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神戸高校の級友 角 興三さんの自分史エッセイに書かれた神戸高校時代。
姫路駅から姫新線で西北西に走った津山近くの田舎町林野から越境入学で神戸高校に進学した角興三君が、【自分史エッセイ】をHPを開設し毎月更新を続けておられます。
我が多感な青春の一時期に級友の永田君と一緒に彼の郷里を訪問したとの記述もあり、懐かしい思い出です。記憶抜群、高校受験時代から当時の神戸高校での生活を活写している彼のHPの【高校受験】、【地獄坂の風景】、【鬼とハナヨと猿田彦神】の3編を彼の好意で収録させて貰うことにしました。
大阪から神戸に近づくと六甲の山並に今も聳えて見える神戸高校の校舎は、帰郷時に何度か訪問しましたが青春の思い出が詰まっている懐かしい場所です。興三さんの記述を読みながら暫し往時を偲びました。神戸高校、早稲田と日本で過ごした学生時代は、何時まで経っても忘れ得ないものとして私の中に生き続けています。
写真は、角さんのHPよりお借りしたもので、10円硬貨に刻印された世界遺産「宇治の平等院」で撮影されたものです。


27)高校受験
 驚いたことに、転入先の御影中学校での授業はまだ二学期だというのに三年の課題をほぼ終えて、受験準備に入っていた。林野ではまだ習っていない課題がここでは既に終了していた。 数学では初級因数分解やピタゴラスの定理、英語では関係副詞、不定詞、分子黒カ、動名詞などで、その名称さえ知らなかった。
 「やっちゅもねー」
と思わずつぶやいた。自信など端から無かったが落ち込むことも無かった。生来、深刻に考えない性質であったのだろう。9月末の実力試験は惨めな結果であった。学年で47番だったかと思う。近所に住む大西君が自宅に招いて参考書や問題集を紹介してくれた。早速それらを買い求め毎日それに埋没した。林野で三年の一学期に多少は机に向かったが、今回は生まれて初めて自主的な勉強であった。
 二学期の終わり頃にクラスで白鶴美術館へ遠足をした。“白鶴”は灘五郷の一つ、御影で生まれた銘酒である。17世紀半ばから本格化した灘の酒造りは18世紀後半になって急成長する。海運の便も得て大消費地江戸への主要供給の地位を得る。明治の初期当主、嘉納次郎作が家業を発展させる。その義弟、七代目治兵衛が昭和九年(1934)に白鶴美術館を設立した。特に中国と日本の古美術の収集で名高い。なお、次郎作の三男嘉納治五郎は講道館の創始者であり、私立旧制灘中学校の初代校長としても知られている。
 御影中学校は阪神御影駅のすぐ北にあった。そこから北へ列をなして歩いた。国道2号線を横断しさらにJRの踏み切りを渡ると、この辺りから風格のある住宅が多くなる。御影は芦屋とならび阪神間の高級住宅地として知られている。芦屋は浜側にも高級別荘が多いのに対し、御影は山手に偏在し各戸の規模はこちらの方が大きい。静寂な高級住宅街を通り阪急電車のガードを潜ると坂道は次第に険しくなる。狭い街路をうっそうとした木立が覆い、歩道から見えるのは大きな岩を重ねた石垣の塀だけである。その向こうに建っているはずの大邸宅は樫や杉の木々に隠れている。一つひとつの邸宅がお城のような超高級住宅の側を歩きながら、興三さんは
 「大きくなったら、こんな家に住みたいなあー」
と思った。それがどんなに野望で高望みかとは思いもしなかった。その夢の家は年を重ねるに従い少しずつ萎(しぼ)んでゆき、悲いかな今は小さなマンションの片隅で、パャRンに向かっている。人生なかなか思うようにはいかない。
 三学期に入ってからの実力試験で30番台、その次が20番台で最後が12番であったかと記憶する。目指す高校が有るわけではなく、近くの御影高校に進学するものと漠然と思っていた。最後の実力試験が終わった時、村田先生が神戸高校を受験するように勧めてくれた。戦前は神戸一中と呼ばれ今も県下一の進学校と聞かされた。灘高校など私立高校が興隆し公立高校の衰退が始まるのは、この数年後からである。叔父は喜んだが、
 「落ちたら困るなあー」
と興三さんは思った。結局、先生の勧めに従うことにした。御影中学校は半年足らずの腰掛生活に過ぎなかったが、先生にも友人にも恵まれ実り多い半年であった。卒業式を新築の体育館で迎える幸運にも巡り会えた。
 広い校庭から見上げる黒く大きな校舎の威容に圧倒された以外には、受験当日の記憶は乏しい。どの位が合格ラインかとも分からぬまま神戸高校を受験した。発浮フ当日、友人たちと一緒に神戸高校に出かけた。多くの港町と同様に神戸もまた坂道が多い。摩耶六甲連山を背に瀬戸内海に面し東西に長い。神戸高校は摩耶山の麓にあり、阪急線の王子動物園前駅で下車して真っ直ぐな坂道を半キロほど登るとバス道と交差し神戸高校前のバス停がある。そこから坂道はさらに急勾配となる。最後の200メートルを地獄坂と呼んだ。夏には汗にまみれ、冬には六甲下ろしの向かい風に吹かれながら、三年間毎日坂道を登った。正面に大きな正門があるが、途中の右手に副門がある。これは神戸一中時代の正門を移築した由緒あるもので、鵬門と呼んでいた。その鵬門を右にくぐると眼前に校庭が広がる。この広いグランドの隅に合格者の名前が掲示されていた。幸いにも興三さんの名前が600余名の中にあった。一緒に来た友人たちと喜び合った。
 校庭の南側は高い石崖に支えられ、眼下に神戸の市街、工場群や神戸港が広がり晴れた日には大阪湾の南端、和歌山県との県境近くの“友が島”まで見渡せた。校庭の山側にはコンクリートの階段があり、運動会やスポーツ大会ではアルプス式の観客席になった。その階段を登りきったところに四階建の校舎が威容を誇っている。全生徒1800余人の教室を始め分野別の特別教室、職員室、講堂、食堂などの諸施設を収容する大校舎である。田舎の木造校舎の比ではない。その校舎の西端には洋式の城郭がひときわ高くそびえ、“ロンドン塔”と呼ばれていた。昭和13年(1938)に建設された当時にはベージュ色であったが、戦時中に空爆を避ける目的で黒色に塗られたそうである。戦時下に林野の民家や土蔵の白壁を煤墨で黒く塗った日を思い出した。この校舎は興三さんが卒業後に元のベージュ色に塗り替えられ、平成14年(2002)には全面的に建て替えられた。東半分が5階建築と一階分高くなった以外は、ほぼ以前と同じ外観で思い出の“ロンドン塔”もかつてと同様に、摩耶山の山腹にそびえている。春休みのある日、全員登校し英語、数学、国語の三科目だけの実力試験を受けた。試験問題は難しくチンプンカンプンの難問もあった。経験したことの無い惨敗を感じた。春休みに久しぶりに林野に帰った。家族や幼友達が名門校への合格を祝福してくれた。
  “桃酒甘く父と交わしし初帰省”
これは大学に入学した年の夏休みに帰省して、父とビールで乾杯した日に、高校入学の春を思い出して作った俳句である。父は嬉しそうに褒めてくれた。
 入学式の日に阪急六甲道から神戸高校前までバスに乗った。今日だけは特別にバス通学である。興三さんは吊り革を持って立っていたが、眼前の座席で制服姿の娘と着物姿の母が楽しそうに談笑していた。良家の子女を感じさせ、田舎では出くわすことのない華やかな光景である。セーラー服の襟(えり)の周りは黒い二本の紐状ブレードで縁取られ、スカートの裾(すそ)も光沢のある黒いブレードで飾られている。胸には黄色の小さなバッチが揺れていた。一年が黄色、二年が赤、三年が青で三年間同じ色分けである。男子生徒の襟章も同じ色分けで、神戸の中高生には憧れの制服姿であった。その女生徒とはある年に同じクラスになり、ほのかなときめきを感じた。しかし真面目な大学受験生にはそれだけのことで終わった。恋心といえば、林野での最後の試験で興三さんの上位であったS嬢に関心をいだき、御影中学に転校後に林野から手紙をくれた女性もいたが、バスに同乗したこの女性が最も惹かれた女性であったかと思う。そう言えば、小学一年生の担任の杉山先生に似た印象であった。

28)地獄坂の風景
 通学は近所の中島君と一緒であった。毎日出迎えてくれるが、興三さんは朝寝坊をしてしばしば門前で待ってもらった。また試験の前夜遅く自宅に押しかけて数学を教わった。父親が外国航路の船長であったので、中学時代からテンマ君と学友から慕われていた。伝馬船の略称であろう。温厚な人柄でいやな顔一つせず付き合ってくれた。今もたまたま同じ市内に住み、時折のカラオケを誘い合っている。クラス分けで数学の池本先生の二組となった。色白で大柄の先生であった。学生自治会の先輩男女2人がクラス担当として学内規則や施設を紹介し、高校生活の心高ヲなどを指導してくれた。男性先輩の記憶は乏しいが、女性先輩は端正な顔立ちと落ち着いた語り口が印象に残っている。“オリエンテーション”は初めて耳にする英語であった。辞書を引くと新入生や新入社員に対して行う“適応指導”と書かれていた。また朝の校庭での集会を“アッセンブリー”と呼んだ。これらの外来語はポット出の田舎者には新鮮で、伝統ある神戸高校に入学出来たのだと実感した。
 クラス全員が一人ずつ自己紹介をする時間もあった。最初に立ったA君はクラシックが趣味でモーツアルトについての薀蓄(うんちく)を述べた。続いてデキシーランドジャッズ、西洋映画などの趣味を披露する生徒、漱石や龍之介など日本文学の巨匠への見識を語る者、シートン動物記や西洋文学の読後感想を述べる者、囲碁の面白さを強調し、ボーイスカウト活動の楽しさを述べる生徒など、林野での経験とは異質の世界に驚いた。興三さんは岡山県北の林野から出てきて間がないことや、田舎での渾名は“マンモス”で、御影中学に転校してからは“白猿(しろざる)”と呼ばれたことなどを悪びれることもなく話した。休憩時間に
 「僕は戦時中に岡山県の周佐(すさい)に疎開していた」
と池上君が話しかけて来た。周佐は林野から岡山へのバス路線沿いの田舎町である。興三さんは親しみを感じ、その後何かと話し相手になってもらった。彼は誠実で良識のある人柄であった。東大法学部から自治省に入局し環境庁を経て、現在は弁護士を開業する傍ら摩耶六甲連山の美観と環境の保全に尽力している。梶君も林野の近くに疎開していたそうである。隣の江見駅から武蔵の里へのバス道にある五名という村であった。彼は高分子物理が専門の京大名誉教授となった。趣味のサンスクリット語(梵語)の研究から、これを日本語のルーツと考えるに至り、退官後はその検証に日夜研究を重ね既に二文を公浮オている。興三さんは日本人のルーツに興味があり、何時の日にか、彼にこの「自分史エッセイ」で誌上講義をお願いしたいと期待している。
 高校生活に少し慣れた4月末のある日、春休みに受けた実力試験の成績が発浮ウれた。数学が200番台の前半、国語が200番台の後半、英語に至っては400番台と低位で、三科目の総合が300番近くであった。覚悟はしていたが、現実に順位浮突きつけられると惨めであった。それでも冷静に考えると1番もいれば600番もいるはずで驚くに当たらない。泥縄式に問題集に取り組み、手っ取り早く理科や社会や音楽図工で点を稼いで合格した側面もある。当時学区内に何校中学校があったか知らないが、仮に25校として単純に計算すると、1校当たり24番目までが神戸高校へ入れた計算となる。中学最後の実力テストが12番であったのだから、丁度真ん中くらいで妥当な順位である。
 「自分の実力からすると、こんなものかなあー」
と思い納得した。その日、池本先生が
 「これから諸君は頑張って欲しい。定期試験で60点以下は不合格で落第もある。特に半分以下の生徒は要注意だ」
と言って脅すように叱咤(しった)激励した。林野から送り出してくれた両親の顔が浮かんだ。その日から興三さんは真面目一途の生徒に変貌した。というより必死で全教科60点を目指す、受験目的からは要領の悪い生徒として3年間を過ごすことになる。しかし、楽天性のお陰でいじけることも惨めと感じることも無く、それなりに楽しい高校生活を送った。
 神戸高校は戦後の新教育制度で昭和23年(1948)に、戦前の神戸一中と県一高女が合併して発足した。当然の結果として神戸高校は県下一の受験校として知られる一方、男女共学を旨とし男女比の目標を六対四程度としていた。 
 “ロンドン塔”の名が示す通り、神戸一中は英国のパブリックスクール、イートン校の紳士教育を目指した。加えて、日本最初のジャズ、ゴルフ、ハイキングコースの発祥地、ハイカラ神戸の影響を受けている。それらの伝統を引き継ぎ「質実・剛健・自重・自治」の四綱領のもと、高山忠雄初代校長が文武両道を目指していた。
 「女性も大学を目指しなさい。結婚し家庭を守ることだけが貴女たちの人生ではない」
と教える先生も少なくなかった。今、卒業写真を開くとクラブ活動が50種類もある。運動部ではサッカー、ラグビー、バトミントン、野球、硬・軟式のテニス、男女バレーボール、男女バスケット、剣道、柔道、水泳、ボート、山岳、陸上競技、機械体操など合計20部を数え馬術部まであった。サッカーは全国のトップレベルで、他にインターハイ(全国高校総合体育大会)に出場のクラブも多くあった。馬に乗った関君の雄姿を印象深く思い出す。彼は長身で運動会ではいつも最前列で組み体操のオウギやピラミッドなど興三さんの仲間であった。卒業以来ずっと同期会の世話役をし、今は神戸高校同窓会の事務局長として活躍している。
 文化部では合唱、吹奏、美術、文芸、演劇、地学、化学、生物、物理、工学、社会、茶道,華道、書道、筝曲、弦楽、写真、弁論、速記、放送、新聞、図書、ESS、ドイツ語、海事研究、海外文通など30の部や研究会を数える。学校が「文武両道」を目指せば、生徒も多士済々であったことを窺(うかが)わす。当時、合唱部は柳井先生の指導のもと全国優勝を成し遂げるなど入賞の常連校であった。一学期の終わりに歌う試験があった。柳井先生が弾くピアノの両側に生徒が一人ずつ立って、“帰れャ激塔g”を歌った。数日後、合唱部の上級生が来て入部を勧めた。思わぬ誘いに驚き嬉しくもあったが、迷った末に入部を断った。“落第”の二文字に呪縛されていたし、入部すると何かと物入りになろうと危惧した。田舎から勉強に出してもらっているとの気持ちが強かった。しかし、だからと言って猛勉強に明け暮れる体力も根性もなく、ただ真面目に通学しているだけの生徒であった。もし後年に事件でも起こせば
 「真面目で目立たない、ごく普通の生徒でした」
と学友の談話が紙面に載る程度の平凡な生徒であったと思う。冬の10キロロードマラャ唐ノは泣かされた。男子生徒は全員参加しなければならない。やっと学校近くまで帰り着いても、あの地獄坂が待ち受けている。加えて女生徒が道の両脇で応援している。歩くわけにはいかない。戦前戦中に行われていた“一中と二中の対抗試合”の伝統を引き継ぎ、神戸高校と兵庫高校の対抗試合があった。早慶戦の高校版である。春は野球の、冬はラグビーの対抗試合に全校生で応援に出かけた。伝統と言えば、一中時代には臨戦態勢の教練として、全生徒が校庭で弁当を立って食べていた名残が、興三さんの頃には2時間目と3時間目の休憩時間に弁当を立ち食いする風習として残っていた。

29)鬼とハナヨと猿田彦神
 松本君に誘われて御影の自宅に遊びに行った。スレート葺きの三角屋根の下に飾り窓があるクラシックな木造の洋館であった。屋内には絨毯が敷かれ、大きな応接セットやガラス書棚に洋式の暖炉もあった。初めて見る洋間に目を見張った。
 「ここからサンタクロースが来るのだなあー」
と西洋の童話を思い出し、将来の我が家に思いをめぐらした。一学期の終わりごろ担任の池本先生が数学の問題40題をガリ版刷したワラ半紙を配り
 「君たちは何問解くか自己錐垂オなさい」
と言って夏休みの宿題を出した。訳の分からぬまま皆に習って20題を錐垂オた。しかし、林野に帰っていざ机に向かって驚いた。一問とて解ける問題がない。教科書や参考書のページをあちこちめくり類似問題を探し、ああでもないこうでもないと、問題をいじくり廻し必死で考え、夏休みのほぼ40日をこの問題と格闘した。しかし努力の甲斐もなく結局10題も解けなかった。夏休みが明けると宿題に真面目に取り組んだ生徒は多くなく、まして錐瑞狽フ問題を解いたのは限られた人数の秀才に過ぎなかった。考え抜いたのが多少は役に立ったかも知れないが、あれだけのエネルギーを数学の問題集や英語の参考書に投じれば、少しは遅れを取り戻せたであろう。大切な一学年の最初の夏休みを無為に過ごしたと悔やまれた。付け焼刃で名門高校に入学はできたものの、参考書の選択や勉強の仕方が充分身についていなかったようである。加えて“落第”の二文字に呪われ、宿題に追われる要領の悪い高校生であったと思う。
 二年生の担任は日本史の野村先生であった。昭和31年(1956) 、神武景気が最高潮に達し、“もはや戦後ではない”と経済白書は報告した。高度経済成長の幕開けである。その年の秋に、永田君と和田君を故郷の林野と津山へ誘った。姫路で姫新線に乗り換えたまでは良いが、誤って新宮駅止まりの列車に乗り込んで途中下車を強いられた。次の列車を待つ小一時間を利用して近くの小山に登った。いまもアルバムの隅に小さな思い出として残っている。この和田君は早稲田大学三回生の1962年に休学して第12次航の“あるぜんちな丸”でブラジルに渡り、65年の卒業と同時に移民を決意した。新天地を求めたのであろうか、理由は聞き漏らした。今は地域社会のリーダー的存在として活躍しているようである。永田君は3年間同クラスになった唯一の学友である。彼は関西学院大学の経済学部を卒業し松下電器に就職した。小柄な茶目っ気たっぷりの人柄であった。どこにそんな体力や根性が潜んでいたのか、今はあちこちの市民マラャ唐ノ参加し、定年後の生活を楽しんでいる。人は見かけによらぬものである。先年会った時には、
 「ミーハーを自認し、他人に迷惑をかけぬ範囲で何でもするねん」
と元気一杯で、阪神タイガースの応援にも余念がない。興三さんは含蓄のある言葉と感じ、退職後の人生指針として、この言葉を頂戴することにした。「自分史エッセイ」のホームページ掲載を後押した一言である。

古文の時間に古事記を習っているとき、天孫降臨の巻でニニギノミコトが高天原(たかまがはら)から下りて来る時、猿田毘古神(さるたひこのかみ)(猿田彦神)が先導した、という興味ある文章に出会った。これを読んだ時に目から鱗が落ちたように
 「これだ!」
と、林野の秋祭りで登場するハナヨを思い出した。林野神社の御輿とハナヨの道行は、このニニギノミコトと先導役猿田彦の故事に由来するに違いないと気が付いた。猿田彦、名前からして赤ら顔で天狗にそっくりのイメージではないか。
 天孫降臨神話に興味をもった興三さんはその後、多少知識を蓄えることになる。天照大神(あまてらすおおみかみ)は平定した高天原に息子の天忍穂耳命(あめのおしおみみのみこと)を統治者として下降さすことを決めるが、その準備中に生まれたのが爾爾芸命(ににぎのみこと)である。そこで、この幼子(おさなご)に三つの宝物を持たせて代理として遣わすことになる。歴代天皇が皇位の象徴として受け継ぐ八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三種の神器である。ニニギノミコトこと天孫(あまみま)は文字通り「天(てん)の孫(まご)」なのである。後世、神社の祭礼に選ばれて奉仕する稚児は、この嬰児神の名残であろう。また東大寺の伎神楽や宮崎の高千穂神楽には署博槊神面に混じり「治道」がいる。彼は伎楽行列の先頭を歩く露払い役で、鼻が高く胡人の相貌をしている。胡人とは中国の西方、シルクロード沿道の西アジアの人々、狭義ではペルシャ人を指す言葉である。

 古事記の話をいま少し続ける。天孫が天から降りる途中(降臨)、天地を照らす不思議な神を見て、アメノウズメノミコトに命じて誰何(すいか)させたところ
 「自分は国つ神の猿田毘古神で、天孫の先導としてお仕えするためにお迎えに参りました」
と、猿田彦は答える。 歴史家はこの話を、伊勢の国(中央)が高千穂の国(地方)を平定したことと解釈する。ならば高千穂に住んでいた人たちは猿田彦の様な種族であったのか。話は飛躍するが、日本の昔話にはしばしば鬼が登場する。この鬼たちは村人をいじめるが、悪辣非道ではなく多少お人好しのようでもある。そしてこの鬼たちは最後には退治されてしまうのが、多くの民話の筋書きである。桃太郎の鬼退治がその典型である。この鬼と猿田彦と天狗は同種族の人々であろうか。否、興三さんの考えは少し違う。鬼と天狗は似形異種で、源流を異にする。平たく言えば、日本列島の先住民族である縄文人が鬼であり、後に大陸からやって来た人々が弥生人で村人である。そして  「絹の道」を通り西域の古代ペルシャ辺りから、はるばる日本にやってきた少数の特殊技博メこそ、胡人、即ち“治道”でハナヨの原型であると信じる。彼らは日本の翡翠(ひすい)、金銀、あるいは長寿薬を求めて西域、中国、日本を結ぶ古代交易ルートを開拓した。ユーラシア大陸を横断するシルクロードである。大陸から渡来の人たち(弥生人)を道案内して日本列島にやって来たのが胡人、即ち“治道”である、と興三さんは古代に思いをめぐらせている。秦の始皇帝をはぐらかし大陸を後にした渡来人達の長(おさ)、徐福を案内したのはその一人かも知れない。胡人たちは容貌が天狗に似ているだけでなく、猿田彦が天地を照らす「不思議な神」であったとの古事記の記述がそれを如実に物語っている。まさにアラビアンナイトのアラジンの魔法のランプにも繋がるロマンのある話ではありませんか。

 ある日、神戸は元町の本屋で「古典語典」なる本に偶然出あった。呉越同舟、四面楚歌、羊頭狗肉といった日本語化した漢語の由来を一つずつ楽しく説明した辞典風の本である。著者は渡辺紳一郎で挿絵を清水昆が描いていた。渡辺紳一郎は1946年にNHKラジオ放送で始まった日本で最初のクイズ番組「話の泉」のレギュラー回答者である。その博識と洒脱ぶりがつとに知られている。丁度、漢文を習っていたので購入した。中国への関心を高めてくれた一冊である。この本はヒットし、続編として西洋古典語典、日本古典語典、舶来語古典語典とシリーズ物が東峰書院から出版された。今も興三さんの書棚の隅で静かに呼吸している。並の生徒ではあったが勉強を嫌だと感じることもなく学校生活は楽しく、印象深い授業や先生は多い。自分的には数学(当時は解析T、U)が得手であった。問題を読み解答の方向が決まれば、後は単なる手作業の計算で結国ァ抜きができる。ところが英語などの暗記物はそうはいかない。集中力の継続と反復練習が必要である。思考して解を引き出すことには熱心であったが、反復練習は苦手であった。幼少時からの性分であろう。DJ、デスクジョッキーというハイカラな番組はまだ無い時代である。ラジオの古典落語や流行歌を聞きながら数学を解いた。春日八郎の「別れの一本杉」、三橋美智也の「りんご村から」、島倉千代子の「からたち日記」、青木光一の「柿の木坂の家」などの所謂、“大人の童謡”とか“ふるさと演歌”に続き、フランク永井の「有楽町で会いましょう」など都会派ムード歌謡が流行り始めた頃である。お陰でこの頃の流行歌は全て諳んじているので、今でもカラオケに誘われて持ち歌に苦労することはない。

 



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