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ドミニカ移住者への日本政府からの慰謝料支払い開始。当地ZERO HORAに広告掲載。
当地ポルトアレグレの総領事館は、2005年末で閉鎖され2006年1月からはクリチーバ総領事館の出張駐在領事事務所となっていますが、在留邦人保護、領事事務等はそのまま継続して受けられる事になっています。
1月19日付けの当地最大の発行部数を誇るZERO HORA紙に略、半ページを使った下記内容の広告が出されています。
ドミニカ共和国に移住した日本国民に告げる。(大見出し)1956年から1959年までにドミニカ共和国に移住した日本人に対し臨時補助金(慰謝料)を支払う件。2008年1月31日までに届け出た1962年3月19日までにドミニカを出て日本に帰国または他の国に再移住した者、1963年3月8日までに直接南米諸国に再移住した者に対して一人当たり50万円の基本補助金を与えそのままドミニカに残った者には120万円を与える。
申請受付は2006年末より始めており支払いは、2007年2月初めに予定されている。
約束の地 ドミニカ移民45年に記載されている概要と小泉首相のドミニカ移民訴訟の代表者への謝罪記事を見付けましたので一緒に掲載して置きます。写真は小泉首相のドミニカ移民代表への謝罪写真です。


このドミニカからブラジル南部のポルトアレグレ管区に再移住して来た移住者は、当地南日伯援護協会の事務局による情報では南2州の管区内にも4-5家族がおられるようです。
金額の多寡の問題でなく国策として送り込んだ移住者への国の責任としての補償金が支払われるのは今回が初めてですが、ドミニカ同様、それ以上の辛酸を舐めたブラジル国内特にアマゾンの移住地で苦労された方たちにもこの恩恵が与えられるのかどうか?移住は人生の選択で自分の意思で行われるべきだとの私見を持っておりブラジル移住という選択枝を与えて貰えた事に感謝していますが(10万2千円の渡航費の一部を免除された)杜撰な移住地選択で苦労された同船者もおられ複雑な気持ちです。
2007年の5月31日付けニッケイ新聞メルマガには下記の通りドミニカに移住しブラジルに転住(1963年3月サントス着)日本を出てから50年の85歳になられる八巻たつさんの手記が掲載されていますが、ご自分の移住という選択を肯定しておられ現在は悠々自適の生活を楽しんでおられるとのことで嬉しく思います。ブエノスアイレスの近郊のヴィジャーエルーザでゲートボールを嗜みながら生活を楽しんでおられた矢張り元ドミニカ移民の方がボリビア経由現在の地に落ち着くまでの苦労を感謝しておられたのを見て感動しましたが、これら多くの方にも僅か50万円でも日本政府からの謝罪の気持ちが届けばと思います。
約束の地 ドミニカ移民45年に記載されている概要と小泉首相のドミニカ移民訴訟の代表者への謝罪記事を見付けましたので一緒に掲載して置きます。

2007年5月31日付け ニッケイ新聞メルマガより。
85歳女性=元ドミニカ移民の手記――日本出て50年、今イタクァで自適=〃入植〃の一夜明けて=薪拾ってご飯炊く
 ドミニカからブラジルに再移住した人たちは少なくないが、どうして再移住したのか、記述する人は少なかった。日本で先年、訴訟があったほど「ドミニカ移住が悲惨だった」にもかかわらずである。このほど、再移住組の一人、八巻たつさん(85、イタクァケセツーバ在住、農業)の手記を入手できたので、つぎに紹介する。八巻さんは、日本を出てから五十年。ブラジル生活四十四年、苦闘を強いられたドミニカ生活は六年三ヵ月におよんだ。
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 一九五七年二月五日、生まれ故郷を後に、横浜斡旋所を出発して、横浜の桟橋から「あふりか丸」に乗船しました。ドラの音が鳴り終わると、吹奏楽団の「蛍の光」の演奏です。五色のテープの波が切れ母国を離れた時は、胸が一杯になり涙で頬を濡らしました。見送りの人の姿が見えなくなるまで埠頭を眺めていました。
 生まれてはじめて乗った船。夕飯は赤飯と頭つきの鯛焼をご馳走になって、同船の皆さんも楽しそうでした。次の日からは誰もが船酔いして、食事する人も少なく四、五日過ぎました。その後、船の中の日課がはじまりました。船酔いする者が少ない子供たちは日本語学校へ、大人たちはスペイン語の勉強です。
 ドミニカまで一カ月の航海で、船の中ではダンスやら演芸会、運動会など、いろいろの催し物があって楽しい旅でした。パナマ運河を通過するので、その風景を見ようと朝早くから、甲板にでて、水平線より太陽が昇るのを見とれて、何と表現して良いのやら感激しました。
 有名なパナマ運河を肉眼で見ることができました。素晴らしい仕組みになっていました。夢にも見たこともない運河を通過すると、クリストバルの港です。荷物を上げたり降ろしたりする人夫が黒人ばかりだったのも驚きでした。
 三月七日、待望の島が見えてきたので、甲板に出て眺めました。ドミニカ国がだんだんと近くに見えてきます。気持ちがなんとなく落ち着きません。午後の三時頃になると、陸地がだんだん近くなって、船は水先案内の船に先導されてトルヒーリョの港に着岸しました。
 港には第一次で入植した方たちが迎えにきて下さっていたのですが、厳しい太陽に焦がされて、日焼けした姿で、日本人か現地人か見分けが付かないほどに黒かったので驚きました。船が錨を降ろし上陸です。荷物が船倉から出てきたので、税関検査が始まりました。検査が夜までかかったので、また船に上って最後の一夜を過ごしました。
 三月八日は、船での最後の朝食をご馳走になって、弁当もいただき、タラップを一歩一歩踏んで下船です。荷物の検査が全部終わるまで待って、船員さんやブラジル、アルゼンチンに行かれる方たちに見送られ、午後の一時頃、三台のバスに乗りました。サント・ドミンゴから三百キロも離れているハイチとドミニカの国境にあるダハボンという所に向かったのです。最初、車窓のドミニカは誰もが珍しく、移り変わる景色を眺めていました。そのうち、バスに揺られて寝てしまった者もあれば、唄を歌っている人もいてさまざまでした。外は暗くなってきて、長い旅も終わろうとしていました。
 待ちに待ったダハボンの町に到着です。小さい町でした。バスから降りてダハボン地区の市長さんや神父さんから歓迎の言葉をいただき、ドミニカで暮らすのに必要ないろいろな注意を受けてから、自分たちの住むコロニアに向いました。
 ようやく夜もふけた十一時、日本人のコロニアに到着です。集合所には、海協連の横田さんと第一次で来ておられた会長さんが迎えて下さいました。これからの生活にそなえたお話を聞いてから、自分たちが入る家の鍵をいただいて、暗い中を探し廻って、ようやく見つけることができたのです。
 入って疲れた体を休めようと思いましたが、雨が降ってきたので、集会所の廻りに置いていた荷物を家に運んだりしました。結局、一睡もしないうちに、東の空が明るくなってしまいました。お腹も空いているので、ご飯の仕度をしようと思っても、水道もありません。道の下の方を流れる川の水を汲んできて、薪を拾ってきてご飯を炊きました。家族で食べたので、お腹も一杯になりました。その後で、それぞれが自分の荷物の片づけをしたのです。
 二日目、海協連の横田さん一行が来られて、土地の配分の話をされました。移民契約書に書いてあった十八町歩の土地は配分されず、ドミニカ政府が、現地人が今まで耕作していた土地を取り上げて、日本人に配分したのです。(つづく、八巻たつ)
85歳女性=元ドミニカ移民の手記――日本出て50年、今イタクァで自適(下)=配分の3町歩は痩せ地=3年働けど増えた赤字
 第一次で入植した方たちも、約束の十八町歩はないが、開墾ずみの土地を配分されたようでした。コロニアの近くで土地も肥えているのです。私どもと同じ三町歩(五十タレッファ)の土地ではありますが、水の便利も良いようでした。
 第二次で入植した私どもは、同じ三町歩でも痩せ地なのと、コロニアから三キロも離れているのでした。新天地に希望を燃やして仕事に取り組んだが、配分地に通うのに乗り物もないので、毎日歩いて、照りつける太陽の下で真っ黒になって働き続けました。
 石の上にも三年という諺があるように、黙々と働き続けましたが、入植して三年以上過ぎても生活は安定せず、働けど働けど赤字は増えて行くばかりでした。
 一九六一年五月三十日、トルヒーリョ元帥がホアン・トマス前将軍の一味によって暗殺されました。トルヒーリョ独裁政権のときは、日本人のことは目に留めていてくれたのですが、暗殺されてからは事情がかわりました。毎日が戦々恐々で、移住者の中から「帰国運動をする」と言って、領事館に交渉に行く人も多くなりました。
 また、他国に移動させてくれと言っている人たちも多く、毎日が仕事も手につかない状態でした。移住者が動揺しているので、現地人までが、自分の土地を取り上げようと騒ぎだしたのです。
 それからというものは、個人で領事館に行って、国援法で帰国させてくれと交渉した人たちが、帰国するようになりました。私たちも動揺しました。でも落伍者になって国援法では帰国したくないので、現地人の土地を借りて仕事をしたのです。
 国援法でなく、金を儲けて自費で帰れるようにと祈りながら辛抱してきましたが、二年に一度の旱魃です。自分のところは水田なので、水の心配が絶えません。夜は水引きに毎晩主人と交代で、三キロ離れている水田まで通い続ける、夜は現地人も水田に水引きにくるので、しょっちゅう喧嘩となる、どうしても現地人の方が優先的になるので、ドミニカ政府に交渉して水門を作ってもらっても、やはり現地人がずうずうしいので、喧嘩が絶えないのです。
 日本人たちは困りました。日本政府に交渉しても何の効果もありません。トルヒーリョ元帥が暗殺されてからは、水引きに行っては現地人にスコップで頭を殴られたり、いろいろな面において迫害を受けるようになってしまいました。ドミニカ国のダハボン地区では農業ができなくなったのです。
 再度、日本政府と交渉したら、海協連から連絡があって、日本政府の予算が無いので国援法は適用することはできないが、国外転住ならできるという通知を受けて茫然としてしまいました。
 将来性の無いドミニカ国では、これ以上良くなる可能性はないので、私どもは先が真っ暗になり、毎日不安定な日々が続きました。
 その後、領事館の役人が一軒一軒訪問して、どこの国に再移住するかと尋ねました。私どもはどこの国がいいか分からないのだと話したら、ブラジルのことを説明したので、決心がついて、希望を持って新しい国に行くことにしました。
 六年と三ヵ月も頑張り通してきたドミニカをすっかりあきらめて、新天地ブラジルへと転住する決心もついて、それからは準備に追われました。
 いよいよブラジルに出発する日がきました。朝早くコロニアに残る人たちに見送られ、ダハボンを出発、車はサント・ドミンゴへと走りました。
 次の日は、朝から港に行き船の着くのを待ちました。ようやく午前十一時頃「さんとす丸」が着岸しました。上陸する人、乗船する人の波も静まって、今度は私どもが乗船して、午後五時に出航しました。ドミニカから一週間の船旅で、憧れのブラジルに着いたのです。
 一九六三年三月二十八日午前八時頃、サントス港に着岸しました。この日が、私どものブラジルでの第一歩のはじまりでした。
 タピライのお茶の植えつけのはじまる耕地に入ってみましたが、子供の学校のことが心配で、そこから早く抜け出して、サンパウロに出ました。イタケーラの谷口清さんの養鶏場で歩合をして儲けさせてもらってから、土地を探すために村中武さんの兄さんの土地に入って桃の歩合をさせてもらいました。現在の土地を探し求めて、村中さんにいろいろとお世話になって、現在にたどりついたのです。
 ここまでたどりつくまでには並大抵の苦労ではありませんでした。簡単に書きましたが、毎日が死活のかかった日々でした。金も無ければ、知恵も無い、無学な者なので無我夢中で働き続けたのでした。
  (おわり 八巻たつ)


約束の地 ドミニカ移民の45年記載より。

1956年から59年にかけて、日本政府の募集に応じて、全国から約250家族、1300人がドミニカ共和国に移住した。募集の内容は最大18ヘクタールの優良な農地を譲渡するというもので「カリブ海の楽園」がキャッチフレーズだった。

 しかし、ほとんどの場合、実際に配分された土地は約3分の1から半分。その多くが耕作に適さない荒れ地で、しかも土地の所有権はなかった。全く土地が配分されなかった人もいた。

「地獄の1丁目」と呼ばれた土地で多くの人が農奴同然の生活を強いられ、自殺者も出た。

 日本政府は61年から集団帰国を実施、約8割が帰国か、南米のほかの国に再移住した。、しかし、残れば約束の土地が手に入ると言われたり、集団帰国を知らされなかったりして、約50家族(当時)残った移住者たちは「謝罪と補償」を40年以上、日本政府に求め続けている。


小泉総理 ドミニカ移民に謝罪
小泉総理大臣はきょう、総理官邸で、ドミニカ共和国への移民政策をめぐり、国に損害賠償を求めていた原告団の代表と面会し、謝罪しました。これに先立ち政府は、移民政策に関し「率直に反省し、お詫びをする」などとした総理談話を閣議決定し、今後、全ての移住者に対し1人当たり最高200万円の特別一時金を支払います。



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