパラグワイの『コルメナ的思考』に関連した活動と連立する関連性が、かなりの割合で合致する事を感じます。
パラグワイの『新コルメナ的思考』は、アメリカも同じく新規の移住者が持ち込む雑多な民族的思考と宗教、特にカトリック信仰のイタリア人などの増加が多元的な文化の流れの主流を占める様になって来た。
ワスプ(WASP)は白人で、アングロサクャ東n、プロテスタント信者であるアメリカ人の集団『ワスプ』の考えを破壊して、分解してミックスしてきた時代的な流れをコルメナ移住地に当てはめると、感覚的に同じ意味合いがする、パラグワイのカトリック教の影響、その教育に関連した思考や祝日や記念日などのカトリック系の思考での流れを見ることが出来ます、それと戦後の移住者が持ち込む、多様性な宗教感、戦後のアメリカナイズした西洋文化を戦後10年間で、学校基本教育での教えの中で学んだ人が沢山居た事であると感じます。
その相対する相異から来るのが、同じ移住地内での、日本人の思考的な格差となって行ったと感じます。
古い戦前の移住者が『お前達はーー!』『お前のような考えではーー!』『日本人として大和魂が無いー!』などと戦前からの価値感での批判と判断が『移住地に存在し、またその思考での行動』を『下士官的思考』と大宅壮一氏が言った事は有名である。
次回はコルメナの移住地から、パラグワイ各地の日本人移住者達の思考を見て行きたいと思います。

パラグワイ移住地に移住して来た日本人を見ると、フラム移住地などはかなりの移住者が全国から募集されて移民してきました。南は鹿児島県から北は北海道までの移住者が来ていました。特に戦後海外から引き揚げて来た人達がかなりの人数が居ましたが、高知の大正町や広島の沼隈町からの町ぐるみでの移住者はグループによって、考え方に相違があったのを覚えています。
高知の大正町と広島の沼隈町は地理的にまったく異なる地域でした。大正町は山奥の冬の寒い時は3時になると日が暮れて、谷間が暗くなると言う地帯でした。
耕地は少なく、段々畑の積み重なりで耕作して、冬の農閑期は京阪神へ出稼ぎに出る人が多く居ました。私は12月も押し迫った1958年頃に訪ねた事が有りますが、夕暮れの谷間に段々畑を穀zする岩を砕く音が山に響いていました。
まだャoが良く食べられていまして、ャoガキをして食べさせてくれました。囲炉裏の縁でヤカンからお湯を御椀に盛ったャo粉に入れて、練ってお塩を少し入れ、味の良いャoガキ作り、昨夜の残りの大根の煮しめと食べた思い出が有ります。
そのような土地と条件での村落から出てきた人が持つ思考とは、質実剛健、忍耐と先祖伝来の土地と同じ農民の生きる手段の獲得は、そのような根性でなされたと感じますが、増え行く家族と村の人口が戦後、海外からの引き揚げ者などの一時的な増加などでの将来性に不安が出て来て移住して来た人もいました。
狭い戦後のフラム移住地においても、雑多な家族告ャと全国各地からの寄り集まりの移住者は、日本での職業においても雑多な職種を持っていましたので、そこから過去の経験と実績から来る思考の格差は、我々が想像する以上の各種の考えと判断を持って狭い移住地の中で出身者地域、、同じ村落の稲作農家系列、蔬菜栽培、果樹栽培、林業製材などの経験者別での各種の判断と、特に子供達の年齢に左右されて、親の考えが大きく変化した事は、子供達が15歳以上で比較的に言葉を簡単に覚え、農作業などの労力としての家族告ャの堅実な人ほど、パラグワイを真剣に生涯の住家と考えて、思考して努力して明日と将来に賭けた人達が多かったと感じます。
そのような人達は昔の伝統的村落仏教を信じて、精神的にも強固で迷いの無い生活を作り上げていた様に感じます。仏壇を日本より持ち込み、カトリック教パラグワイの伝統的な精神などに、一切に左右されず己の信ずる道を確信し、将来に進んだ農民が最後まで開拓と営農を維持して、現在まで生き残り、子孫を残して現時点においても繁栄と、その維持と拡大をしていると感じます。
フラム移住地において沼隈町からの移住者や、日本での給与所得者として経験がある農民ほど、都会生活または経験者ほど、パラグワイの農業を、住んでいる現時点での、自分がパラグワイの大地の置かれた立場を良く考えていました。
そして、深く現在と将来と、その先の未来の自分達の次ぎの世代をも考えていました。
思考の出身地別の格差から来る精神的思考が、雑多な中で育成され、作り出された考と感じます。
次回はフラム移住地内部の精神的な格差と価値観の基準、そしてその行動手段を考えて行きたいと思っています。

フラム移住地内部の精神的な格差と価値観の基準、そしてその行動手段を 考えて見たいと思いますが、初期フラム移住地の告ャは戦後移住地の典型とした標本となる感じです。
大きく分類すると
1、高知県大正町と広島県沼隈町の分町移住の集団的行動での地域的思考と価値観
2、各県別の県出身者単位での集団的、地域的思考と価値観
3、各出身地地域での市町村落単位での、少数の個人的な仲間関係の地域的思考と価値観
4、家族、親戚、婚姻関係での繋がり的な思考と価値観
5、お隣り近所の隣組的な思考と価値観
6、信仰宗教を同じくする宗教の教義的な思考と価値観
7、以上を総括した集団的農業組合的な地域的思考と価値観
それに子供達が持ち込むパラグワイ的な学校教育とカトリック教などが外側に絡んだ区切られた移住社会に、戦後の移住地内での精神的思考が新しく芽生えてきたと感じます。
雑多な人口告ャと多くの県からの出身地告ャ、戦前の富国強兵愛国忠臣の思想的教育を受けた人、戦後教育を受け、民主主義と現代化する都市生活体験者など職種や年齢など、多くを加味した精神国「はパラグワイでの日本人が新しく築いた精神的な価値観と思います。

フラム移住地での集団的日本人小社会は日本全国を凝縮した感じがします。
出身県、農業形態別、(稲作、蔬菜、林業、その兼業、給与所得者と農業の兼業など)多彩な職業形態も含めて、どこの移住地も大工や鍛冶屋、電気工事、学校の先生、自動車の修理工など色々な方々が移住してきていました。
戦前の満州などでの開拓経験者、樺太での林業経験者、朝鮮などでの農産物取引経験者、南太平洋日本信託領地でのグァム、サイパンなどの出身者、多くの有狽ネ人々が自分の農場を目指して原始林に挑んでいました。
現在、日本の有効耕作面積の38万ヘクタールが耕作放棄され、その面積は東京都の1.7倍の面積と成っている事を考えると、50年で日本が大きく変化した事が感じられます。
1960年当時は日本の食料自給率が75%は維持していて、いざと言う最低量を確保していました。現在は28%程度での自給率となっています。フランスでは現在でも75%の食料自給率となっている事を考えると、日本の今年からの人口減少がスタートした事を考え、これからの日本人の食と言う基本的な生存事項の思考が抜けていると感じます。
当時のフラム移住者の中には沢山金を稼いで、日本に錦を飾ると言う『出稼ぎ根性』の人も居ました。しかしそのような思考は直ぐに『夢幻の夢想』と感じて現実的な転移住と言う考えに変わる人が出て来ました。
コルメナ移住地が日本では考えられないイナゴ大群の襲来を境に、大きく住民の永住思考が変化して、経済的な困窮と合わせてブラジルから来ていた指導移民の家族入植者の脱耕が開始された事を考えると、移住と言う人間が開拓する場所での生活思考変化は、経済的なインパクトが一番多かったと感じます。移住地の精神的な格差と価値観の基準が変化した1960年始めが移住地での思考的な変動が、大きく変わった時期と感じます。
言葉が少し判るようになり、思考的なパラグワイ風土の経験から来る考えが日本的な思考ではこれからの自分の人生、家族のこれからの将来、パラグワイでのこれからの経済的な卵ェから来る不安、全てが狭い日本人社会での日本語での思考を変化させ、破壊して現地化して変革してきたと感じます。
それと同時に移住地が日本の習慣と因襲を持ちながら大きくうねり始めた時期と感じます。

フラム移住地の対象して、パラグワイの移住地別のコルメナ移住地を始めにして、チャベス移住地、ピラポ移住地、ラ・パス移住地、イグワス移住地、アマンバイ移住地、アスンション近郊への蔬菜、養鶏など再転移地それぞれの日本人の総数は僅かな人数ですが、パラグワイ社会に与えた影響はかなりの大きな経済効果、それから来る社会的効果など、日本人移住者を支援した日本政府の融資援助的な影響力は南部パラグワイ地帯においてはかなりの地元に影響が有ったことは目で見ても、地域社会の変化、国「的にも著しい改革と変化の両面での政治、経済、社会的な成長が有った事が分ります。
その総体的な進歩において日本人的な思考の変化も多く感じられ、それが日本人社会においてパラグワイ化した2世達の思考と合わせて、一層に変化して行ったと思われます。その流れの中で、ブラジルに移住した韓国人のパラグワイ移住地における行商を見ていて感じることは、韓国政府の外貨持ち出し制限に対応して当時の韓国人移住者が、祖国韓国の海苔を南米に持参して、換金の為に行商していた彼等が考えていた移住と言う思考を、日本人と比較する良き対象と出来たのは今でも覚えています。かなりの日本語を話す戦前の日本語教育を受けた韓国人が持っていた思考と言う移住者観念は我々日本人が持つ移住の理念とする観念とは、まったくかけ離れていた事の印象が有ります、そのことを示す様に韓国人移住者が直ぐに移住地から消えてしまった事は、理想とするのは農業などではなく、朝鮮戦争後の東西冷戦に朝鮮が置かれた将来を見越して比較的経済的、社会的に余裕のある人が移住して来ていたと感じます。
当時の一般的な日本人移住者のレベルからしたら、思考的には農業とは別の考えで上ではなかったかと感じます。それを裏付けする様に、アルゼンチンのサルタ州に居た時代にボリビア国境の蔬菜栽培を見学に来て、実態を彼等が自分の目で確かめて、彼等が結論した事は、『仲買人を儲けさせるだけだ!』と批判した事は、的を射ており、批判力の適正と正確さを感じた思いが有ります、限られた持参した資金をどの様に活用するか、彼等が農業と言わずあらゆる部門での投資を考えていたと感じます。彼等が直ぐにアルゼンチンのブエノスで始めた事業が当時の韓国の輸出商品であった繊維製品で、セーターなどの比較的高価で、競争力が限定されていた商品を作り始めて、たちままちブエノス市場制覇したことは農業投資では無く資金の有効利用と短期での回収に成功したと感じます。アルゼンチン、1960年初頭では280名ほどの政府統計での移住者総数からしたら、現在のブエノスとパラグワイのアスンション近郊からした韓国人の移住者総数を見て、日本人の移住者が1980年頃に始ったバブル経済での日本出稼ぎの衝撃も加味して、大きな差が出て
来たと感じます。これらの韓国人の思考的な比較と合わせて見て、日本人のフラム移住地での集団的日本人小社会は日本全国を凝縮した感じがしますが、そこには農業に集中して、そこで破綻と失敗からの思考から始った移住者の再思考が次ぎの時代と将来を考えた源と感じます。





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