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チリ、コンセプシオンにお住まいの形部 晶子さんのお話を伺いました。
今回、チリ第2の都市コンセプシオンのENAP精油所の隣接地にあるPETROQIMと言うチリ唯一のプラスチック樹脂生産工場に納めている日本製鋼所製の造粒機の改造工事に携わるスパーバイザーに皆さんの通訳としてお手伝いして頂いている形部 晶子さん1960年6月15日大阪生まれにも仕事の合間にお話を伺いました。
チリには商社、メーカー等日本からの駐在者としての一時滞在者が700名、永住者は400名程度と日本人は少なく現地で通訳を捜すのは至難の業と云われていましたが、75%が首都のサンチアゴに集中していると云われる中、コンセプシオンに住んでおられる女性2名が何れも通訳として立派に活躍される実力を持っておられ非常に助かりました。
写真は、夕食会で取らせて頂いた形部さんのご一家ご主人とお嬢さんの写真です。


形部 晶子さんは、千葉県立女子高校を卒業後1979年に総評の師弟留学制度でロシアかドイツに留学出来る資格を取り(ご尊父が総評本部に勤務しておられたとのこと)、ドイツに留学し1年間ドイツ語を勉強翌年よりライプチヒー大学に入学、文学部でドイツ語とドイツ文学を勉強、同大学を卒業された。ドイツ留学中にチリから政治亡命してきていたチリ人のANTONIO ZSMBRANOさんと知り合い結婚、長女の形部 マヤ チヒロさんを出生、マヤさんが2歳の時にご主人の郷里チリのコンセプシオンに1991年に戻って来られたとのこと。帰国後もご主人に適当な仕事が見つからず一時的にマヤさんを連れてご家族の住む千葉に戻り日本では、ドイツ語の翻訳者として登録、SONYの電化製品のドイツ語での説明書の校正の仕事、ドイツ語雑誌の翻訳等ドイツ語関係の仕事をして過ごしご主人が現在の地元企業団体の職業訓練学校に勤務したのを機に再度チリに戻り現在に至る。マヤさんは、生まれたドイツの言葉は殆ど分からないとのことですが、11歳まで住んでいた日本の言葉は、現在も流暢にしゃべり、現在チリの高等学校に通っておられコンセプシオン大学の法学部か出来れば文学部哲学科に学びたいとの希望で現在夜は濫校に通っておられるとのこと。日本語を余りしゃべる機会が少ないとのことで日本の皆さんとお話する機会を大事にしたいとの事で夕食会には濫校の授業を一部休み参加してくれました。学校のお友達に日本のドラマのVIDEO TAPEを鑑賞しながら内容をスペイン語に訳して上げると言った草の根の日本文化の紹介もしているとのことで日智友好に尽くしておられます。
ご主人のANTONIO ZAMBRANOさんも日本語がお上手で我々の日本語の会話にも参加しておられましたが、1952年生まれとのことで54歳とのことですが、年より老けて見え(髪が薄いせいもありますが私の親父を彷彿させる懐かしい顔を持ち主でした)昔は、政治活動で監獄にほり込まれた筋金入りの戦士の風貌があり、釈放されてからアルゼンチン経由ドイツに亡命、晶子さんに巡りあえたとのこと。人の人生は分からないものだとつくずく感心しました。父親似のマヤさんは鼻筋の通ったチリ美人です。



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