HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




あるぜんちな丸乗組員広野信行次席事務員の寄稿文 (1)
 あるぜんちな丸第12次航には、乗組員が100名以上乗っておられましたがその半数以上の57名を擁する事務部(司厨手、調理手等も含む大所帯)の次席事務員として午前7時から午後8時頃迄毎日船の案内所に詰めて私達の面倒を見て下さった当時24歳の新米?次席事務員の広野信行さん(現在兵庫県三田市在住)より当時の日誌等を参考した克明なあるぜんちな丸第12次航の毎日を綴ってくれております。読み進むとタイムスリップして40年前の船旅を再現しているような錯覚と懐かしさを感じます。あるぜんちな丸の船内放送から始まり、横浜、神戸出港からサントス到着までの日々の生活、時差の調整、各港への寄港、特にパナマ運河の8時間の運航、ドミニカ移民に思いを馳せる暖かい気持ち『私達の40年!!』もこのような多くの乗組員の皆さんにお世話を戴きながら始まったのだと今更の感謝の念を強くします。大変お世話になりました。広野さんから送って戴い写真の中から神戸出港時の見送り人のUPの写真があるので掲載しておきます。見送り人の中にご家族、知人の顔が有るのではないでしょうか?


船客の皆様、大阪商船株式会社・東航南米定期船「あるぜんちな丸」第12次航に御乗船戴き、ありがとうございます。
本船は、昭和33年4月に兵庫県神戸市の新三菱重工神戸造船所において、戦後最大の本格的南米移住客船として建造され産声をあげました。以降4年の歳月を経、日本と南米はアルゼンチン国ブエノスアイレス迄の各港間を結ぶ11航海の運航を重ねてきております。
  本船概要を簡単に御案内申し上げます。長さ156.5メートル、幅20.4メートル、深さ11.9メートル、総屯数10,864トンです。実際どの位の大きさかと聞かれても、どのように説明したらいいのでしょうか。これからの船旅は充分時間があります。船の船首から船尾まで船内隈なく歩き、見学・実感して下さい。
  本船の主機関は三菱ウェスチィングハウス製2段減速タービンで、9,000馬力、最高速度19.83ノット、航海速度16.4ノットです。1ノットは1時間に約1,852メートル進む速度ですから、時速約30キロメートルのスピードで航海を続けることになります。
  南米移住客船として本船の他に、「ぶらじる丸」・「さんとす丸」・「あめりか丸」・
「あふりか丸」の4隻が夫々就航していますが、これらの船の主機関は、ヂィーゼルエンジンを搭載しており多少の騒音・振動があります。其の点、本船は蒸気タービン機関特有の静かな船旅を体感戴けるものと思います。

  本船の船客収容数(定員)は、一等船客23名、二等船客72名、三等船客960名、計1,055名となり、他に乗組員100名程度が乗船できますので、最高で約1,100名を越す大所帯となります。今航海は、船客約770名、乗組員102名の、計872名であり、次ぎの通り各港に寄港し一路南米に向かいます。広畑3月23〜25日、名古屋3月26〜27日、横浜3月28〜30日、神戸3月31日〜4月2日、ロスアンジェルス4月15〜16日、クリストバル4月23〜24日、キュラサオ4月26日、ラ・グアイラ4月27日、ベレン5月2〜3日、サルバドオル5月7日、リオ・デ・ジャネイロ5月9〜10日、サントス5月11〜13日、ブエノス・アイレス5月26日到着の予定で、約45日間の航海の始まりです。

  本船乗組員の構成は、船長を頭とし、甲板部・機関部・無線部・事務部・医務部となっており、船客の皆様に最も身近に接触しお世話をするのが事務部の職務です。
甲板部は船の運航及び荷役全般に携わり、機関部は船の推進動力であるエンジンの保守・整備に、無線部は電報の送受信・気象通報等外部との通信におわれ、医務部は船客乗組員の健康管理にと夫々の役割を背負い、船の安全運航と皆様の生命財産を守っているのです。

申し遅れましたが、私は本船の乗組員次席事務員の広野信行です。
これからは私の職務の中から、南米移住船客の皆様方と共に過ごした航海の様子について話を進めましょう。

  私は昭和36年4月に大阪商船株式会社に入社、約2ヶ月間の研修期間を経て同年
7月「あるぜんちな丸」に乗船勤務を命ぜられて、新米の事務員として南米航路を2航海経験し、少しは仕事にも余裕の出てきた最近です。
 私の所属する事務部は事務長、事務員3名、司厨長、司厨手12名、司厨員18名、
調理手4名及び調理員18名の計57名の人員構成になっています。事務長と事務員の事務部職員は、船客の接待や貨物、乗組員、入出港に伴う事務等に携わり事務部全般を統括します。司厨長以下の事務部員は、船客及び乗組員の食事、居住区清掃等々身辺のサービスに没頭することになります。

  貨客船である本船は、兵庫県広畑港で南米向けの鋼材を、名古屋・横浜・神戸の各港で機械類、繊維製品、雑貨等の貨物を積載し、更に南米移住者等乗客の手荷物の積込みも乗船港の横浜と神戸で行います。手荷物と云っても、旅行者が持つ鞄や
スーツケースの類ではないのです。荷姿を一見すると、貨物と大差のない木造りの大きなケース、家具、農機具、梱包類など様々です。
その内で私が興味を持ったのは、ドラム缶でした。中には家庭用品、台所用品など小物がギッシリ詰められていたようです。入植地では飲料水の貯蔵、物品の保管等、
用途は多々あり重宝されたとのことです。一番の用途は風呂とも聞きました。
満天星空の下、南十字星を見上げながらの入浴は、英気を養うには最高の設定ではないかと想像を逞しくしたものでした。約700名の南米移住船客の手荷物は大変な物量で、積載される貨物量と大差無く、取扱も一層の慎重に行われました。

  本船の貨物倉は第一番船倉から第五番船倉まであり夫々三層構造になっています。
まず行先港別に仕分けされた貨物が積込まれ、その後に船客の手荷物が下船する港で優先的に取扱い出来るよう上積みされるのです。この手荷物の積込みは出航前日の夜半より朝にかけて行われ、積込み立会いは新米事務員の役割なのです。
担当航海士の指示を受け、ハッチ(倉口)の入口で夜を通して頑張っていたのです。

  本船は横浜・神戸両港で一般船客・南米移住船客約770名を迎え、昭和37年4月2日に南米はアルゼンチン国ブエノスアイレス港まで至る航海の途につきました。神戸港・日本を離れ南米の新天地に向かうこの移住船の出港風景は、皆様方にとっては忘れ難い想い出となった事でしょう。移住するには種々の事情があってのこと、南米に渡り活路を見い出すべく覚悟を決め、夫々の入植地に向かう船出の時、希望と不安の入り交じった胸の内、出港の銅鑼が鳴り、「蛍の光」の曲が流れるなか本船は静かに岸壁を離れていくのです。送る人、送られる人、両者を結ぶ幾条ものテープが風に流され船に絡みつき、掛けあった声、声、声…… いつしか消えていた。舷門に佇んでいた私も厳粛な気持ちで一杯でした。

  次ぎの寄港地ロスアンジェルスまで14日間の航海で、神戸とロスアンジェルスとの間に横たわる太平洋を横断することになります。本船は日本列島沿いにドンドン北上し、アリューシャン列島辺りからロスアンジェルスへ針路をとる大圏コースを辿ります。これが一番の近道なのです。冬場は海が荒れることで知られる海域です。皆様も船室に落ち着かれることとなり、いよいよ長い船旅の始まりです。
 故郷を後にして、移住の講習会、手続き、船待ちのため横浜あるいは神戸の移住斡旋所での生活を経て乗船されたのですから大変お疲れになったことでしょう。
まずはユックリとご休息下さい。

  ここで、皆様が居住される三等船室についてお話をしておきましょう。先ほど
手荷物の積込みが行われる船倉について一寸触れましたが、本船の船倉は船首から第1、第2、第3船倉、ハウスを挟み第4、第5船倉と続き夫々三層に仕切られています。
下から二層には貨物・手荷物が積込まれており、この上層部が皆様の客室となっております。夫々の船倉には貨物積み降ろしの為のハッチ(倉口)という大きな口が開いていて、この口は最下層まで通じています。荷役の時を除き航海中は木蓋で閉じられております。
  各船倉上層部の開口部にあたる場所の右舷側、左舷側の各空間が船客の居住区となり、ベッドが設置されています。ベッドは上下2段になっていて鉄パイプと金網で船の前後方向に組み立てられ、各舷船横方向の1列に狭い場所で3〜4組、広い場所で8組がセットされ何列にも並んでいます。ベッドの間、隣と隣との仕切りは無しで繋がれています。ベッドの床の金網には藁マットが敷いてあり、口の悪い人は曰く、「蚕棚」とも言っていたようです。

 各居住区の最大収容人員(ベッド数)は、第一居住区82名、第二居住区212名、
第三居住区238名、第四居住区240名、第五居住区188名の計960名となっております。各船室への皆様の配置は、下船港別、家族別、単身者の男女別に振り分けて決められています。花嫁移住の方には、壁で仕切られた特別室が用意されています。

 さて航海が始まると、閉じられたハッチの上は組立てられたテーブルが並び食堂
兼社交場となります。各居住区の収容人員から考えてもこれは大所帯です。これだけの人々が狭い空間に居住する船室の空調設備は、送風管から送られてくる外気が主で決して快適とは云い難い状態でした。このような環境の中での皆様の船内生活が始まりました。
  次港ロスアンジェルスまでの航海期間中は、乗船してこられた時までの疲労と先々の不安感、慣れぬ船内の雰囲気、個人の自由も無い船室のベッド、船酔いなど種々悪条件が重なり元気がなく活発な状況ではなかったようですね。中には活発な方々もいらっしゃいましたが、他に体調を崩す原因に時差と経度180度の日付変更線の問題があります。地球の表面を南北に縦に結んだ線を経度線(一般的には子午線)と云います。イギリスのグリニッジ天文台を通る経度線を0度とし、ここを基点として東西に夫々180度、一周360度に分けてあります。太平洋を通る経度180度の線を一般的に日付変更線といいますが、ベーリング海や南太平洋では国の領海を勘案して日付変更線を180度の経度線から若干ずらせてあります。この線を東から西へ越える時は日付けを1日進め、西から東に越える時は同じ日を重ねて、東西の日付を一致させております。自差は地方によって違う時間の差を云い、経度が15度違う毎に1時間の時差が生じることになります。日本の標準時は、東経135度の経度線を標準度としており、神戸市の西隣の明石市を通過しています。ロスアンジェルスは西経118度の経線が通過しているので標準時は経度120度を標準度とし、日本とは17時間の遅れがあります。本船の場合は毎日30分を目安に船内時計を進めて、ロスアンジェルス到着までに合計7時間時計を進めていきます。日付変更線で日付を1日戻し(24時間減じ)ますので、日本時間から17時間引けばロスアンジェルスの時間ということになります。このように毎日時間を進めるので、食事時間や就寝の時間等が狂ってくる、こんなことが体調を崩す原因となっているのです。これからも自差の問題はついて廻るのです。

  航海中の皆様の食事は朝8時、昼12時、夕食17時と決められており、乗客担当の司厨手、司厨員達も配膳から給食、後片付け、船室の掃除、ベッド、シーツの取り替えその他、皆様のお役に立てるよう頑張り多忙を極めたことでしょう。厨房の調理手、調理員達も早朝4時頃より起きだし準備にとりかかる。狭い調理場も熱気に溢れ、戦場のような状況ではなかったかと思います。毎朝の香味料である沢庵を包丁で刻んでいる若い調理員が、立ったまま眠りこんでいたが、それでも手は休まずに沢庵を切り続けていたと云う話しを聞いたことがあります。食事の献立は、和・洋・中と工夫がなされ皆様に喜んで戴けたものと思います。調理場には直径1メートルもある蒸気釜が5基並んでいて、毎日のご飯、味噌汁、野菜、魚、肉などの煮物は全てこの釜で調理されるのです。調理用具は多人数の乗客に対応出来るよう大きな物で、ご飯はスコップ状のシャモジでバケツに盛られ、味噌汁は肥柄杓状のオタマでバケツに移され各船室に運ばれ供食されます。

  入浴について、本船には大きな浴槽が男女別に設けられており、浴槽には海水を入れ蒸気で沸かす海水風呂です。但し、上がり湯だけは清水を沸かした貯槽が別にありますので、これで潮気を落として下さい。

  ロスアンジェルスまでの航海中、新米事務員は書類との格闘でした。積載貨物の書類チェックから始まり貨物目録の作成、乗組員関係の諸事務、船客の応対と寝る暇がないと云う状況です。初めて本船に乗船した昨年の昭和36年8月、横浜出港後の経験を思い出して冷や汗の出る想いであります。西も東も分からぬ駆出し事務員の私は、事務能力はゼロ、英文タイプは入社後の研修期間のみ、算盤には縁が無く、ナイナイ尽くしで初仕事に挑戦しはじめたのであります。与えられた仕事の遂行にどのくらい時間を費やしたものか、毎晩のごとく徹夜の連続、船は進めど仕事は進まず無我夢中の内、気が付けばロスアンジェルスの沖に投錨した本船の事務室で、セットした書類を前にして呆然と座り込んでいたのです。上司の事務長、事務員他の乗組員にどれだけの負担をかけていたのかも分からずじまいでありました。

  ロスアンジェルスへの入港です。久し振りに見る沖からの陸景には皆様も感動されたことと思います。乗組員も一息つき安堵感を持つ時です。入港手続きも終わり、当港での下船客を見送ると船倉の貨物の揚荷が始まり、ハッチが開かれます。
 皆様の船室は、危険防止のため網で保護し囲われますが、頭上では揚貨機の騒音、撒き散らされる埃、目の前をワイヤーで吊られた貨物が上下するわで、食事時には家族毎にベッドの上で食事をする破目になり大変迷惑されたことでしょう。停泊中は思い思いに上陸、散策しながら少しは気分を紛らわすことが出来たのではないでしょうか。船内にも「アイスクリーム、、アイスクリーム」と連呼しながら売りにきていたのを知っていましたか?大きなバケツの容器1ドル、10人分はありましたよ。皆様も買ってアメリカの味を賞味されたことでしょう。
  当港で南米向けの貨物が積載され、新たな船客が乗船されます。
この人達は主にブラジル・アルゼンチンなど南米諸国の人々で、アメリカに移住した人達の里帰りや、旅行者等で夫々がお国柄の雰囲気を持っていますので、皆様も南米の匂いが伝わったことと思います。

  ロスアンジェルスからパナマ運河へ、この間は7日間の航海です。船がアメリカ・メキシコ沿岸を南下し続けるにつれ気温も上昇し、船内も蒸し暑く感ずる毎日が続くのです。ロスアンジェルスを出港して1日もすると、本船の木甲板デッキには、皆様の活発な姿が見受けらるようになります。船内生活にも慣れ、今迄の緊張感や
重苦しさから少しずつ解放され、明るい太陽の下で伸び伸びとされたことでしょう。

  船客案内所、ここが私達事務員の勤務し詰めている事務室です。実際は時間の定めはなかったと思いますが、午前7時から午後8時まで案内所の窓は開けておりました。昼間はお客様との応対が主で、催しの案内、相談の受付、船内生活の出来事や苦情の処理など事務関係の仕事はいつも夜に回され、夜半過ぎまでいつも頑張っておりました。

事務長・中村武雄、大柄でイカツイ顔付きで近付き難い風貌の持ち主ですが、目はいつも微笑んでいた。首席事務員・木田寿司、少し太めでいつも忙しく動いており、アルゼンチンタンゴが大好きで文句も言わずに指導してくれました。事務員・小櫃幸充、掛けていた眼鏡を手で押し上げるのが癖で、眼鏡の奥で目が笑っていた。船客事務所を担当していた私は、この三人の下で忙しそうに動き若い事務員サンと呼ばれていました。司厨長・新堂退蔵、親分肌、鷹揚でいつもデンと構え睨みを利かせており、私は良く世話をかけました。木田事務員曰く、「鬼の小櫃に蛇の広野、これを助ける仏の木田」、どんな意味あいがあるのかはともかく、いつも和気藹々でした。

  中央アメリカのパナマ地峡にある太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河は、フランスにより着手され、その後を引き継いだアメリカ合衆国によって1914年(大正3年)に建設・開通しました。南米航路最大の見せ場じゃあないでしょうか。運河の両端、太平洋岸のバルボア港・大西洋側のクリストバル港に夫々運河基地があります。
本船はバルボア港の沖を通過しパナマ運河に進入、ミラフローレス閘門(ロック)を経て水面標高16.5mのミラフローレス湖に入るのです。同閘門には3つの水門で構成された2つのドックがあり、水位の違う海と湖との間に船を通すため水門を適宜開閉して水面の高さを調節するのです。運河(ロック)の両岸堰堤上には電動の軌道車が走っていて、本船からワイヤーロープを渡してこの軌道車に曳航してもらうのです。船が第一水門を通過し水門内に固定されると第一水門を閉じ、前方上の水門水位と同じ高さまで導管により湖の水が注水され、次いで前方の水門が開かれ船は次ぎへと進むのです。この光景は皆様も飽きずに船のデッキから身を乗出して興味深く観察されたことと思います。
ミラフローレス湖より更に一段上の水面標高25.5mのガツン湖に至るため、更にペドロミゲルロックを上昇してゲリャード・カットという深さ83mの掘割状の狭い水路を約14.5km走りぬけてガツン湖に出ます。ここでは熱帯特有の緑深い両岸の風景と静かな船の航走ぶりに一息つかれたことでしょう。ガツン湖からはガツン閘門(ロック)により8.5mずつ3回の下降を繰り返して、大西洋と同じ水位まで一気に25.5mを下り、少し進むとクリストバル港です。バルボア港から約8時間の航海でした。

 クリストバル港停泊、夜もふけてまいりました。クリストバル港にまつわる話しを披露いたしましょう。
  今から約6年ばかり後(昭和43年頃)のことになりますが、私の所属会社も大阪商船三井船舶株式会社と名前が変わり、本船「あるぜんちな丸」も改装され客船としての風格も備わり、私も中堅の事務員として本船に乗船していた時のことです。本船が南米からの帰路、当港でドミニカ国よりの引揚者を収容したのです。乗船した人々は疲れ果てて生気がなく、衣類といえば破れシャツと汚れきったズボンのみ、子供達は悲しげな面持ちをしており私達の胸も痛み、どのような事態が生じていたのか想像をせざるを得なかったのです。この人達の手荷物は、本船側も拒否したいような物が多く、鍋や家庭用品が詰ったドラム缶が目立つ程度の物でした。パナマ運河を通過してロスアンゼルスに向かうにつれ気温も下がり、衣類が必要となり乗組員の個人供出のみでは収容者のほんの一部しか充当することが出来ず、本船よりロスアンゼルス宛に救援電報を発信し、ロスアンゼルス入港時に衣類や義援金等が届けられて事無きを得ました。ここまでの航海中には寝込む人も出て、乗船者達の健康状態も気遣われましたが、ロスアンゼルスから日本向けの太平洋航海中にこれらの人々もほぼ回復されていました。
  ドミニカ国への移住者は統計によれば昭和31年565名、昭和32年299名、昭和33
年331名、昭和34年123名でその後は皆無の状況です。聞けばドミニカ国の入植地
は不毛の地であった由し。あらゆる工夫と努力がなされたが農業を捨てて漁業に転じたり、他の職業に就くも現地に馴染めず苦労されたようです。国策とはいえ、現地の調査が不充分なままの説明を信じて移住された方々が気の毒でなりません。日本に帰国した後、再び今度はブラジル移住を決意された方もあると聞いております。

  さて、次ぎはカリブ海に浮かぶキュラサオ島への明け方の寄港です。明るい太陽、コバルト色の澄んだ海・白い砂浜、古い要塞を右に見て港口より狭い水道を抜けると、奥には両岸から湾奥へと連なる原色の街並みが迫ってきます。街中は中南米特有の
色彩に溢れ、狭い石畳の通路の両側に多くの店が軒を並べて観光客を待ち受けております。皆様も街に繰り出された事でしょう。
  本船は夕刻の出港です。翌日の朝にはベネズエラ国のラガイラ港に入港し夕刻には出港してしまいます。これを私達は船の入れ出しと称しています。ベネズエラ国の
首都カラカスはラガイラ港の裏山を車で約1時間急登した標高960mの高原地帯です。

 ラガイラを出港し、次ぎは南米大陸の約半分を占める広大な国土を有するブラジル、ブラジル移住地の最初の寄港地であるベレンへと航海は続きます。この間に、本船は赤道を通過します。赤道は地球の表面に人間が想像した線で、南極・北極夫々から90度隔てた大円で緯度を測る基準線です。これより本船は南半球に入ります。船が赤道を通過する時に行う赤道祭が本船でも開催され、船客・乗組員共々参加して龍王・乙姫・官女・従者の魚達など夫々の役割を演じて楽しみましたね。

  海の色が変わってきたのがお分かりでしょうか?本船は大河アマゾンの河口に近付いてきました。両岸は未だ見えない濁った流れの大河の河口に投錨、ブラジルは
パラー州の州都ベレンに入港です。ベレンの街はアマゾンの分流パラ河の河口にあり、
アマゾン河流域の農産物の大集散地です。当港で下船される移住者の皆様は入国検査終了後、待機中の川船に移乗して分流アカラ川を遡り、胡椒栽培で発展したトメアス移住地へと向かうのです。アマゾン流域入植地においては、過酷な条件下での開拓であり悲観的な話ばかり聞かされている私達乗組員は、本船のタラップを降り川船に乗り移られる方々を見送る時、元気で頑張って下さいと願うのみでした。

  大河アマゾンから大西洋へ、ブラジルは第二の寄港地サルバドール港向けに針路をとります。神戸出港から約1ヶ月の船旅、本船に乗船されている殆ど方々が目指す、
サルバドール、リオデジャネイロ、サントスと順次夫々の入植地での下船・旅立ちの時が近付いています。
  南米移住を決意し選んだ第二の人生を託すブラジルの大地が目前に迫っている今、
日本の故郷で過ごした日々や、家族・友人・知人のこと、未知の入植地で待っている生活に思いを馳せ、狭い船室で顔をつき合わせて知り合った人達、船内生活のこと等が千々に想い浮かんでいることと思います。又、この間は下船の為の身辺整理や準備で忙しく過ごされ、日々が短く感じられたことでしょう。

  私も相変わらず船客応対、書類作成、雑務にと忙しい日々が続く傍らで、潮風に吹かれながら食べたデッキランチ、デッキでの輪投げ、デッキゴルフと気を紛らわしながらの日々、共にパン食い競争で汗を流した運動会・赤道祭・大きな鍵で道を開いた龍王様・私達も参加し歌った演芸会等など、皆様と交流した日々を楽しく思い出しています。

  バイーア州の州都サルバドール、私にとっても初めての港でした。1570年代、この地で砂糖産業が発展し、この街の繁栄を支えていた時代に砂糖黍農園の労働力として多くの黒人がアフリカから奴隷として連れてこられた際に彼等が持ち込んだ、音楽・
舞踏・宗教・衣装など様々なアフリカの文化がこの地に溶け込み、独自のアフロブラジリアン文化を育て、別名「黒人のローマ」と呼ばれています。街を散策された皆様もここは黒人の街だと実感されたのではないでしょうか。

 本船がブラジル各港に寄港中に訪船された移住者と接触するうちに聞いた話から、乗組員が想像したことも含まれているかもしれませんが、入植者の農場の様子の一端を知ることがあります。「農場を見廻るのに飛行機を使っている」、「飼育、放牧している家畜、牛馬数百頭、鶏はその数知れず」、 「トマト栽培で一夜にして億万長者、翌年は夜逃げ」、「アマゾンの開墾地、一週間で元の熱帯雨林に戻る」等など、農場の規模・経営、自然の厳しさが垣間見えるようです。ベレンやサルバドールで下船された移住者の皆様は無事に入植地に腰を下ろされたのでしょうか。サルバドールからクビチェック移住地に向かう皆様とも別れを告げ、本船は世界三大美港の一つ、リオデジャネイロへと航海を続けます。

  間もなく「リオデジャネイロ」入港です。明るい太陽の陽射しが燦燦と降りそそぐコパカバーナの海岸、コルコバードの丘、ポン・ジ・アスカールなど私にとっては、リオで知る観光地の思い出の名前です。ベレンやサルバドールとは異なった開放感のある素晴らしい風景です。当港で下船しフィンシャル入植地に向かう皆様を見送ると
次ぎはブラジル最終寄港地サントスです。 。。。 後編があります。



アクセス数 7583871 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0192 segundos.