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25年=交流協会生=コロニアと共に 渾身の力を込めて書かれた研修生南部サヤカ記者のニッケイ新聞連載記事。その3他
南部サヤカさんの研修先ニッケイ新聞の連載第15回と16回です。
スペースがありますので関連記事としてニッケイ新聞及びサンパウロ新聞に記載された日本ブラジル交流協会の『感謝の集い』関係記事を一緒にUPして置きます。
日伯交流協会=「感謝の集い」開催=堀坂理事が来伯し謝辞(ニッケイ新聞)
日伯交流協会=派遣事業いったん幕ひく=748人が両国のかけ橋に=軸足を伯側に来年復活か(ニッケイ新聞)
4半世紀の協力支援ありがとう 有為な人材育成に貢献 幕を下ろした日伯交流協会感謝の集い(サンパウロ新聞)
写真は、『感謝の集い』当日配布された【夢のかけ橋】です。


25年=交流協会生コロニアと共に=25期編5 =連載(15)=〃伯国での父親〃の生き方=畠山さん=「人生にとって大切」と学んだ
2006年3月16日(木)
 伯国での父親=Bポンペイア西村農工学校の西村俊治さん、高野書店の高野泰久さん。「私の留学経験で貴重だったのは、単にブラジルでの生活体験ではなく、これからの人生にとって大切にすべきものを学べたこと。うまく言葉では浮ケないけど……」。畠山一宏さん(41、福岡県在住)は第五期生(一九八五年度)として研修をした。二諸N経った今でも記憶の中に鮮明に残っているもの。それは、両氏の生き様や人柄に多く接する機会に恵まれた中にある。
 西村さんが引き受けた最初の研修生。畠山さんが、ポンペイアに着いた日、朝四時半ごろバスターミナルで待っていたのは、当時七曙ワ歳になる西村さん本人だった。自らの運転で研修先の農工学校まで案内した。「その車中で、学校建設、事業に対する思いと、私を日本人だからといって特別扱いしない旨を告げられた。その時、西村先生の穏やかな撫槊なかにある鋭い眼光は、厳しさと学校の事業に賭ける強い信念というものを感じさせた」。
 藷月、同校の卒業式。授業が終わり何もすることがなくなった。以前から高野さんのもとでも、研修したいという思いもあったため、残りのブラジル生活を高野書店で過ごすことになった。「集まってくる方々との交流の場となっていて、その場面で高野さんの温かさを実感した。新しく知り合った方々と飲み交わすピンガが最高にうまかった」。そう思い出す。
 「皆からは、厳しさのあまり逃げ出した〃脱走兵〃だと言われたけど」。この話は今でも協会での語り草となっている。
 「こんりんざい、日本の若者は引き受けない」。畠山さんのとった行動に、西村さんはそう決めた。だが、訪日した時のこと。空港で待っていたのは畠山さんだった。滞在中、ずっと荷物持ちをした。研修先を変えた、せめてもの償いだった。
 帰国後、高野さんにこう話している。「垂オ訳なかった。これでまた、日本の若者を見直したよ」。以後、西村さんは現在まで曙ワ人の研修生を引き受けてきた。
 両「父親」とは、今でも日伯間で手紙のやりとりを絶やしたことはない。
    ◎
 「君たちがこの研修中に身につけた一番好きなポルトガル語を一語、この場で語ってもらいたい」。二庶l期生(二〇〇四年度)の帰国謝恩会で高野さんが出した「お願い」である。「あの時の一瞬の戸惑い、緊張した研修生たちの顔が忘れられない」。
 気がつけば「交流学生症候群」と名づけたい不治の病にかかってしまっている、という高野さんの一語はいまやコロニア語とも言える「NIPPAKUのKENSHUUSSEI」=B
 高野さんの「移民としての生き方」に大きな指針を与えた故・斉藤広志さんと、故・田尻鉄也さん。「何かの形でご恩返しをしなければ……」。そう思いつつもその日が来ないまま両氏はブラジルの土になった。「斉藤さんが創始した交流協会。『百年の計には人を植えよ』の理念にお手伝いさせていただくことで、すこしでも教えに応えられるのであれば」。第五期生(一九八五年度)から協会生を引き受けることになった。
(つづく、南部サヤカ記者)

25年=交流協会生コロニアと共に=25期編6=連載(終)=次期26期生受入れよう=藤本さん=「OBとして絶やすものか」
2006年3月17日(金)
 高野書店の高野泰久さんが引き受けた学生のうち庶オ人は、あしなが育英会の交通・災害遺児。「彼らの父親代わりになれるだけの資格もなく、人生経験に乏しい身であるが、日常生活をともにしながら交わす言葉など、これからの長い人生のどこかで思い当たってほしい」。そんな願いを込めての処黹阜獅フ研修だ。
 両国若者との接点をつくりたい=B日系ブラジル人学生約百五署lで組織する医療・保険衛生向上のための慈善団体「ABEUNI」への参加を始めた。協会生とブラジル人学生の交流。これも一つの研修の成果となっている。
 グアルーリョス空港。まもなく帰国する研修生たちを毎年見送る。その胸中は第五期生(一九八五年)帰国の時以来、繰り返してきているひと言のみ。「処黹阜獅烽フ下見研修おつかれさん。君たちの言うニッパクとは今、ブラジルから飛び立つこの離陸の瞬間から始まるんだよ」。
     ◎
 去年三月にブラジル事務局に赴任した藤本明司事務局長(40、宮崎県出身)。半年もたたないうちに「派遣事業一時停止」の報を聞いた。この一年は、研修生の世話をしつつ、この問題に頭を抱えた。
 「ブラジルは好きではないけど」と、来伯五度目になる藤本事務局長は言う。同期で親友の神戸保さん夫妻が協会を手伝っていた。「一生懸命やっているのを見たから手伝おうと思った」。研修が終わり、帰国後しばらくは、日本社会で勤務。辞職後、ブラジルへ旅行のつもりが「神戸が困ってるみたいだったから手伝ってた」。本格的に協会に関わり始めたのは暑繩生(一九九九年度)の第二回合宿から。
 第六期生(一九八六年度)として日伯毎日新聞社で研修。「男一匹」と敬意を込めてよぶ一百野(いおの)勇吉さんとの出会いがあった。当時編集長を務めていた。「幻のジャーナリスト。もうこの人がすっごいかっこいいのよ。男とはどういうものかを教わった」。帰国時は「藤本、さらばー!」と涙を流しながら見送ってくれたというエピメ[ドも。彼のことを話しだすと止まらない。九一年に他界。藤本事務局長にとって、その後の人生を左右するほどの大きな出会いだった。
 二〇〇七年度の派遣事業開始に向けて、日系社会への派遣中止にいたるまでの説明、日本とのやりとり……。寝る間を惜しんで、協会存続に向けて尽力した。
 「人生をかけてやっている」。OBとして、二曙ワ年の歴史・伝統を踏襲しつつ次期二序Z期生を受け入れるため、準備に励んでいる。
     ◎
 若者の瞳に夢をかける人たち。日系社会に、そしてブラジルに対して日本からはどのような「架け橋」を穀zしていくか。ブラジルではそれをどう支えていくか。末っ子で終わることなく次期につなぐ=B次の四半世紀に向けて「新しいニッパク」が始動する。(おわり、南部サヤカ記者)


日伯交流協会=「感謝の集い」開催=堀坂理事が来伯し謝辞
木曜日からサンパウロに出て日本ブラジル交流協会の理事会、「感謝の集い」に参加第25期生の48人の研修生にお会いする機会が有った。目の輝きが羨ましい若者の元気な姿に接し日本とブラジルの掛け橋を目指す若者を見るのは嬉しい限りである。夜の「感謝の集い」にもこれらの若者に共感、支援の手を差し伸べる理解者が集まり賑わった。別途ブラジル日本交流協会の今後に付いても報告したいと思いますが、10日付けニッケイ新聞の関係ニュースを下記して置きます。
日伯交流協会=「感謝の集い」開催=堀坂理事が来伯し謝辞
ニッケイ新聞  2006年3月10日(金)
 「ながい間、お世話になりました」。財団法人・日本ブラジル交流協会(藤村修理事長)の理事、堀坂浩太郎上智大学教授は日本側理事署lらを代浮オて九日に来伯し、感謝の言葉をのべた。山口達朗事務局長も一緒に来社、藷午後七時からニッケイパラセ・ホテルで行われる「感謝の集い」に主催者として出席する。
 本紙六面で連載しているように、同協会二曙ワ期生四諸ェ人が全伯各地で研修したところ。一九八一年の一期生から数えて、全部で七百四諸ェ人にも上る。創立時、玉井義臣会長らは二百五署lを派遣する目標をたてたが、それをはるかに上回る実績をあげた。
 派遣先団体・会社だけでも約二百。今回の「感謝の集い」にはそれら関係者・協力者を招待し、今まで研修生を受け入れてくれた謝辞を贈る嵐閨B
 同協会は今回をもって派遣事業を中止。来年以降に関して、山口事務局長は「今まで派遣した実績をどう活かすか、現在、OBやOGなどが中心になって検討している」と説明した。
 会場では、今回持参した『夢のかけ橋』(日本ブラジル交流協会編)という今までの二曙ワ年の歴史をまとめた本を配るという。
 同伴したブラジル側理事の高野泰久さんも「日本の若い人が四初ス人も、この界隈から減ってしまうのは本当にさびしい」と語り、今後への期待をのべた。


3月10日(金)に行われた日本ブラジル交流協会の25周年記念、『感謝の集い』関係のニッケイ新聞の記事です。
日伯交流協会=派遣事業いったん幕ひく=748人が両国のかけ橋に=軸足を伯側に来年復活か
ニッケイ新聞  2006年3月14日(火)
 若者交流を進めて二曙ワ年=いったんその活動に幕を引くことになった日本ブラジル交流協会(日本側=藤村修理事長)。約七百四諸ェ人を日本から送り出し、無事に研修させてきた二曙ワ周年を祝うとともに、受け入れ先や協力者に感謝するための集いが藷夜、ニッケイパラセ・ホテルで開催され、約百八署lが出席した。ブラジル側からは来年再開する見通しが熱く語られ、関係者は期待をよせた。
 日本側理事を代浮オて来伯した上智大学の堀坂浩太郎教授は、式典のなかで派遣先代浮ノお礼を言うととも、来年からの制度復活に賛意を贈り、「百周年を契機とする新しい日伯交流史のいしずえになれば」との期待をのべた。
 ブラジル日本交流協会(=ブラジル側)の山内淳会長はまず、引き受け先関連団体・会社に「厚く感謝垂オ上げます」と謝辞をのべ、さらに「〇七年から再開し、二署lを受け入れる準備をしている。引き受け先団体には、今後もご理解とご支援をお願いしたい」と公言。OBや協力者らを中心に、準備が進められていることを明かした。
 堀坂理事は派遣中止となった理由の一つを、「本来の教育事業の目的を果たすには、二署l程度が適当とするブラジル側と、四署l以上を派遣しないと持続できない日本側とのギャップが大きな原因になった」と説明した。
 専従職員を雇い、東京都心に事務所を高ヲる日本側は必要経費が大きい。かつては協賛企業からの寄付があったが現状では難しく、研修生が払う一人九叙怏~で運営するには、四署l以上の人数が経営上必要との事情があった。対するブラジル側は、基本的にOBらが無償で協力支援する状態で、本来の教育的な意義を守りつつ四署l以上もの面倒をみるのは、負担が大きすぎるとの意見があった。
 堀坂理事は「当面、事務所は続けるが、専従職員は持たないものとなる」と説明。日本側の山口達朗事務局長は、同協会の四半世紀の歴史をまとめた小史『夢のかけ橋』とは別に、本格的な正史を二年かけて編纂していくと発浮オた。
 同事務局長によれば七百四諸ェ人の研修生うち、のべ約百人がその後一年以上の長期滞在をしに戻った。マナウス、マラニョン、カンポ・グランデ、南部三州など全伯各地にちらばる永住者が二署l以上もいる。日本にも、群馬県太田市で在日ブラジル人コミュニティと関わるものがいるなど、両国のかけ橋になっている。
 サンパウロ総領事館の丸橋次郎首席領事は、外務省同僚にもOBらが活躍しており、「日伯関係を語る上で重要な役割を果たしている。世界最大の日系社会があるブラジルに、新しい血を入れてくれている。大きな意味がある」とその意義を語った。
 文協の関根隆範副会長は「今後も今まで同様、できるだけの協力を惜しまない方針だ」とエールを贈った。また、曙ワ人以上の研修生を北伯ベレンで受け入れてきたアマゾン・トラベル・サービスの北島義弘社長は、「うちのかみさん、三年前亡くなったとき、ベレンで研修していたのはもとより、四潤`五署lの研修生から『奥さんにお世話になりました』って弔電が届いた」と思い起こす。この制度が生んだ絆の意味をかみしめたと言う。
 日本で撮影されたビデオでは、藤村理事長が不在を詫びると共に「引き続きご支持をお願いしたい」、健康問題から訪伯できなかった同協会創立者、玉井義臣会長はビデオの中で「ビーバ! 日伯協会」との応援メッセージをおくった。


サンパウロ新聞の3月15日付けWEB版にも3月10日に行われた日本ブラジル交流協会の【感謝の集い】に付いてカラー写真入りで下記の通り報告しておりますので紹介して置きます。

4半世紀の協力支援ありがとう 有為な人材育成に貢献 幕を下ろした日伯交流協会感謝の集い

「働きながら学ぶ」ことを目的に二曙ワ年間続いた(財)日伯交流協会(藤村修理事長)主催の「感謝の集い」が、藷午後七時から聖市ニッケイ・パラセ・ホテルで開催され、日本側から協会理事の堀坂浩太郎氏をはじめとする役員や受入先関係者、研修生など約百八署lが出席した。同協会は四半世紀を迎えた今期でとりあえず幕を閉じ、新体制として〇七年から動き出す嵐閨B会場では、研修生たちを支えてきた受入先関係者たちに協会側から感謝の意が示された。

 ◇新形式で再発足期待も 748人が研修、永住者は20人以上◇

 創設時の会長だった玉井義臣氏、藤村理事長の代理として堀坂理事とともに日本から来伯し、この日の司会役をつとめた山口達朗事務局長は、冒頭のあいさつでこれまでの協会の活動を説明した。それによると、同研修活動には二曙ワ年間で七百四諸ェ人が参加。OBのうち延べ約百人が日本に帰国後、再度ブラジルの土を踏み、永住組は二署lを超えているという。

 また、同研修制度の特徴の一つとして山口氏は「同じ釜の飯を食う」ことで連帯感を身につける事前研修の大切さを説明。「働きながら学ぶ」ことで、「ブラジル人と同じ目の高さで物事を見ることができた」と同制度の目的を強調し、これまで協力してくれた受入先団体関係者、ブラジル側役員への感謝の意を示した。 

 丸橋次郎サンパウロ総領事館首席領事、関根隆範文協副会長の祝辞に対して堀坂理事が謝辞を述べ、「交流事業は今回でひとまず幕を下ろしますが、四半世紀にわたって未熟な研修生たちを温かく受け入れていただいた皆さんには心から感謝致します。職場の人々の仕事観、人生観を直接見ることができた研修生たちにとって、その経験は何事にも変えられないものだと思います」と同制度の意義を強調した。

 受入先機関、協力者を代浮オてスダメリス銀行に感謝状が手渡されたあと、伯日交流協会の山内淳会長が〇七年から実施嵐閧フ新制度について説明。「研修生二署lを限度とし、再開する考えがある」として理事が紹介され、各受入団体への理解を求めた。

 協会創立当時から研修生を受け入れてきたという同協会パラナ州理事の江頭美(えがしら・みよし)氏は「父親から言われた『生きた仕事』を実践してきた。若い人を受け入れるには彼らの気持ちを知り、一緒にやっていくことが大切です」と話す。

 パラー州ベレンから出席したアマゾン・トラベル・サービス社社長でアマゾン地域理事でもある北島義弘氏は、「この制度が終るのはすごく寂しいが、一つの世代交代も必要。新しい形となり、時代にそくしたものを望みたい」と新制度への期待感を込めた。

 アマゾナス州マナウスのサンヨー・ダ・アマゾニア社で研修した齊藤考作さん(鹿児島県出身、二五)は「ようやく慣れた頃に終り、一年が短く感じました。将来は海外で働きたいという希望があり、できればブラジルに戻ってきたい」と撫橇引き締めた。

 また、サンパウロ市トレンデイ旅行社で研修し、最年少の川島美里さん(兵庫県出身、二〇)は「ブラジル人と働くことができ、勉強になりました。アルモニア学生寮で成人式を挙げてもらったことが本当に嬉しかった」と笑顔を見せた。

 南マットグロッワBカンポグランデの図書配送業DIMASUL社でサンパウロから送られた図書の仕分けなどを行ったという高里樹(いつき)さん(沖縄県出身、二五)は「言葉の面で苦労しました」と言いながらも、ウチナーンチュの多い同地で日本から持参したサンシン(三線)を披露。研修先だけでなく、ブラジル・ウチナーンチュとの間でも充実した日々を過ごしたようだ。

一行は庶O日夜、帰国した。

 〇七年度新制度の理事は次の通り(敬称略)。◎理事=山内淳(会長)、二宮正人(副会長)、高野泰久(会計)、秀島マルセロ(書記)、神戸保、和田好司(南リオグランデ)、江頭美(北パラナ)、北島義弘(アマゾン)。

◎運営委員会=金原正幸、唐木田光男、山崎和樹。


日本ブラジル交流協会藤本明司事務局長のお便りです。
拡大理事懇+感謝のつどいご出席のお礼&メールアドレス変更
皆さま
この度はお忙しい中をお運びいただきありがとうございました。皆様の忌憚の無いご意見を頂戴することができ、私も日本で、ブラジルのことは何の心配なく、日本のことそして前だけを見つめてスタートすることができそうです。心より御礼垂オ上げます。

先週土曜(3/17)をもって日本での合宿も終了し、全ての研修生が自宅へ戻ったようです。数名から連絡をもらいましたが、「日本のスピードの速さに驚きを隠せない」、「(スピードに)付いていけない」、「着いたばかりなのに、どんどん日本が入り込んでくる。ブラジルが薄れるようで怖い」など、ブラジルと日本を認識する上で、新たな段階に入ってきたようです。これからも帰国した25期を中心に、OBOGの統合を目指して行きたいと思います。
さて、掲題についてですが、弊員(=事務局)のメールアドレスを変更させていただきます。これまで使っていたプロバイダー(Nethall)は今月いっぱいで解約しますので、CC:の宛先になっております ake6864@yahoo.co.jp に変更お願いします。

感謝状、記念品などの発送がなかなか進まず、事務局、社宅の片付けにも手が回らないと言う状態ですが、27日の帰国までには何とかしたいと思っております。
皆さまのご健康とご多幸をお祈りしております。
藤本拝

藤本帰国報告
皆さま
メールで失礼致します。
この度、社団法人日本ブラジル交流協会からの出向期間を無事終了し、本日3月27日(月)に日本へ帰国いたしますのでご報告垂オ上げます。
1年1ヶ月という短い期間ではございましたが、当地ブラジルでいただきましたご厚情は終生忘れられるものではありません。お世話になりました25期研修生ともども心より感謝垂オ上げます。
出向先でありました「ブラジル政府認定公益法人ブラジル日本交流協会」から拝命致しております事務局長職は継続させていただき、ブラジルと日本の若者の交流事業に心血を注ぎ続ける所存です。
今後は、まず日本でしっかりと足場を固め、ブラジルと日本との行き来を繰り返しながら、ブラジルと日本、ひいては地球規模で若者が育つ土壌を耕し続けていきたいと思っています。
日本帰国後の落ち着き先等まだ確定しておりませんので、ご連絡をいただく際には、こちらのメールアドレスの方へお願い垂オ上げます。
それでは、今後とも何とぞよろしくお願い垂オ上げます。
2006年3月27日
サンパウロ
藤本明司



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