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アマゾンで自由奔放に生きる日本人 サンパウロ新聞WEB版より。
サンパウロ新聞の福岡支局長として日本から記事を送っていた吉永 拓哉記者がブエノスで行われた拓殖大学の世界OB大会の取材記事を送って呉れていましたが、現在はアマゾンのマナウスに取材旅行をしているようで面白い記事を書いています。マナウスにお住みの高橋さんは、このイクノさんという奇人?をごぞんじですか?
吉永記者の健筆によるレポートの補足情報としてマナウスに住む高橋 雄一さんからも情報を寄せて頂いています。一緒に掲載して置きます。
写真は、サンパウロ新聞のWEB版に出ていたイクノさんの写真をお借りしました。色々な人生があるのですね。


アマゾンで自由奔放に生きる日本人 サンパウロ新聞WEB版より。
サソリも毒蜘蛛も家族 果物を運ぶ小舟の船頭イクノさん

 【マナウス・吉永拓哉記者】「あの日本人は変わっとるよ」―、北伯マナウス市在住の日本人たちはこう口を揃える。同市で得た情報によれば「彼は毎週金曜日の朝十時ごろにパナイール市場にやって来る」とのことだったのでその日、午前九時から市場に足を運び『変わった日本人』を探し回った。パナイールはマナウス市の外れに位置し、ネグロ河沿いにある小規模な市場だった。港ではカレガドールたちが四、五十キロはあろうかという果物箱を頭に載せて市場に運んでいた。港でカメラを片手にうろうろしていた時、一人のカレガドールが停泊中の小船を指差して「アキー、アキー、ジャポネース」と記者に知らせてくれた。

 小船の中には『変わった日本人』らしい日本人の姿があった。異常なほど黒い顔に無精髭を伸ばし、目をギラギラとさせていた。痩せており、見た目六十二、三歳ほどの男性で、穴だらけのTシャツに短パンを穿き、サンダル姿だった。

 彼は船内に積んでいたクプアスーなどの果物箱を降ろし終えたた後、仲買人と値段の交渉をはじめた。

 その間に船の外にいたカレガドールに彼のことを聞いてみた。

 「普通、日本人ならファブリカで働くものだが、今時こんな港でトラバーリャ・ペサード(重労働)をしている日本人は彼ぐらいのもんだろ」と話していた。

 およそ三十分ほどで値段の交渉が終わり、『変わった日本人』は「まぁ、中でゆっくり話しでもしませんか」といい、記者を船内に招き入れた。

 マナウス市在住の日本人たちは彼のことを「北野さん」と呼んでいたが、本人の身分証を確認させてもらうと『カルロス・コスタ・イクノ』(五十一歳)となっていた。

 イクノさんは他にもブラジル陸軍の徴兵検査終了証を取り出し、ほら見ろといわんばかりに「ボクは日系人で北野という名前ではない」と言い張った。それにしては何処かの方言混じりに完璧な日本語を話し、逆にポルトガル語が片言だった。イクノさんは「皆は『北野』とか『ノブさん』などと呼ぶが、名前なんてどうだっていい。人間なんだから」と彼なりの見解を述べた。

 自宅はマナウス市中心部から北岸約五十キロのイガラッペ・デ・カイオエという地域にあるという。「ボクは独り者じゃないですよ。犬が七匹と毒グモ、サソリなんでも家にいますから」と下の歯茎をむき出して笑った。

 自宅付近には彼以外に日系人は住んでいないどころか、ほとんど住民がいない。イクノさんはそこで発電機の生活を送っているそうだが、夕暮れになると泥棒除けのために発電機を止め、懐中電灯で夜を過ごすのだという。

 イクノさんは三十年前からイガラッペ・デ・カイオエに住み着き、五ヘクタールの農場でアマゾンの果物を主に栽培、また、漁も行っている。毎週金曜日には自前の小船『カイオエ号』(二十二馬力)を操縦してパナイール港まで果物の出荷に出て来る。

 しかし、近年は舗装道路の整備により他方から陸路での出荷が出来やすくなったために、果物の卸値がずいぶんと下がったそうだ。

 この日、イクノさんはクプアスー三百個、ビリバ(東南アジア原産の果物)二百個を出荷したが、卸値はわずか二百七十レアルだった。「パナイールまでの経費(船の燃料代など)が百レアルも掛かるんだ。これじゃあ労働者に給料が払えないよ」と溜息混じりに愚痴をこぼし、ビールを瓶ごとラッパ飲みした。(つづく)

アマゾンで自由奔放に生きる日本人
「俺はおもろいやっちゃ」 吾れひとり流れのままに

 ボクが小学校に入学する時だった。まだ文字が上手く書けなかったので、親父に頼んだら「広(ひろし)」という名を書いた。ボクの名前ではなかったよ。彼は実の父親ではなく、ボクのオジさんだったんだ。記者さん、あんたにこの気持ちが解るかい?

 カイオエ号の中でイクノさんから急にこのような質問をされたので記者もほとほと困った。『彼が本名や生まれ育った頃の話してくれないのは、幼い頃に受けた精神的苦痛によるものだろうか』と考え込んだ。

 イクノさんの素性はまったく謎だ。突然ニューヨークに住んでいた頃の話をはじめ、「ボクはトウジョウ・ヘンギング(首吊り東条)と呼ばれていた」などと語りだす。後にマナウス市在住の日本人らに「北野(イクノ)さんはニューヨークに住んでいたのか」と確認したところ、誰しもが「彼からニューヨークの話を聞いたことがるが、何をしていたのかは分からない」とのことだった。

 イクノさんは紙タバコを器用に巻き、ベロンと舌でなめてから火を点けた後、「ここを見ろ」と足首にある黒い傷痕を指差した。

 「これはエイの毒針に刺された痕だ。毒が足首から上がってくるのが分かるんだよ。この毒に侵されると筋肉が壊死するから、急いで紐で足を縛って傷口から毒を吸い取らなくてはならないんだ」

 彼はそう説明して着ていたTシャツを捲り上げると、ズボンにはベルトの代わりに 紐を巻き付けており、「この紐で縛るのさ。常に紐を身につけているのはボクだけだ。ここの人間は「のほほん」としてるから、いざ毒蛇やエイにやられた時のことを考えちゃいない」と誇らしげに話し、深々とタバコを噴かした。

 それからイクノさんはカイオエ号のエンジンを掛けた。ボロボロボロとけたたましい音を発しながらリオ・ネグロ河を走り、マナウス市の台所『メルカード・グランデ』に向かった。

 船を波止場に着けて下船すると焼き付けるような日差しが肌に刺さった。丁度昼時だったので、市場の中の無数にある屋台では人がごった返していた。その人ごみの間をすり抜けイクノさんはサッサと前に進んだ。フッと見た雑貨店の前で「ここではコロンビアから密輸されたピストルの弾を売っている。一発五レアルもする高級品だ」といいニヤッとした。

 それから小さなスーパーに寄り、玉ねぎを一キロほどと六十センターボのインスタント・ラーメンを二ケース買い込んでカイオエ号に戻った。

 次に「昔の教え子の家に行く」というので同行したが、何の教え子なのかまでは聞き出せなかった。船はマナウス市で最も川が汚いといわれるグロリア地区に泊まった。川にはゴミがたくさん浮いており、ウルブー(黒いハゲ鷹)がゴミや船の残骸に群れていた。

 その川の川縁に木造屋の集落があり、そこがイクノさんの教え子の家だった。彼はマナウス市内に出てくるたびに、この教え子(非日系人)の家で厄介になってるのだという。まるで家族同然のような付き合い方で、イクノさんは「ビールを買って来てくれ」と家主(教え子)に注文していた。

 彼の金曜日の生活ぶりを一日同行取材したが、いよいよ記者と別れる間際になって彼はこう言った。

 「ボクは関西弁でいうところの『おもろいやっちゃ』って奴ですか。まるで小説に出てきそうでしょう」

 アマゾンに生きる日本人船乗りイクノ・カルロス、その謎だらけの半生は今をもって誰も解明できない。(おわり、吉永拓哉記者)

和田さん
ご無沙汰しています。
最近は少々体調を悪くしてしまったり、又、1月に母がポックリと亡くなったりで、沈みがちな気分の毎日です。

お尋ねの変な日本人は?何度か会った事があります。
ネグロ河上流のカイオエ集落に住んでいて、小さな畑で果物などの栽培をされているようです。
本人のプライバシーに関することになりますから、あまり詳しくは書けませんが、差しさわりの無いところで一部を紹介します。

移民もしくは移住でアマゾンに来た人ではありません。
本名は北野だと思います。
生野というのは、カイオエ集落より下流のほうに住んでいた移民の生野さんの姓で出生届けを提出したのではと考えられます。
つまり日本人一世ではあるがブラジル生まれという事にしているようです。 (未確認情報ですが)

殆ど住民がいないネグロ河の上流で一人(独り者)現地人と一緒にカボクロ(現地人)さながらの生活で日本人社会との接触は無く通称カルロスでネグロ河上流では名前が知られています。
何度か北野さんの耕地まで行ったことがありますが、確かにサンパウロ新聞の記事にもあるように家の中には、毒蜘蛛やサソリ毒蛇がいても可笑しくないようなたたずまいでした。

酒が大好きなようで、ピンガを毎日のようにあおり、酩酊している日のほうが素面のときよりは多く誰にも気兼ねなく気ままな暮らしではあるようです。
人それぞれ人生がありますがカルロスの生き方も、ある意味では彼にしかできない貴重な人生なのかも知れません。

マナウス 高橋

高橋 さん
お母様が亡くなられたとの事、御愁傷様です。ご冥福を祈ります。
開拓一筋の方でマラカプールの移住地に弟さんのご家族と一緒にお住みだったと思います。お母様の半生を高橋さんが語って残して置かれては如何でしょうか。
昨年のアマゾン便りの高橋さんの筆力であれば苦労されたお母様のブラジルでの生活が生き生きと開拓史に残るのではないでしょうか。健筆期待しております。
奇妙な日本人の情報有難うございます。吉永記者が書かれた下編と共に掲載させて頂きます。




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