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「支倉常長に関する雑学的データ」を読んで by 横内 正毅
「海外派遣の先駆者 支倉常長」を横内 正毅さんが書かれそれを読まれた富田真三先輩が「支倉常長に関する雑学的データ」を書かれています。それを読まれた横内 正毅さんのコメントが送られてきました。
『富田先輩の「支倉常長に関する雑学的データ」について和田さんのコメントの中で、遺欧使節は日本の移住史の始まりとして歴史に残ると言われましたが、「派遣」と「移住」の二つのケースとして歴史に残る事例ではないでしょうか。 主君伊達政宗の命を最後まで守り、家臣としての忠義を尽くして、7年と言う歳月を経て帰国した支倉常長は、いわば現代の企業や国からの海外派遣の原型であり、信仰に目覚め,人間として生きる為に、武士を捨てて現地に残った人たちは、それぞれの決断で人生を選択した、いわば近世の海外移住の原型ではないでしょうか。』の横内さんの定義には諸手を挙げて賛同したいです。
写真は、今年4月訪日時に早稲田の移住研OB連中に集まって貰った時に撮らせて貰ったものです。


富田真三先輩の「支倉常長に関する雑学的データ」を拝読させて頂きました。
 拙稿の「海外派遣の先駆者 支倉常長」をご覧頂き、大変光栄です。又、慶長遺欧使節について、ポイントごとのデータは、大変興味深いもので、新たな探究心が湧いてきます。  同時に彼の理解者が遠くメキシコにもおられる事を知り、大変心強く思いました。
 さて、その慶長遺欧使節について、作家の阿川弘之氏が「文芸春秋11月号」の中で「人の来ない港の教会」と言うタイトルで、書いておられます。 既にご覧になっているかも知れませんが、以下原文より一部抜粋して紹介いたします。
『ローマ北郊のチビタベッキアは、日本にとってゆかりの深い港町なのに、そのことを知ってイタリアを訪ねる日本人観光客は殆どいないらしい。どんな御縁かと言うと、古くは凡そ四百年昔、教皇パウルス5世に謁見する為、ローマへ向う慶長遺欧使節支倉常長達一行が船を下りた港、それがチビタベッキアであった。 新しくは20世紀中葉、この町の修道院聖堂に、カャ潟bクの日本画家長谷川路可が大きな壁画を描き残している。 長崎で庶嚔ヒにかけられた26聖人殉教記念の壁画だそうで、機会があれば一度見に行きたいと思っていた。年来の望みを果たす事が出来て、以下は当日の見聞録感想録である。
=£略=

 慶長諸ェ年(1613)伊達政宗の命を受け、家臣常長がメキシコ経由ヨーロッパへむけて船出したのは、石巻東方牡鹿半島の月の浦、現在チビタベッキアと姉妹都市の契りを結んでいる石巻は、我が師、志賀直哉の生地だし、支倉常長や長崎の26聖人は我が友、遠藤周作の執筆対象だったし、遠い異国の小さな港町で、しみじみ人の絆の不思議さを感じさせられた。

=後略==x
 徳川家康、伊達政宗の歴史小説には、必ず出てくる「慶長遣欧使節」。 一般には、その目的や渡航中の話、或いは支倉常長の実像も殆ど知られていないのが実情だろうと思います。 かく言う私自身もその1人であったのですが、江戸時代の初頭、武士の一行がメキシコ、キューバ、スペイン、ローマを歴訪し、各地で足跡を残したと言う事実を多くの日本人に知って欲しいと思います。 ローマ観光では、ガイドが彼らの足跡に言及する事は殆ど無く、多くの日本人が、その足跡を知る事無く通過してしまうのは、なんとも残念な事です。
ローマ市の中央を流れるテレベ川沿いに立つサンタンジェロ(聖天使)城は、オペラ「トスカ」の最後の名場面として有名ですが、その城門からバチカンのサンピエトロ広場に向う大通りは、今も中世のままで、ローマ観光のハイライトであり、多くの日本人が一度は通る道です。 ローマ入市式が行われた390年前(正式には1615年10月29日)、その同じ道をローマ市民の大歓呼の声に迎えられ、支倉常長一行が侍姿の正装で行進し、パウロ5世に謁見した事実を思う時、現代に置き換えても、それだけの偉業を成し得るだろうかと感動を覚えます。
 私のイタリア勤務時代の1992年、天皇・皇后両陛下がイタリアを公式訪問されたおり、ローマの大統領府で園遊会が催されました。 大統領府は、クリナーレ宮と呼ばれたかっての王宮で、この王宮の「王の間」で支倉常長はパウロ5世と最初の謁見を果たしました。この王宮の内部には支倉常長の肖像画があるそうですから、両陛下もその肖像画をご覧になった事でしょう。
支倉常長一行のローマ滞在中の世話は、ローマの名門貴族のボルゲーゼ枢機卿が受持った事が詳細に記録されています。 謁見したパウロ5世もボルゲーゼ家の出身との事ですから、謁見がかなったのも、ボルゲーゼ枢機卿の力添えが大きく働いた事が推察されます。
因みに、カトリックの総本山たる聖ピエトロ聖堂の大円蓋が一世紀を越す大建設事業の末、現在の形を整えたのはパウロ5世の時世になる1614年です。 支倉常長一行がバチカンを正式訪問したのは、1615年ですから、聖ピエトロ大聖堂の大円蓋を見た最初の日本人と言う事になるでしょう。 富田先輩の「支倉常長に関する雑学的データ」について和田さんのコメントの中で、遺欧使節は日本の移住史の始まりとして歴史に残ると言われましたが、「派遣」と「移住」の二つのケースとして歴史に残る事例ではないでしょうか。 主君伊達政宗の命を最後まで守り、家臣としての忠義を尽くして、7年と言う歳月を経て帰国した支倉常長は、いわば現代の企業や国からの海外派遣の原型であり、信仰に目覚め,人間として生きる為に、武士を捨てて現地に残った人たちは、それぞれの決断で人生を選択した、いわば近世の海外移住の原型ではないでしょうか。
 遺欧使節団の数名が、現地に残って永住した町とされるスペインのコリア・デル・リオには今年6月に菅間氏が訪れ、スペイン・ハポン支倉常長顕彰会の会長、Manuel Virginio Cardajal Japon氏にホテルで偶然出会い、親しく交歓したとの事。又8月には吉村氏も旅行でこの町を訪れ、常長の銅像に面会したそうで、お二人から直接、現地の様子を聞く事が出来ました。 メキシコでも、一行の相当数の人が洗礼を受けたと記録されていますが、現地に留まった人がいるのかどうか、これも興味あるところです。富田先輩のデータの第二弾を期待しておりますので、宜しくお願い致します。 
                                                       以上




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