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山本喜誉司賞に輝く篤農家達 サンパウロ新聞WEB版より。
ブラジル日本人コロニアにおける各種賞の中で一番権威が有る賞と言える農業界での篤農家に送られる山本喜誉司博士賞は、最高の栄誉です。山本喜誉司博士は、東山農場の支配人としてコーヒーに付くウガンダ蜂に関する研究成果で母校の東大より博士号を得ている学究の徒でもあり、1955年にサンパウロ日本文化協会(文教)を創立し3年後の日本移民50周年祭をコロニアの総意で実現させる事により戦後の混乱期を終結させたコロニア天皇とまで云われた実力者で1963年没後彼を記念して山本喜誉司賞が設立された。今年も5人の特異な篤農家が選ばれサンパウロ新聞でそれぞれの受賞者を紹介している。
写真は、蘭栽培を現役で行っている高梨一夫さんのものをサンパウロ新聞よりお借りして使用させて頂きました。


山本喜誉司賞に輝く篤農家@ 赤に魅せられ『紅高』生む
 《ぶどう栽培のベテラン高倉定雄さん》
 「濃いきれいな紅色で甘く、マスカットのような爽やかな香」
 高倉定雄さん(パラナ州フロライ市在住、二世、七十歳)が接ぎ木を何度も繰返し、生み出した「紅高」はブラジルの高級ブドウとして現在、市場に普及している。
 「甘いブドウを作るのにこだわって人に嫌われたこともあります」と話す高倉さん。自分の名前から一字取り「紅高」と名づけたブドウを誇れるものにするために幾つもの苦労があったという。
 高倉さんは一九六四年、二十五歳でブドウ栽培をはじめた。最初、ワイン用のブドウを作り、その後イタリアブドウ、ルビーを中心に生産していた。
 一九八八年、高倉さんはイタリアブドウに消毒薬を散布している作業中、一房の赤いブドウを見つける。それは、通常白いイタリアブドウから突然変異で現れたもので、高倉さんはそれを見た瞬間「きれいな赤い色に惚れてしまい、残そうと思った」という。
 それから、高倉さんは赤いブドウがなった枝代わりした枝を台木に接ぎ、試作を繰返し、一九九二年に「紅高」を確立した。
 「紅高は色着きが早いので、早くちぎりすぎてしまい、すっぱいブドウとして出荷されるのが一番の心配だった」という高倉さん。「紅高」の持つ本来の甘さを出すために「グループ紅高」という十四人の生産者からなるグループをつくり、紅高の糖度を十五度以上にするよう品質管理に取り組んだ。
 「紅高」が普及するまでに、高倉さんは「情けない思いをしたこともある」と話す。甘いブドウにこだわって生産していたのに、すっぱい「紅高」が出た時期があったという。また、甘いブドウを作るために良い農家だけを選んで、枝を分けていたので「枝を分けなかった農家からは嫌われ、辛い思いをした」と語る。
 「グループ紅高」はパラナ州のほかにも、バイーア、サンパウロなどでも作られ、高倉さんはメンバーを訪れ、栽培方法、販売の指導を行った。
 九三年には「紅高」の中から黒々と見える濃い紫色のブドウを発見。高倉さんは、それを接ぎ木によって品種改良。「ブラジル」と名づけ栽培している。このブドウは「色つきが紅高よりも早いが、甘くて、強い品種」と高倉さんは説明する。
 現在も三ヘクタールの畑に約千五百本のブドウを育てている高倉さん。山本喜誉司賞の授賞式では「受賞おめでとう」と書かれた横断幕を持って掛けつけた「グループ紅高」のメンバーと家族に囲まれ、受賞を喜んでいた。
 〔写真:紅高を育てた高倉定雄さん〕

山本喜誉司賞に輝く篤農家A ゴイアーバ一筋に品種改良
《「ペードロ・サトー」生んだ佐藤ペードロさん》

 第三十六回の山本喜誉司賞を先月二十四日に受賞した佐藤ペードロさん(七十歳)が品種改良を行ったゴイアーバ種「ペードロ・サトー」は確実に市場に普及し、「将来リオで生産されるゴイアーバの百%が『ペードロ・サトー』になるだろう」と言われている。

 佐藤さんは一九六六年からリオ州ノーバイグアス郡チングアでゴイアーバの栽培を初めた。「美味しいと認めてもられるゴイアーバを作ろう」と地道な品種改良の結果、「ペードロ・サトー」を生み出した。

 一九七三年、佐藤さんは生育の良かった一本のゴイアーバの木に注目。それを当時、コチア青年のサンパウロの技師責任者だった古賀けんじさんの指導の下、接ぎ木によって増やした。

 「古賀さんはサンパウロからリオまで何度も足を運んでくれました」と佐藤さんは振りかえり、「どの木がいい、これを試してみなさいと細かい指導を懸命になってしてくれました」と話した。

 次に佐藤さんは接ぎ木によって増やしたゴイアーバの中から条件の良いものを選定し、実った果実から種を取り、またそこから良いものを選び、接ぎ木による品種改良を繰返した。

 品種改良の過程で佐藤さんは「剪定するのが一番難しかった」という。「ゴイアーバの木は伸びるのが速く、枝を切りすぎても花が咲かず実が減り、枝を伸ばしすぎても周りの木との間隔が狭くなり育ちが悪くなる」と説明した。

 一九九〇年に佐藤さんは品種改良してできたゴイアーバに「ペードロ・サトー」と自身の名前を発表。そして、一九九八年に「ペードロ・サトー」が確立された。それまでの間、佐藤さんは自身が手掛けたゴイアーバを試すために、他の農家に苗を無料で配り、そこでよい評価を得た。現在、多くのゴイアバ農家が「ペードロ・サトー」を採用しているが、その多くが試験してもらうために配った苗がもとになっているという。

 妻のセツ子さん(六十三歳)は「ペードロ・サトー」は従来種と比べ「実が大きく、色が赤く、日持ちがする」と話す。「主人をいつも手伝い、一緒にがんばってきました」と試行錯誤の日々を振り返った。

 現在、息子のマウロ則秋さん(三十四歳)が佐藤さんの後を継ぎ、七ヘクタールの畑に約千本のゴイアーバを育ている。マウロさんは一九九五年、JICAの研修生として沖縄で接ぎ木の技術を学んでおり、佐藤さんは「もう少ししたらできるようになるだろう」と品種改良に成功することに期待をしている。

 山本喜誉司賞の授賞式で佐藤さんは「皆さんに美味しいゴイアーバだといってもらえたので、今日私はここにいます」と話していた。

 〔写真:山本喜誉司賞を受賞した佐藤ペードロさん(右)〕

山本喜誉司賞に輝く篤農家B 燃料供給にも大きく貢献
 《砂糖黍研究の権威・有薗秀人博士》

 連邦農務省によると、ブラジル全国の砂糖きび農地は約六百万ヘクタール。その品種は五十種類以上。砂糖きびは、多くの農家、研究者らの多大な努力によりブラジルの一大産業として成長を遂げ、現在では砂糖きびから取れるアルコールが石油に代わる代替燃料として注目を浴びている。

 有薗秀人博士(五十四歳、二世)は、砂糖きびの品種研究の業績が評価され、四十年以上に渡って仲間として研究を続けてきた松岡静男博士とともに第三十六回山本喜誉司賞を受賞した。

 現在、ブラジル全国で栽培されている砂糖きびの五〇パーセントを占めるRB種。

 有薗博士は、糖分、抗病菌性、生産性が高いRB種の研究に尽力。ブラジルのアルコール燃料の安定供給を促進させるという大きな功績を残し、九四、九五、九七年にジョルナル・カンナ賞を三度受章している。

 聖州ラビニアで生まれた有薗博士は、両親の仕事の都合などで転地続きの生活だった。十一歳には勉学のため、聖市で一人暮らしを始めた。

 アララス大学在学中に砂糖アルコール局(IAA)の農業技術研究員として働き始めた頃に、松岡博士と出会った。

 同大学卒業後もIAAで品種、遺伝子の研究に力を注ぎ続けてきた。

 「(砂糖きび研究が)人生の全て。仕事一筋でやってきた」と有薗博士。

 しかし、一九九〇年にアルコールの需要低下を理由に、当時のコロール大統領の決定でIAAは突然廃止となった。

 「あのときは、どうしてという気持ちで一杯だった」。

 失職。そして、いままで何十年に渡って続けてきた研究材料すらも失った。

 有薗博士は、松岡博士とともに研究が継続できる環境を求めて、企業、大学など各方面に資金援助などの陳情に走り回った。

 その成果が実ったのか、翌年にサンカルロス連邦大学が教員として二人を引き受けた。同大学在籍中、有薗博士はサンパウロ総合大学ルイス・デ・ケイロス農大で修士、博士号を取得した。

 現在、セメントで有名なボトランチングループが百パーセント出資で砂糖きびの品種研究、コンサルタントを手掛け、二〇〇二年に設立したCANA・VIALIS社で松岡博士とともに研究を続けている。

 「『まじめに勉強して、いつも100点をとれよ』と父親に口すっぱく言われてきた」。

 有薗博士は一世は十分に学業に専念できなかったことを知っているから、必死で努力してこれたという。

 今回受章した喜びを「本当に名誉なこと。私の将来のためにいつも支えてくれた両親、兄弟、そして妻や息子たちには心から感謝したい気持ちでいっぱいです」と表現した。

       (つづく)

 〔写真:家族とともに記念撮影する有薗博士(手前、右)〕

山本喜誉司賞に輝く篤農家C 生産性、活性化に貢献
《砂糖黍改良第一人者・松岡静男さん》

「いろいろな賞をもらってきたけど、(山本喜誉司賞)今回は特別な喜びがある」――。

 前回紹介した有薗秀人博士とともに砂糖きび研究の功績が認められ、第三十六回山本喜誉司賞を受賞した松岡静男博士(六十二歳、二世)。

 戦前に岐阜県から移住してきた日本生まれの両親。松岡博士は学会報告のためにフィリピンへ出張した帰りに、両親の故郷である岐阜県へ立ち寄った。日本への愛着があるからこそ、今回の受章の嬉しさは一入(ひとしお)なのだろう。

 「日系団体から受章を受けたことは、より価値のあるものと思っている」。

 一九六三年、世界のオイルショックの影響で石油が高騰。アルコール需要が高まる中、一九六五年、砂糖きび産業の推進とアルコール供給の向上を目的に、連邦政府主導によるアルコールプロジェクトが開始された。

 当時、著しく成長を遂げてきたコーヒーや大豆などブラジル農業の主軸農産品目を対象にした研究施設が開設されていたが、砂糖きびはまだだった。

 しかし一九六六年、プロジェクトを受けた形で砂糖アルコール局(IAA)が設けられた。

 松岡博士もサンパウロ総合大学ルイス・デ・ケイロス農大を一九六七年に卒業後、IAAに農業技術研究員として在籍することになった。

 有薗博士とともに松岡博士は砂糖きびのRB種の品種改良、遺伝子研究に没頭。高級遺伝子による苗の開発を手掛けていた。

 松岡博士らの研究成果は、パラナ、南麻州、ミナス・ジュライス州などに大きな影響を与え、地域の商業、経済の活性化に寄与していった。

 「研究して開発した砂糖きびの品種がみんなに使われている。それが大きなやりがいです」。

 しかし、一九八五年頃アルコールの需要は低下し、消費量は減少傾向を辿った。IAAも研究費を切り、給料をギリギリ支給できるまでに運営費は落ち込んだ。

 やむなく松岡博士らは、アルコール工場と交渉するなど研究費の調達に動き回ったこともあった。

 そして一九九〇年、研究者達にはまったく事前に知らされることなくIAAは突然閉鎖された。

 「ショックでした。十年かかってやってきた研究が止まった。二十、三十年かけて研究していた人もいたのに・・・」。

 コロアードス、カンピーナスでカフェ、養蚕、牛飼いなどをしていた両親の背中を見て農業に興味を持ち始め、その道を歩み続けてきた松岡さんにとって重大な岐路に立たされた瞬間だった。

 「今までに築き上げた成果を無駄にしないためにも」。

 救ってくれたのは、サンカルロス連邦大学での教員職への道だった。

 そして、二〇〇三年に有薗博士とともにCANA・VIALISを設立し、現在も研究者として尽力している。

 「今までの自分の人生において、両親、兄弟が大学に進学させてくれた感謝の気持ちは一生忘れない」。

 〔写真:家族とともに受章式に出席した松岡博士(中央、左から四人目)〕

山本喜誉司賞に輝く篤農家・終 後継者育成にも尽力
 《蘭栽培に賭ける高梨一夫さん》

「温厚篤実、進取の気性に富み責任感ある人柄」――。

 高梨一夫さんは、受章者最多の五団体からの推薦を受けた。

 八一年、汎ヅットラ生産者協会の創立発起人となり、同地方花卉栽培の指導者として発展に貢献。八七年、会長に就任した。

 また、同協会に青年部を発足させ、講演会、研究会の開催や専門家招聘、研修生派遣など後継者育成に寄与してきた。

 同市の緑化事業の推進、「日系ブラジル花卉発展史」の編纂委員会立ち上げなど推薦状に寄せられた高梨さんの功績は数知れない。

 「簡単に言えば、花作りが好きだったからだよな」。

 高梨さんも一人の農主の端くれだった。今では、移住前を含めて五十年以上のキャリアを積み、花卉栽培の第一人者として活躍するまでになった。

 一九二三年、千葉県出身の高梨さんは十五歳から実家の農業を手伝い始めた。第二次大戦直後、今までの水田単作から、食料一点張りの農業形態を打ち破る画期的な花卉栽培に切り替えた。

 一九五七年に家族五人で移住し、イタケーラに入植。

 六二年に現住地のサンジョゼ・ドス・カンポスで七十アルケールの土地を購入し、転居した。

 そこで、三度の大災難。高梨さんの半生は、順風満帆という言葉に見放されていくことになる。

 「もうれつな借金。首をくくろうかとも・・・」。

 一度目は六七、六八年。当時、流行に乗じて始めたバタタ栽培。バタタ成金が現れ始め、遅れをとるまいと二十五アルケールを使って栽培したが、バタタは大暴落。一銭にもならなかったという。

 大きな借金を抱えた。払う目途も立たなかった。

 名誉挽回。バラとグラジオラスの花卉栽培一本にかけることにした。

 軌道に乗り始め、「二度目はないだろう」と信じた七四年。

 「忘れもしない、七四年四月三十日午前七時二十分頃。竜巻のようにやってきた」。

 パライバ地方一部を直撃した猛烈な雹(ひょう)は、高梨さんの脳裏に鮮明な追憶として刻まれている。

 翌日、すずめが何羽も地面で死に絶え、植物が黄色に変色。この雹で、バラ二十万本、グラジオラス十二アルケール分がすべて潰れた。

 「なんでうちだけ天罰を受けなきゃならんのか」。

 八五年、ハワイから導入した胡蝶蘭の苗に全てをかけた。借金をして当時では珍しい、蘭苗の交配の研究所を建設した。

 当時蘭は、高値で推移していた。大量生産で一気に巻き返しを図ろうとしていた矢先、何者かによって四十万株の蘭が根こそぎ潰されるという、三度目の災害に出逢った。

 三度の挫折。

 「あれだけ苦労してきたが、やりたい道を選んでこれた。幸せだよ」。

 情熱を花卉栽培にかけてきた。真剣さが災難を乗り越え、周囲からの人望を集め、花卉の発展に貢献してこれたことは言うまでもない。

 〔写真:今でも現役として蘭栽培の育成に励む高梨さん〕




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