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ミナスゆっくり鉄道の旅(1)―(6)サンパウロ新聞、山口貴史記者の署名記事。
サンパウロ新聞のWEB版に山口貴史記者の【ミナスゆっくり鉄道の旅】と題した記事が六回に渡って掲載されていた。エスピリトサントス州都のヴィットリアからミナス州都ベロオリゾンテまでの905kmの鉄道の旅の紀行文です。普通はミナス州の鉄鉱石を積み出し港のヴィットリアまで運ぶ鉄道ですが一部同じ線路を使用して客車もあるようです。感受性の強い若い記者としてポルトアレグレにも昨年の南伯の戦後移住五〇周年記念祭にも取材に来られた見知りの期待記者、彼のゆっくり鉄道の旅を追ってみました。時間が許せば私も是非乗って見たい鉄道の旅、現在は使用されていないが一九三〇年のゼッツリオ・ヴァルガスの革命軍は、ポルトアレグレからリオまで一ヶ月を掛けて汽車で北上したそうですが、途中何度か汽車を乗り換え革命運動の動きを見ながらの北上だった。鉄道より道路、道路より飛行機が発達したブラジルですがリオーサンパウロを繋ぐ夢の新幹線【弾丸列車】が実現するかも知れないと鉄道への夢は広がる。
写真は、サンパウロ新聞の掲載分の一つをお借りしました。


ミナスゆっくり鉄道の旅(1)
《ヴィトリア―ベロ905kmの旅 予約がきかず出発からつまずく≫
 ブラジルの新聞には、パッケージ旅行や広告が所狭しと並び、書店には旅行雑誌が氾濫している。しかし、列車旅行はごくわずか。友人に聞くと、「危ない」、「貧しい人の乗り物」と敬遠されがちだ。それでも、渡伯後から一度は列車に乗ってみたいと思っていたのだが、その気持ちに応えてくれたのはヴィトリアからベロリゾンテまでの九百五キロの区間だった。実際乗ってみると、遅延、停電などのトラブルに悩まされて散々な思いはしたものの、当初描いていたイメージとは違い、温かい出会いの多い旅になった。(山口貴史記者)

 きれいな海や島、壮大な自然、古い町並、各地に点在する世界遺産。そんな観光資源豊富なブラジルで、列車の旅に魅力を感じていた。
 日本にいるときと比べて、めっきり列車に乗る機会がなくなったからだ。
 日本で過ごした少年時代は、よく五時間かけて伯母の住む町まで、駅弁を食べながら、列車に揺られて行ったものだ。
 見慣れた景色が次第に遠のき、山間部を抜け、トンネルをくぐる。
 乗換駅では、行商のおばあちゃんが待合室に座り、都市へ買い物に出かける中年女性が数人ホームに立つ。髷を結って浴衣を羽織った相撲力士とすれ違ったこともあった。
 単線をひた走る一両編成の列車に乗り換え、広大な平原を見ながら向かったものだ。
 こんな思い出が最近やけに懐かしく感じ始め、旅に出るなら「列車に乗ろう」という思いに駆られた。移民博物館の観光列車では物足りなかった。
 連邦地上輸送庁(ANTT)によると、ブラジルの鉄道は貨物列車を含めて全路線距離二万九千三百十四キロも延びている。その内ほとんどが貨物輸送用の路線。
 観光用に限っては路線距離がわずか千十四キロ足らずだが、聖州のカンピーナスからジャカレイ、ミナスジュライス州サン・ジョアン・デル・ヘイからチラデンテス、パラナ州のクリチバからパラナグアなど近距離で観光としても身近に利用できる列車は豊富だ。
 しかし、せっかくなら長時間でゆっくりと思って見つけたのが、ヴィトリアからベロリゾンテまでの九百五キロの区間だった。所要時間は十三時間。
 この区間は観光列車とは違って、日常の足としても利用されているため、予約は必要だが、十五両編成の車内は乗客でごった返している。
 高鳴る気持ちを押え、予約のため鉄道を所有するバリオ・リオ・ドセ(CVRD)に電話したのが一か月前。しかし、「電話予約はできない」という返答に少々落胆。心配が先行してしまった。
 目的はあくまで列車に乗ること。現地に行って満席なら意味がない。結局、予約方法が思い当たらないままヴィトリアへ向かった。
 サンパウロから東北東に約九百五十キロ、空路で一時間十分ほど。石群が広がる奇抜な地形を眼下に臨みながら午前八時、眠い目をこすってヴィトリア空港に到着した。
 先走る思いを押えながら、町での用事を済ませ終えた時、時間は午後四時四十分だった。いざ、チケットの売っている市内にある始発駅のカリアシカ駅(ペドロ・ナラスコ)へ。
 コンクリート屋根の下にわずか百坪ほどしかないだろう小さな待合所の駅に到着すると、犬が一匹飛び出して来るのを見ながら、門を閉める駅員に遭遇し、あせった。「ちょっと待って」と声をかける。
 無理やり門をくぐり、売り場へ向かったが、時すでに遅かった。涙と思いたくなるような、大粒の汗をぬぐいながら気がついた。
 今日、土曜日だったことを忘れていた。(つづく)
(写真:ゴベルナドール・バラダレス駅で発車を待つ列車)
2007年5月15日付け

ミナスゆっくり鉄道の旅(2)
≪心優しい「お母さん」の言葉 遅れて出発した車内は停電≫
 「いい旅を祈って」――。結局、友人の親戚に頼んでチケット購入をお願いした。出発の三日前だった。
 月曜日、チケットを無事購入。その日のうちに細長の白い四角いチケットを受け取った。
 窓に打ち付ける強い雨音も気にならず、「磁気の入ってる日本の切符と違い、やけにシンプルだな」などとホテルのベットの上でチケットを眺めながら考えていた。
 運賃は、ヴィトリアから終着駅のベロリゾンテまで特別席(EXECUTIVA)で六十レアル。エコノミー席(三十九レアル)もあったのだが、「座席が狭く、行商人が多いため通路などに荷物が並んでいて落ち着かないよ」と聞いた。おまけに真夏でクーラーなしの十三時間(六百六十四キロ)はきびしいと思い奮発した。
 リオドセ社によると、年間利用者は約百十万人。乗客の多くは、バスよりも安い値段に引かれて列車を利用する。バス会社のイタペミリン社で同区間が最低六十レアルというから、「列車は貧しい人の乗り物」というイメージは、間違いではないかもしれない。
 出発当日、定刻午前七時発の列車に乗るため、駅に向かった。この路線は上下とも一日一本しかなく、逃せば次はない。
 町の温度計は二十八度を表示、大雨だった前日とは違い、暑い太陽の日差しが照りつけていた。
 駅へは定刻三十分前に到着した。駅の待合室にはすでに改札を通る列ができ、大きいトランクをもった家族連れ、大きな布をかぶせて荷物を運ぶ行商人、見送り者など人であふれ返っていた。
 ほとんどの人が褐色で、その中に白人がちらほら。東洋系は、十五車輌ある列車の通路を端から端まで歩いてみたが、見かけたのは特別席でスーツを着た恰幅(かっぷく)のいい若者一人だけだった。
 定員三百人の車内に東洋系は彼と私たち二人だけ。「世界最大の日系社会、ブラジル」とはいうものの、この割合こそが本来のブラジルの人種比率である。リベルダーデとは大違いだ。
 「ほら、あんたたち前に行きな!こっち空いてるから」。
 コラチナ市(エスピリート・サント州)に住む祖父母の家に行く息子を見送りに来た、赤いシャツを着た褐色の「おかあさん」が列を譲ってくれた。
 「あなたたち初めてなの。景色はきれいだし、車内は安全。いい旅になることを祈ってるわ」。
 言葉が身にしみた。引き締まる思いがした。期待と心配が入り混じっていた時に、かけてくれた「おかあさん」の一言は心暖まるものだった。
 別れを告げ、改札をくぐり、「Aの一七番」に向かった。
 「ゴゴゴー」という発車を待つ列車のエンジン音と乗り込もうとする乗客のざわめきがプラットホームに轟く。緑色を背景に白のペンキで駅名が書いてある看板は、背丈ほどの高さしかなく、存在感がなかった。
 始発駅のホームにしては、売店もイスもないため、日本の田舎の駅のようだった。
 時刻は定刻五分前。席のある最前列車輌「A」へと走った。入口で切符を見せ、ようやく乗車。同時に、「ボォォーー!」と発車を知らせる低い音の汽笛が鳴った。
 座席を見つけ、荷台にバックを置き、座ってホっと一安心。
 ところが、出発の気配がまったくない。突然、エンジンの音が止まった。
 後でわかったが、原因は電気系統のトラブル。結局、周囲がざわめく中、定刻より十二分遅れで発車した。しかし、室内の電気は止まったまま。旅の不安がよぎった。
 遠ざかる町の景色なんか観ることができず、いきなり山間に電車がさしかかった。(つづく・山口貴史記者)
(写真:大勢の乗客で込み合うカリアシカ駅のホーム)
2007年5月16日付け

ミナスゆっくり鉄道の旅(3)
≪30年前のルーマニア製の車両 窓ガラスには未だにナタールの飾り物≫
 ヴィトリアに鉄道ができたのは一九〇四年、イギリス人によって作られた。しかし、ベロオリゾンテまでの六百六十四キロが開通し、貨客列車としての利用が始まったのはそれから八十八年先のことである。
 今回乗った列車は、一九七〇年代に輸入されたルーマニア製だった。側面は、窓枠を囲むオレンジ色と濃い赤紫色の二色に分かれ、ところどころ重ね塗りの跡が見える、なんだか歴史を感じさせてくれる列車だった。
 乗った最前列車両は満席だった。真中の通路をはさんで両側に二人がけの席がずらりと並ぶ。ショックだったのは、いまだにクリスマスのデコラソンが外面に張られたままだったため、細かい黒い粒が窓一面に広がり、さらに前日の雨の影響で残った水滴が車窓を遮り、外の景色はわずかな隙間からちらっと見える程度。窓にベタッと張り付き、目を凝らして見るしかない。わざわざ景色を見るためにはデッキに出る手間がかかる。旅の醍醐味、「車窓の風景」を見ながらロマンを感じて見たかったのだが。
 出発して数分後、車両内に電気が戻り、クーラーも動き出した。先は長いし、とりあえず列車内を散策してみた。特別席二両、エコノミー席十一両、内一両は、障害者用として手すり付きの座席に広い通路が設けられていた。特別席とエコノミー席の違いは、席の幅の違いと車内販売が廻ってくる程度だった。
 そのほか、七両目あたりには、ステンレスで囲まれたバールのような売店があり、そのすぐ後ろの車両はテーブルが並んだ食堂車だった。国土が狭い上、新幹線が登場した日本では、食堂車は減った。実際、食堂車を見たのは生まれて初めてだった。
 席に戻り、友人に列車内の様子を話していた時、右斜め前に座っていた鋭い目をしたセリアさんと白髪交じりで温厚そうな顔つきのアントニオさんの老夫婦が声を掛けてきた。
 「列車はバスなんかよりずっといいわよ」。
 老夫婦は、ヴィトリアから六時間かかるゴベルナドール・バラダレス(ミナス州)に住む親戚に会うため、一か月に三回列車を利用する。その日は、孫のマテウスくんも一緒だった。
 「こうやって妻と一緒に出掛ける旅が老後の一つの楽しみだよ」とアントニオさん。
 ウジミナスを定年退職した彼は、私に好意的だった。当時同僚だったのだろう日本人の名前を連呼し、「スシ、ヤキソバ大好きです」となんともシンプルな方法で気さくに話し掛けてくれる、彼のやさしさが嬉しかった。
 老夫婦とは、アメリカに出稼ぎに行った人たちが帰国し、ドルが一気に流入して発展したというゴベルナドール・バラダレスの歴史や日本文化の話で盛り上がった。
 そういえば、「六十歳以上はエコノミー席が無料なのに、特別席は差額ではなく、どうして全額払う必要があるんだ」と不満をこぼしていたっけ。
 州境のアイモレス駅(ミナス州)に差し掛かったあたりから、黒いシールはついたままだったが、窓の水滴が完全に取れ、外の景色が見えるようになった。
 線路と平行して流れるドセ川には、濁流が流れ、前日の雨の影響で水位が増していた。その水流は、周りの自然を凌駕するかのような存在感をもって現れた。(つづく・山口貴史記者)
(写真:エコノミー席は多少座席が狭かった)
2007年5月17日付け

ミナスゆっくり鉄道の旅(4)
《食堂車の味はそこそこ 興味尽きない車内の人間模様》
 ゴベルナドール・バラダレス駅では約十分間停車した。列車の揺れに酔ったおばさんが、外に出て息を整えていた。
 町が大きいせいか、乗客の入れ替わりも激しかった。
 前の席には、白人の初老男性と若いモレーナが乗車し、いきなり愛情表現が始まった。友人と二人で、不倫カップルなんじゃないかと想像をふくらませた。
 後ろの席には二人の中年女性が乗り込んだ。携帯電話で「サンダルと服を作る場所はないの」と大声で商売談義に夢中の様子。
 この二人のうちの「ふくよかな女性」はとにかく食べてばかりだった。持ち込んだお菓子はもちろん、車内サービスでサウガジーニョを一時間おきに注文。それでも、無愛想ながら「あなたたちも食べない」と周囲を気にかける気さくな性格が意外だった。
 ゴベルナドール・バラダレス駅を出発した時、午後二時を回っていた。すでに予定より一時間ほどの遅れ。この程度の遅れは、知事待ちの二時間遅れで始まるイベントに比べればたいしたことはない。
 そろそろお腹も空きはじめたので、食堂車へ向かった。ちょっと遅い昼食だ。
 私たちは、トウモロコシの粉とフェイジョン、揚げた豚肉をまぜたミナス料理フェイジョン・トロペイロ、チーズとトマトソースがかかった牛カツ、白飯などが入った「フィル・アパレメシアーナ」を注文した。十五レアル程度だった。味はまあまあだったが、冷凍食品を解凍したのか、少々水っぽかったのが残念だった。
 食事の間、車窓の風景を楽しんだ。座席とは違い、黒いシールがない分食堂車からの風景は鮮明だった。上流に進むにつれ流れに勢いが増すドセ川と百八十度広がる緑いっぱいの山々が織りなす車窓からの景観が続く。
 日本で眺める車窓の景色とは、奥行きが違う。長年住んでいながら忘れかけていたブラジルの雄大さをあらためて感じた瞬間だった。
 一眠りをして目を覚ますと日が落ちかけ、列車は山間に差し掛かり、山脈を登りはじめていた。 寝ぼけ眼の顔をこすりながら、体のだるさを感じた。数時間も外気を吸わずにいたせいだろう。
 風が吹き抜けるデッキへ顔を出すと、「了解、わかった。こちらも照明の心配はない」と無線で話す作業着を着たアチーリョさんが、電気系統に問題がないか心配している様子だった。
(つづく・山口貴史)
(写真:食堂車で窓の外の風景に目を向ける乗客)
2007年5月19日付け

ミナスゆっくり鉄道の旅(5)
往来激しい貨物列車 客車も休日・連休は満席状態》
 アチーリョさんは、リオドセ社に入社してから今年で十九年目となる。そのほとんどの期間を技術者として列車内の業務に従事してきた。
 「横を通る貨物列車が運ぶ鉄鉱石の灰が車内に入ってきてなあ、体に悪くてしょうがないよ」。
 乗車中、何度もミナス州の奥地から鉱石を運んでくる貨物列車とすれ違った。列車の往来が激しいのは、実際に乗車して実感した。列車が通過するたびに、大きな騒音が窓を突き破るように入ってくるので、落ち着いて寝ていられない。
 アチーリョさんは話題を変えた。「貨物列車より貨客列車はコストがかかって困るよ。人件費があるから特にね。それに給料も上がらないし」。
 淡々と話す口調が、苦労を物語っているようだった。
 半日は列車の中で過ごし、上下とも一日一便しかないため、すぐに自宅に帰れない。週三日家族に会えればいいほうだという。
 「休日や連休は忙しくてたまらないよ。毎週満席になってるんじゃないか」と話を続け、眉間にしわを寄せた表情で軽く記者の右肩に手を置いた。今でも、あの苦い表情は忘れられない。
 と、会話を弾ませている間にも列車は「鉄鋼の谷(バーレ・ド・アッソ)」と呼ばれる地域に近づいた。
夕暮れ、イパチンガ市のインテンデンテ・カマラ駅を通り過ぎたあたりから小雨が降り始めたが、デッキを吹き抜ける風は気持ちがよかった。
平均時速五十三キロで走行する列車は、谷間に広がる鉄鉱石の採掘場に差し掛かる。現場の労働者がこちらに手を振ってきた。
 通り過ぎる景色には山の斜面に鉄鉱石が見え隠れし、工事現場には丸型の十数両編成の貨物車両が停まっていた。
 途中、採掘場を抜けた先にある平原には牛飼いが数十頭の群れを連れて歩いていた。
 別の牛の群れが前を横切り、列車が緊急停車したこともあった。こちらの遅れなんてお構いなしにのうのうと歩く姿といったら、なんてのどかな情景だろうか。デッキにいた乗客はだまって牛の通過を見届けた。
 せわしく動く日本では、牛が通過したら列車内でざわめきが起きるだろう。日本の地方新聞は「もってこいのおもしろネタができた」と大騒ぎになるに違いない。
 十人十色の乗客たちは、列車内で思い思いの時間を過ごす。
 ずっと寝続ける人もいれば、車内サービスの菓子やサウガジンニョをたらふく食べる中年女性もいる。座りくたびれてうろうろ動く初老男性、デッキに行ったきり戻らない若者もいるし、喧嘩を始める夫婦もいる。走り回ったり、イスの上を飛び跳ねる子どもは元気なものだが、旅の後半はぐったり鼻息立てて寝てしまった。
 停電や山中に一時間以上停止したといった問題が起きた時、自然に周囲と仲良くなって協力しあうのも、旅の面白さだろう。
 それにしても、さすがに十時間以上も列車に乗っていると、始発駅からの人、途中乗車の人、みな親しみを感じるようになるものだ。
 寝ている人を気遣いながら、近くの人と小声でたわいもない話を繰り返す。目が合うと、笑みをこぼしながら、お互い「おつかれさま」と合図をかけているようだ。
 長距離列車の旅が減った日本では、列車は通勤の足として使われるだけで、旅をする乗り物ではなくなりつつある。温かい人情が包み込む車内というのは、日本でそう見かけることができるものではないだろう。(つづく・山口貴史記者)
(写真:丸型の貨物車両が採掘現場近くに停まっていた)
2007年5月22日付け

ミナスゆっくり鉄道の旅(6)
≪標高二千mの山岳地帯を走行 ブラジル人との出会いと別れ≫
記者の周囲には、斜め前に座っていたカルロスさん夫妻の娘で、一歳四か月になるダンダーラちゃんというアイドルがいた。元気な彼女は、小さな体でちょこまか歩き回っていた。途中転びそうになる姿を、みなヒヤヒヤしながら見ていたものだ。まるで、コメディーショーを観ているようだった。
 しかし、元気に動き回るわりには社交性がない。「こっちにおいで」とみな声をかけるが、人の顔を見て逃げていく。一方で、食べ物をあげる時だけ寄ってくる。なんとも、したたかさにも愛らしさのあるところが憎めない。
 一方、姉のリヂアちゃんは、五歳であるにもかかわらず、落ち着いていた。ほとんど席を立たずに本を読む。妹のちょっかいにも、「やめて!」と一喝。姉としてのプライドを幼いながらに感じていたのだろう。
 この姉妹の両親であるカルロス夫妻は、帰省先だったレスプレンドル駅から乗車した。最初はほとんど話す機会もなかったが、時間が立つにつれ、些細な会話を繰り返すうちに自然と仲良くなった。
 「先祖はアフリカ、奴隷の子孫なんです」というカルロスさんは、こちらがかしこまってしまうくらいの渋い声に特徴があった。感情の起伏を感じさせない低い声、トーンが決して変わらない。まるでNHKの松平定知アナのようだった。「そうかなあ、でもよく司会者になればと言われるけど」と周りもその声に惚れ惚れしているようだ。
 ミナス連邦大学を卒業したカルロスさんは、現在ベロ・オリゾンテ市内で公立高校の英語教師をしている。お互い、両国の教育システムや歴史の話で花が咲いた。「いつの時代も勉学の魅力を伝えるのが教師の仕事なんだろう」と語っていた。
 そんなまじめで冷静沈着に見えたカルロスさんも、サッカーの話題になると少々興奮。
 「再びアトレチコ・ミネイロの時代がくるから、見ててよ!」。ブラジル人のサッカー熱の強さをあらためて感じた瞬間だった。
 標高二千メートル級の山々が連なる山岳地帯。空中に浮かんでるような山と山をつなぐ巨大な橋をいくつも通る。
 日もほとんど落ちかけていた午後六時頃、ベルゴ・ミネイラ社の巨大な製鉄所があるジョアン・モンレバーデ駅を通過した。薄暗い景色に、同じ形をした様々な色の壁の家々が、斜面に横一列で並んでいるのが見える。中心部には白壁の教会があり、町の高台には工場から白い煙が黙々と立ち込めていた。
 人口約七万人のジョアン・モンレバーデは、十九世紀後半に鉱石掘りの労働者によって築かれた。町の住民にとって州都まで延びる鉄道は、生命線のような存在なのだろう。
 日も落ち、外は家の明かりと街灯だけ。ドイス・イルマンス駅を通り過ぎ、いよいよ終着駅ベロ・オリゾンテに近づいた。疲労はピーク、到着を願った。しかし、そんな心を踏みにじるかのように、列車は急に止まった。
 「住民が外から投石してきます。カーテンを閉めてください」とのアナウンスが入った。デッキに出ることも禁じられた。さらに、投石注意と言いながら、そのまま一時間停車した。まったく、最後は散々だった。
 午後十時、予定より二時間遅れでベロ・オリゾンテに到着した。
 十五時間の長旅だった。素晴らしい景色と心温まる出会いのあった列車の旅に十分満足した。
 もう、しばらく列車に乗りたくない。(おわり・山口貴史記者)
(写真:終着駅で別れとなったカルロスさん家族)
2007年5月23日付け



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