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33年5月6日あるぜんちな丸見学(進水式?)
母校ならびに庚子造船会の写真、資料というHPの中のその他の欄に長谷川 進先生の写真帳(その3)の最初に33年5月6日あるぜんちな丸見学との題名で珍しいアングルからのあるぜんちな丸の写真が掲載されていました。「この写真は、撮影日時から想像すると処女航海の際に神戸港に立ち寄った時のものでしょう」とのコメントをHP管理責任者の黒井昌明さんからの便りを頂いております。母校とは100年以上名前を変更しながら続いてきた現大阪大学の工学部の前身の様です。
あるぜんちな丸の基本設計に携わられた辛島光二さんからの次の説明文を頂きました。
“私たちの40年!!” 及び”長谷川先生の写真帳〈3〉“のあるぜんちな丸の写真は進水時の写真ではなく、本船完成後神戸港で行ったレセプションの時に撮影されたものと見受けられます。 左舷側のホースパイプから水が落ちていますが、之は泥に埋まっていた錨鎖を洗浄していることを示しており、進水時には、この水を出すことはできませんので、船の完成したことを示しています。 また、この写真では、外板の塗装が完成しているように見えますので、船の完成後の写真であることに間違いありません。長谷川先生は大阪大学の先生でしたので、神戸港で写した物に間違いないようです。



1939年竣工の初代あるぜんちな丸竣工記念絵葉書。
1939年(昭和14年)大阪商船は戦前の初代あるぜんちな丸を世界一周航路用豪華客船として建造しました。私たちが乗船したあるぜんちな丸は、戦後の移住船として建造されたもので大分違いがあります。初代あるぜんちな丸の竣工記念絵葉書の華麗な勇姿が見つかりましたので掲載して置きます。



あるぜんちな丸乗船記念。昭和34年2月4日横浜出航。
あるぜんちな丸で南米に渡航された移住者の皆さんに毎航海乗船記念として大阪商船から各家族に配布されている写真があります。これから出来るだけ多く集めて見たいと思いますが、この昭和34年2月4日に横浜出港したあるぜんちな丸は多分第3次航か4次航ではないかと思いますが日本力行会の第52期生3名他計5名の移住者が乗船名簿に名を連ねておりこの財団法人日本力行会のHPの海外移住の歴史のページに掲載されていた写真を使わせて頂きました。あるぜんちな丸で渡航された移住者の方で乗船記念写真を保存しておられる方がおられたらお貸し下さい。



船内時計 あるぜんちな丸 SEIKOSHA
使用当時の本物です。ゼンマイで動きます。 \189,000(US$1575.00)。『あるぜんちな丸』でサイトを検索していたらあるぜんちな丸の船内時計が1500ドル強で掘り出しもの中に出ていました。これは操舵室にあった本物でしょうか?乗組員の皆さんに写真だけでは鑑定し難いと思いますがお聞きして見たいですね。時計そのものよりあるぜんちな丸で使用されていた本物であれば台湾に曳かれていき解体されたはずですがどうして今頃売りに出ているのでしょうか。その経緯を知りたいものです。我が家には置く場所もありませんが本物であれば歴史的、センチメンタルな価値は大いにある代物ですね。



こんな写真が見つかりました(2)
拓魂碑 笠戸丸移民以来四百柱の日本移民者の無縁仏がファゼンダ・グァタパラの旧墓地に眠っていた。
開拓先没者の遺骨を発掘して『拓魂』の碑の下に埋葬したのは、1977年6月25日であった。
7月にグァタパラ移住地入植40年祭に参加した時にバスの中で配布された資料の中に上記記載がありました。殆ど残っていない着伯初期の写真の一枚が見つかりました。1962年11月2日のブラジルのお盆(FINADOS)にグァタパラ移住地の吉田昌治さんのお宅にお世話になっており上記笠戸丸以来の四百柱の日本移民者の無縁仏に手を合わせに行く機会がありその時に撮った一枚です。この古い墓地はブルドーザで一気に潰されてしまったそうですがその工事の前に無縁仏の遺骨を集め現在の『拓魂碑』の下に再度埋葬されたとの事です。今回のグァタパラ訪問で同じ先歿者の先輩諸兄に40年振りに再度手を合わせる事が出来ました。辛い魂の再会?ブラジル移民史の一部です。



赤道通過許可証(2)
あるぜんちな丸第12次航の赤道通過許可証は、杉島英機さんの当日の船内郵便局の消印の有る切手を貼った貴重なものを掲載しておりますが今回はあるぜんちな丸第7次航の赤道通過許可証のカラーコピーを野口みどりさんから提供を受けました。1960年9月3日緯度ゼロ、経度47度13分で赤道通過、宛名はMr.Tsutomu Noguchiとなっており野口みどりさんのお父上のようです。赤道通過許可証は、家族に一枚でしたので貴重なものを大事に保管しておられたようです。十数人のお友達、同船者の氏名、住所が書き込まれていますが本籍地か住んでいた日本の住所でまだブラジルでの新しい住所がない方が多かったのではないかと想像します。野口さん有難う御座います。出来ればあるぜんちな丸の全ての航海で発行したものを集めたいですね。



あるぜんちな丸移住者 昭和35年8月4日
40年振りの里帰りを果たされた野口みどりさんから当時の写真を何枚か頂きました。昭和35年8月4日外務省横浜移住斡旋所と印刷されたあるぜんちな丸第7次項の皆さんの記念写真を掲載して置きます。1960年小学生のみどりさんがお姉さん?のいずみさんと今回御一緒に来られたお母さんの野口るり子さんのお姿も見えます。後ろの列には6期生の産業開発青年隊の皆さんの姿も見えるようです。



こんな写真を撮りました
写真集に『こんな写真が見つかりました』と40年前のキュラサオ島で撮った写真を掲載しておりますが、40年後の現在8月2日のサンパウロに置けるあるぜんちな丸交歓会の後、いく子さん、和子さんと記念写真を撮りました。私自身がサンパウロより遠く離れたポルトアレグレに住んで居たことと同船者意識等と全く関係なく猛烈社員振りを発揮して我武者羅に生きて来たことから40年前の写真の存在も記憶になかった程でしたが『私達の40年!!』企画で昔の新聞班の仲間を中心に40年目の集いの実施とその後のホームページ管理更新の作業を通じて昔の仲間との交流が始まり大きな時間と空間を隔てて蘇る青春の日々大切にして行きたいと願っています。今後十年、二十年生きている間は節目には又いくチャン、和チャンを引っ張り出して同じポーズで写真を撮って見たいですね。迷惑がられるかな?



あるぜんちな丸交歓会で女性軍に囲まれて幸せそうな杉島秀機さんの写真
8月2日(金)にサンパウロの中華料理店『友誼』であるぜんちな丸第7次航と12次航の同船者の交歓会がありましたが、日本からお母様と御一緒に始めてブラジルに来られた野口エリカさん15歳を真中にしてあるぜんちな丸第12次航の仲良し3人組の女性と一緒に撮った幸せそうな杉島秀機さんの写真です。左から美香さん、いく子さん、エリカちゃん、杉島さんに和子さんです。



1960年9月11日サントス着『あるぜんちな丸第7次航』のミニ同船者会
私達あるぜんちな丸第12次航より5航海早い7次航の野口みどりさんが80歳のお母様、15歳のお嬢さんを帯同して40年振りの(お母様だけは20年目に一度来伯しておられるとの事で今回ガ2度目の里帰り)里帰りを実現されており、同船者の産業開発青年隊6期生の皆さんが歓迎会を開かれ私達もご一緒させて貰い交歓会を8月2日に行いました。その時に撮った7次航の同船者8名の写真です。



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