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「慶長遣欧使節の謎」 富田 眞三さんの連載が始まりました。
早稲田大学の海外移住研究会創設当時の大先輩で長くメキシコで事業を手掛けておられ現在はアメリカで息子さんが経営する日本食レストランを手伝いながら老いの手習い空手を初めておられる事は既にこのMLの欄でも紹介しておりますが、軽妙なPIADA(落とし話)の語りでもある富田先輩が今回は、渾身の力を注ぎ『慶長遺欧使節の謎』を掲載して呉れる事になりました。
富田先輩は『そのような訳で慶長使節団の世界を謎解きをするような気分で逍遥している老書生に付き合って頂ければ幸いである。』とおっしゃっていますが、海外生活40年以上の外国人としてカトリック信者としてスペイン語、ポルトガル語、ラテン語、イタリア語、英語を駆使した徹底的な文献を漁っての学究の先に見えてくる支倉常長像と彼を取り巻く謎?の解明に浮き浮きした気持ちで期待している。富田先輩宜しくお願いします。
写真は、仙台市博物館所蔵の支倉常長像(国宝 慶長遺欧使節関係資料)よりお借りしました。


「慶長遣欧使節の謎」富田 眞三さんの連載が始まりました。
はじめに
『雪が降った。
夕暮れ、雲の割れ目から薄陽を石ころだらけの川原に注いでいた空が暗くなると、突然、静かになった。雪が二片、三片、舞ってきた。
雪は木を切っている侍と下男たちの野良着をかすめ、はかない命を訴えるように彼らの顔や手にふれては消えた。(中略)
やがて侍と下男たちは仕事をやめて木の束を背負った。間もなく訪れる冬に備えて薪をつくるのである。』
以上は遠藤周作の名著「侍」の書き出しである。「侍」の名は長谷倉六右衛門(小説の中では)と言い、数ヵ月後彼は伊達政宗の使者としてノビスパン(ヌエバ・エスパーニャ、現メキシコ)を経て、奥南蛮(ヨーロッパ)に旅するのである。
侍は薪を背負って、家に入る。『押しつぶされたように並んだ藁葺きの家は、天井に竹で編んだ簾の子を張り、そこに薪や茅(ちがや)を干している。家畜小屋のように臭く、暗い。』
「侍」は小説であるが、『作者は細心なまでに史実に忠実であろうとする。本書中、支倉についての記述は、そのほとんど全てが事実である。』(カリフォルニア大学助教授、ヴァン・C・ゲッセル)と文学としての価値は勿論、当時の世界及び日本の情勢、カトリック教会内の事情を正確に作品に反映させていることが評価されている。英語、スペイン語、フランス語に翻訳された本書が世界のカトリック信者の読者を魅了したのも当然と言えよう。
 遠藤氏はこの小説を書くに当たって、16,7世紀の日本スペイン交流史の第一人者である松田毅一博士の指導を受け、メキシコに現地調査を行った際は、支倉研究を第二の専門としている若かりし頃の大泉光一経営学博士が遠藤氏の通訳兼案内を務めている。
 さて、長々と小説の引用をしたのは優れた交響曲のイントロダクションのように、この部分が慶長遣欧使節の性格と行く末を見事に暗示していると思うからである。何故政宗はこのような下級武士を敢えて使節に選んだのか? 誰が使節団を派遣したのか? 家康か、政宗か? 家康は遣欧使節団が出航した1613年の二年前、キリスト教禁教令を発布している。然るに何故キリスト教の大パトロンであるスペインの植民地ノビスパンに使者を送ったのか? 何が目的だったのか? 使節団はその目的を達したのか?興味は尽きない。 しかし読み方によっては、この小説を魅力的な歴史冒険小説とみる人たちも多い。事実あの時代、支倉は二つの大洋を横断し、地球を西回りして欧州に渡った最初の日本人であった。(注)
 この観点から、この旅を郷土の英雄の一大壮挙と称え、彼らの乗船の原寸大のレプリカを作り、支倉の銅像を使節が通過した国々に寄贈している自治体もある。又ある西洋美術の専門家はローマに残された有名な支倉の肖像画を検証して、支倉の表情が生き生きとして明るい点に着目し、使節団は成功したと結論を出している。ところがこの肖像画は支倉のものではないことが、最近の研究で明らかになった。事実は小説より奇なりである。
 そもそもこの使節団については分かっていることがあまりに少ないのである。日本にとってはカトリック禁制時代の出来事であったため、幕府と仙台藩にあった筈の使節団に関する資料は当局によって抹消されてしまったものが多い。一方スペイン、ローマ等には豊富な二次的資料が残っているため、研究者はこれを乏しい日本側の資料と比較検討して、かなりのことが解明されてきている。
 しかし西欧の資料は立場、即ちスペインとポルトガル、イエズス会と托鉢修道会派によって述べるところが違うので、見極めが難しい。因みに支倉と共に旅したスペイン人神父は托鉢修道会派のフランシスコ会員であった。その点、交渉相手国に残る日本側の資料(古文書)の価値と信憑性は高い、と松田博士は保障されている。
 ところでスペイン及びポルトガルと日本の交流史を研究するためには、400年前のスペイン、ポルトガル語、ラテン語、イタリー語が理解できることと、当時の日本の公用語であった漢文の素養も必要であるので、研究者の数も限られているのだ。実は数少ないこの分野の研究家である前述の大泉教授は私のメキシコ大の後輩にあたり、今も付き合いがある。ところが私は支倉六右衛門は無論慶長使節団についても全く関心も知識も持っていなかったため、当然彼から使節団について教えを受けたことはないのだ。勿体ない話である。 最近遅まきながら慶長使節団について日本語の文献による勉強を始めたところ、中々面白く興味は尽きない。またインターネットを活用して、スペイン、メキシコ、キューバ、イタリア、米国に存在する慶長使節団に関する各種資料に目を通してみて、改めてこの使節団の残した足跡の大きさを知ったのである。特に私はメキシコに渡って以来のカトリック信徒であり、外国生活40年の人間でもある為、カトリック信者及び外国人の視点からもこの使節団を観察することが出来るので、私にとっては日本、日本人発見の楽しみもある。
 そのような訳で慶長使節団の世界を謎解きをするような気分で逍遥している老書生に付き合って頂ければ幸いである。
 尚小文の日付は、全て洋暦を使用している。
(注)欧州に最初に渡った日本人は支倉より31年前の1582年2月にローマに使いした「天正遣欧使節」の4少年たちだった。彼らは九州のキリシタン三大名の親善使節として、イエズス会東インド巡察使ヴァリリャーノ神父に付き添われて、東回り、即ち、長崎からインド、喜望峰を経てスペインに到着後、バルセローナから海路ローマに入った。彼らはローマ教皇に謁する栄誉を受け、各地で大歓迎を受けた。因みに本能寺の変は天正遣欧使節が出発した同じ年の6月21日に起こっている。彼らの帰国は8年後の1590年だった。

一.日本に迫るイベリア両国
イベリア両国民が、8世紀初頭より6〜700年の間、イベリア半島を占領支配したイスラム教徒のモロス(ムーア人)を半島から全面追放したのは、1492年1月のことだった。祖国の再征服を成し遂げたイベリア両国民は、異教徒による占領と抑圧の反動から、カトリック教への信仰心がより強まって来ていた。
この傾向は、特にスペインのフェルナンド及びイサベラ・カトリカ両王に著しかった。
大航海時代以後、イベリア両国の香料と黄金を求めての貪欲な領土獲得運動と新世界の異教徒をカトリック教徒に改宗せんとする伝道活動は、恰も車の両輪のように、インディアス即ちアメリカ、アジア両大陸で熱狂的に推進されていった。イベリア両国による新世界の征服は、領土のみならず、住民の魂の征服でもあった。
1492年10月のコロンブスによるアメリカ発見は、当時獣肉の防腐、防臭に欠くことの出来なかった香料の産地であるインディアス即ち東洋へ海路到着せんとすることが、目的の一つだった。他の目的の一つは、黄金国ジパングを発見する事だった。香料は、遠く東洋からアラビア人たちの隊商によって欧州に運搬されていた為、非常に高い値で取引され、膨大な利益を生む交易品であった。
ところがコロンブスが発見したのは、インディアスではなく、ヨーロッパ人には未知のアメリカであった。
アメリカには香料はなかったが、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、ペルーで豊富な金銀が手に入った。しかし、イベリア両国の香料を求めての探検は、止まることはなかった。
かくして、15世紀後半には、これまでヨーロッパ人には未知の新世界で、ポルトガル、スペイン両国の陣取り合戦が始まった。
ポルトガルの東洋進出
ポルトガルは、スペインに先んじて13世紀半ばにイスラム教徒の国外追放に成功した。そして数十年に亘る王位継承戦争を経て、1385年、他のヨーロッパ諸国に先駆けて、ジョアン一世が国内統一を達成した。
このジョアン一世の子息エンリケ航海王子は、ポルトガルが、広大な大西洋に面している地理的条件を利用して、大西洋の南北に乗り出して行く政策をとり、大航海時代の立役者となった。
ポルトガル人たちが、1498年にバスコ・ダ・ガマが発見した喜望峰経由のインド航路によって、夢見ていたインディアス即ち東洋に海路到着したのは、ジョアン二世時代の1510年だった。彼らは早速アラビア海に面するゴアに拠点を作り、香料の欧州向け輸出を開始した。
そして翌1511年には香料の一大産地の香料諸島(The Spice islands、又はThe Malucca Islands)を支配するに至った。香料で稼いだ大金は、ポルトガル王室の懐を暖め、植民地獲得とカトリック教伝道の資金となった。
やがてポルトガルは、北進してマカオに前進基地を設ける。そのころ既にポルトガルは、東洋でのカトリック伝道を1534年創設のイエズス会に一任していた為、イエズス会は、ゴアに東洋本部を、マカオに支部
を開設した。そして1543年、東シナ海を航行中のポルトガル船が、種子島に漂着して、鉄砲が伝えられた。日本に現れた最初の南蛮人だった。6年後の1549年、イエズス会創設者の一人フランシスコ・デ・ザビエル神父が、鹿児島に伝道を目的として上陸した。ポルトガルは、地球を東回りして日本に到着したのだった。ポルトガルから喜望峰経由でゴアまで一年、更に日本へはもう一年の航程だった。
ところでザビエルのインド滞在中、彼に日本の情報を提供したのは、殺人を犯してインドに逃亡していたヤジローと言う薩摩藩士だった。ザビエルは、この日本青年から得た知識により、日本人とシナ人は、「天
竺(インド)と言う日本から一年半の距離にある学問が盛んな国の宗教(仏教)を奉じており、特に日本は、欧州諸国並みの文化を持つ国」と知り、日本へのカトリック伝道を決意するに至った。

スペインの東洋進出
一方スペインは、コロンブス(イタリー語でコロンボ、スペイン語ではコロン、英語ではコロンブスと称
する。本稿では人名、地名は出来るだけ日本での通称を使用することにする。)のアメリカ発見によって逸
早く新世界へ進出し、1521年にヌエバ・エスパーニャ、1533年にペルーを征服した。因みにポルトガルは、1549年、ブラジルに初代総督を置いている。
スペインの東洋進出は、苦難に満ちたものだった。1513年、スペイン人バルボアがパナマ地峡を横断して太平洋を発見するに至った。その太平洋を最初に横断したのは、1520年ポルトガル人マゼランを司令官とするスペイン艦隊が、大西洋から南米大陸の南端を経由して成し遂げたものだった。
1526年、香料獲得に執着するスペイン王室は、ヌエバ・エスパーニャを征服したばかりのエルナン・コルテスに香料諸島への探検隊派遣を命じた。コルテスは、太平洋岸のアカプルコ港から艦隊を派遣し、今回は香料諸島へ無事到着したが、既に同島はポルトガルの支配下にあったため、已む無くアカプルコに引き返さざるを得なかった。
これは1494年にスペイン、ポルトガル両国がローマ教皇の仲介によって結んだトルデシーヤス条約により南アジアは、ポルトガルの勢力圏と規定されていたためである。尚この条約は、新世界での領土紛争を避けるため、世界地図上、両国の勢力範囲を等分したものだった。
そして両国の勢力圏に侵入する多国籍の船は、両国の権益を侵害したとして、攻撃、拿捕し、船、積荷共に没収した。このルールは、勿論スペイン、ポルトガル間にも適用された。
しかしスペインは、南太平洋の制海権を放棄した訳ではなく、引き続きヌエバ・エスパーニャから同地域に探検隊を派遣し続け、1542年ロペス・デ・ビジャロボスが率いた艦隊は、ミンダナオ島に到着し、これをスペイン皇太子フェリペ殿下に因んでフィリッピンと命名した。フィリッピンは、資源に乏しかったが、スペインは、同諸島を東洋でのカトリック伝道の本拠地と位置づけ、資金はヌエバ・エスパーニャ産の金銀を惜しみなくつぎ込んで、1564年植民地支配を開始した。当時彼らは、「伝道が国是、貿易は生活必要物資を調達するため」と認識していた為、同植民地の赤字経営は、意に介しなかった。
スペインの東洋でのカトリック伝道は、新世界アメリカと同様に、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティーノ会のいわゆる托鉢修道会派に委ねていた。ところが日本に関しては、ポルトガルが後援するイエズス会の独り舞台で、スペインが付け入る術はなかった。
この様にスペインは、地球を西回りして日本に近づいて来ていた。先ず大西洋を横断してヌエバ・エスパーニャの大西洋岸のヴェラクルス港に上陸した後、陸路太平洋岸のアカプルコ港に向う。同港を出港して太平洋を横断し、フィリッピン経由で九州に渡ってきたのだ。二年を要する旅程だった。
さてスペインは、ヌエバ・エスパーニャから東洋への西行路は発見したものの、復路即ち安全な東行路の発見が出来ず、新大陸と東洋領土間の交通は、「行きは良い良い、帰りはこわい」の状態が、数十年間続いていた。スペイン人ウルダネッタが、やっと安全な東行路を発見したのは、1565年のことだった。
この航路は、フィリッピンを出航後黒潮に乗って北上し、日本列島を左に見つつ航行を続けた後、奇しく
も伊達領の鼻先の金華山沖で面舵を取り、東方のアメリカ大陸へ北太平洋海流と偏西風を利用して航行するものだった。この東行路の発見こそが、徳川幕府をして遣欧使節派遣を伊達政宗にまかせた要因の一つであった。
スペインの日本進出
托鉢修道会会員が、始めて日本に着いたのは、マニラからマカオに航行中の一船が逆風に遭って思いがけなく平戸港に入港したのが最初で、1584年の夏だった。彼らは日本人から歓迎されて気を良くし、フィリッピン帰島後、日本での伝道を志すに至った。ところが1585年1月、ローマ教皇グレゴリオ13世の「日本に於ける伝道はイエズス会員に限る」との勅書が発布されたため、彼らの希望は挫折しかかった。
これは東洋に於けるイエズス会のパトロンは、ポルトガルであり、托鉢修道会派のパトロンはスペインであったことで分かる通り「魂の征服」バトルに於いてもポルトガルとスペインは、対立していたのである。しかし、1580年以来、スペイン王は、ポルトガル王も兼任していたことからも理解できるように、力に勝るスペインは、托鉢修道会員をフィリッピンの外交使節として度々日本に派遣するなどして、日本での伝道に意欲を示した。しかし日本に於ける伝道では、1549年日本に上陸したイエズス会に40年の遅れを取っていたスペイン人は、異教徒の宗教、文化、習慣を理解する上で、その経験の差は如何ともし難く、致命的な失敗を重ねていくのである。
では次章では、両修道会の日本に於ける栄光と挫折の跡を簡単に辿ってみよう。

二.キリスト教伝来
キリシタン・バテレンと言う言葉がある。切支丹、伴天連と書く。キリシタンは、英語のChristianに当るポルトガル語のCristao(クリスタン)が訛ってキリシタンとなり、バテレンもポルトガル語のPadreが訛ってバテレンとなったのである。神父の意だ。この様に16世紀に渡来したイエズス会宣教師たちは、ポルトガル語を使っていた。当時彼らが日本に伝えた物で現在も使用されているものが色々ある。テンプラ、カステラ、金平糖、合羽、しゃぼん、更紗、ボタン、メリヤス、ラシャ、じゅばん等が、ほんのその一例である。
イエズス会及び托鉢修道会派は、共に現在の多国籍企業の体裁を持っていた。大株主に当るパトロンは、ポルトガル、スペイン王室であり、世界各地に支部を持ち、社員に当る宣教師は、スペイン、ポルトガル、イタリア、フランス等様々な国の出身者による混成部隊だった。
そして、イエズス会と托鉢修道会派、即ちポルトガルとスペインは、「魂の征服合戦」でも、この日本で激突したのである。但し、托鉢修道会派の日本渡来は、信長の死後二年のことだった。
フランシスコ・デ・ザビエル
インドのゴアに駐在していたイエズス会の神父フランシスコ・デ・ザビエル師は、伝道のため訪れた香料諸島で一人の日本青年と出会った。弥次郎(アンジロウ)と言う敵持ちの薩摩藩士だった。弟と郎等を連れたアンジロウは、かなり教養のある武士だったらしく、ポルトガル語を話し、文章も書けたと言う。
「アンジロウはザビエル師に始めて会ったときから大いに感銘を受け、彼に仕え、決して離れたくないと
希望するようになった」とルイス・フロイス師は彼の「日本史」に書いている。
こうして、ザビエル師はアンジロウたちをゴアに連れ帰って神学校に入学させ、カトリック教義を勉強させた。この間ザビエル師は、アンジロウから仏教の教義、日本の風俗習慣、政治情勢等を詳しく聴き取った。そして「デウス様及び世俗の学問に関しても知識欲が旺盛な日本の異教徒たちを、是非ともカトリック教徒に改宗させて、彼らの霊魂を救いたい」と熱望するようになった。その結果ザビエル師は、東洋での全ての伝道計画を後回しにして、日本行きを決断するに至った。
アンジロウは、日本に関する種々の情報を提供したが、何れも的確な指摘であることに驚きを禁じえない。
例えば、「仏僧は肉食を忌み嫌うので、日本では肉食を控えるように」と言った助言である。ザビエル師一行は、アンジロウの助言を尊重したが、後年のイエズス会員は、肉食を続けたため、南蛮僧は人肉を食べると仏僧たちに中傷されて、日本人に恐れられたりした。
そして一年の準備期間の後、ザビエル師以下7人は、香料諸島で日本向けのポルトガル船を探したが在る
わけが無く、已む無くシナの海賊船に便乗し1549年、鹿児島に到着した。
一行の内訳は、コスメ・デ・トルレス神父、ジュアン・フェルナンデス修道士、パウロ・デ・サンタフェ
(アンジロウ)、ジュアン(アンジロウの弟)、アントニオ(郎等)と二人のシナ人従者だった。
鹿児島ではアンジロウの妻子、親族を洗礼したほかは目ぼしい成果はなかったが、豊後で一行は、国主
の大友義鎮の歓待を受け、九州地方が日本に於けるカトリック教の発祥地となる基礎が出来た。
豊後にトルレス神父を残したザビエル師は、周防の首都山口に歩を進め、ここにも重要な伝道の橋頭堡を作ることが出来た。山口でザビエル師は、師の説教を聞いて洗礼を受けた盲目に近い琵琶法師のイエズス会入会を許可し、ロレンソの洗礼名を授けた。この琵琶法師は、得意の弁舌を生かし初期の伝道活動に大きな貢献を果たした。
ところでザビエル師の日本へのカトリック伝来に貢献したアンジロウは、鹿児島でザビエル師たちと別れて再び外国に渡ったらしい。尚彼は、ザビエル師の日本行きには同行しなかったと言う説もある。
こうして約二年の日本滞在後ザビエル師は、「福音の種を多くの諸国に蒔くことを切に望んでいた」ので、後事をコスメ・デ・トルレス師に託して山口を去り、ゴアに戻って行った。師は、二年後伝道先の広東で病没した。1622年列聖。
ザビエル師(1506〜1552)は、スペイン北部にかって存在したナバーラ王国のハビエル城で生まれた。王国の宰相が父であり、王国の姫が、母であった。1506年、王国はスペインに敗れ、王国の半分をスペインに併合された。ナバーラ王国として存続した半分も、1593年、フランスに併合されてしまった。
足利義輝の允許状
トルレス師一行は、豊後、山口等で権力者の庇護を受けて伝道活動を開始したが、各地で幾多の妨害、特に仏僧たちの組織的反対運動に遭遇していた。しかし彼らは、めげずに都を目指した。戦国時代の真っ最中の1560年、イエズス会員たちは、時の将軍足利義輝に謁見を賜り、三か条からなる允許状を交付された。
一)司祭の住居を兵士たちが宿舎として挑発してはならない。
二)公方様が司祭に賦課とか見張り番その他の義務を免除する。
三)何人も伴天連を非難、虐待してはならない。違反者は然るべく罰せらるべきこと。

允許状の写しは、京都の町中に立てられたので、人々の伴天連への侮辱、投石はなくなった。この頃京都
では、連日連夜南蛮人見たさに朝10時から夜10時まで300〜500人もの人々が小さい教会に詰めかけ、足の踏み場もない有様だった。野次馬が多かったが、洗礼まで進む人々も少なくなかった。
允許状は、カトリック教の伝道許可には触れていないが、教会と神父の存在が幕府から認められたことは、イエズス会にとって大きな収穫であった。
1562年、後の長崎港となる肥前港が、ポルトガル人に開港された。当時九州の諸大名が、カトリック宣教師の来日を歓迎した理由は、宣教師が乗船して来るポルトガル船が運んでくる積荷が、魅力的だったからである。一部の九州大名は、伝道許可をえさにして、ポルトガル船の寄港を求めたほどだった。これはポルトガル及び後年渡来してくるスペインが、異教徒とは商取引しないと言う方針を崩そうとしなかった為である。

この時期未だ日本のカトリック教徒は少数であったため、時の権力者たちは、伝道活動に寛容だった。
信長とキリシタン
さて戦国時代は、信長の台頭によって終わりに近づいていた。
信長が最初に南蛮人に会ったのは、1569年4月のことだった。当時戦乱等のため京都を離れていたイエズス会神父ルイス・フロイス師が、信長から安心して都に戻って来るが良い、との報せを受けて5年の流浪生活にピリオドを打って、京都に戻って来た。
そして同年4月19日頃、二条城の改築現場でフロイス師は、信長と劇的な対面を遂げ、両者は直ちに肝胆相照らす仲となった。日本スペイン交流史の権威である松田毅一教授によると、信長は、1568年に入京して本能寺の変で倒れるまでの14年間に、少なくとも京都で15回、安土で12回、岐阜で4回、合計31回もカトリック宣教師(切支丹伴天連)たちに会っている。
信長は、奥南蛮(ヨーロッパをこう呼んでいた)から命がけで、二年の船旅をして日本に渡来して来る宣教師たちを英雄視し、安土城に招待して自ら彼らの料理の給仕をしたり、教会を訪ねては西洋音楽を聴くほどの傾倒ぶりだった。さらに信長は、琵琶湖畔の彼の居館前の土地を伴天連に与えて教会を建てさせた上、セミナリオの設立も許可した。
そして多くの大名は、信長のキリシタン厚遇振りを見て、自らもキリシタンに改宗していった。又しないまでも、領内での伝道を許可するようになった。当時キリシタン伝道は、岐阜以西に限られていたが、信長と言う大パトロンを得てカトリック教会の伝道活動は、大躍進を遂げた。
さて、次回は、秀吉の登場である。秀吉は、太閤検地、刀狩などの画期的な新政策で、近世封建社会の基礎を確立したが、晩年の朝鮮出兵、対南蛮諸国との外交では、支離滅裂な対応を見せた。





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