あるぜんちな丸第2次航の東 博之さんにお会いしました。
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あるぜんちな丸は1958の処女航海から1971年の第40次航海まで合計10816人を南米に運んでいますが、私たちの第12次航より10航海前の第2次航海の先輩移住者の東 博之さん65歳にマナウスのリバーサイドホテルでお会いしました。昨年1月にリバーサイド訪問時には高橋 雄一さんに案内をして頂きましたが、今回は東さんにアマゾンの落日を見るために小舟で灯台の近くまで同船頂き色々お話を伺う機会がありました。
東さんもマナウスにある日系旅行社のATS-TURの日本人専用のガイドをしておられ仏式の葬儀を取り行う僧侶のお仕事、俳人としての趣味の世界と広い活動範囲をお持ちの方でした。
写真は、リバーサイドで夕食時に撮らせて頂いたものです。
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東 博之さん(雅号 比呂)1942年9月13日生まれ、石川県出身。ご両親と兄弟3人合計5人家族で1958年9月のあるぜんちな丸第2次航で移住、船内で16歳の誕生日を迎えられたそうです。父親の東 竜次さんが石川県の雪の深い白山の麓に住んでおられた時に移住を人生の選択の一つとして思い立ちドミニカに移住する手続きをしていたがトラホームが完治していないとの理由で乗船出来ず目の治療のために日本に残っている間にドミニカ移民が停止されて行けなく成った事から既に財産処分等もしていたとのことで独立自営農として入植出来る移住地を探した所、アマゾンのマナウス近郊40kmにエフゼニオ・サーレスと言うアマゾナス州が造成した移住地があることを見付けだし、家族を上げてブラジルに移住する事になった。博之さんは、中学を出ただけで移住、16歳から一家の働き頭として母親を助けマナウスでは野菜が採れないと云われていた痩せ地を養鶏の導入(鶏糞)パラ栗の油を絞った油かす等を使用して土壌改良を施し見事な野菜を生産した。父親の竜次さんは、植民地の基礎を作る為の日本人会、組合等の仕事に力を注ぎ畑仕事は全て博之さんと弟さんがが担ったとの事で随分苦労されたそうです。ご自分が中学しか出ていないので子供達にはきっちりした教育を授けたいとの思いが強くエフゼニオ・サーレスの移住地の営農を17年後に弟さんに全てを譲りマナウスに出て町に住むようになる。3人の子供さんを全て大学まで勉強させたそうで長女の和恵さんは、医学部を出て現在お医者さんとしてベロオリゾンテで働いており長男の太郎さんは、現在HONDAアマゾナスに勤務しておられ次男の健次郎さんは、歯学部を卒業したが歯科医としての職業を好まず現在は、紳士服の販売店を経営しておられるとの事です。無医村に長く住んで苦労した事から子供の一人は医者にしたいとの強い気持ちが長女の和恵さんが医者を目指すようになった理由だそうです。
父親の竜次さんは、東本願寺の住職の資格も持っておられた所から14年前に78歳で亡くなるまで仏式の冠婚葬祭を引き受け、長くマナウスでの住職としてのお仕事をしておられたそうです。竜次さんの没後、博之さんも父親を見習い乞われるままに同行者として日本での研修も受け現在乞われると冠婚葬祭を引き受けておられるようです。3年前に82歳で亡くなられたご母堂の葬儀も博之さんご自身が行ったとのこと。
10年ほど前から好きな現在の旅行案内人(ギアー)としてATS-TURで仕事をしておられますが、矢張り好きで始めた俳諧の趣味、短歌でもブラジル俳壇で注目される存在でNHK俳壇、コロニアの俳壇でも何時も入賞、特選とかを獲得しておられるとの事で、下記をノートに書き込んで呉れました。
稲妻の後に大河の白き闇 比呂
天水を計りくみして育ちたる 子等が今移民祭を催す 博之
東さんご一家が入られたマナウス近郊のエフゼニオ・サーレスの移住地は、来年50周年を迎えるとの事で盛大な式典が行われる予定になっており飲み水がなくて遠くまで天秤で担ぎ運ぶ作業が大変だったそうで天水(雨水)を大事にしていた子供さん達がこの50年の移民祭を祝う事になっているとの気持ちを呼んだ歌がNHKで入選したとのことでこの歌が50年祭の記念誌を飾るのだと得意そうでした。
前回お会いした高橋さんにしても今回お会いした東さんにしても日本の中学を終えただけでどうしてこんない日本語を大切にしておられるのか不思議なくらいでその日本語による表現力の豊かさに感心します。
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