伯国の大地に生きる日本女性物語 (12) サンパウロ新聞WEB版より
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掲題のブラジルの大地に生きる日本女性物語の北伯、東北伯編を書いておられる吉永拓哉記者の第12回に登場したのが同船者の黒田順子さん(旧姓谷)です。順子さんとはあるぜんちな丸の第12次航の船内生活以前に移住思想啓蒙遊説で九州を訪問した時にもお会いしている。谷家が一家を上げて移住して来た元凶が私だと云われており私なりに責任を感じその後のブラジルでの定着の過程を見守って来ているご家族の一つです。早稲田ゼミナールの予備校時代に机をならべ早稲田を目指し無事早稲田の政経に一緒に入学した谷 広海君のお姉さんです。谷家も長男の出治さん、4男の充浩さん、お母堂の薫さんが亡くなられています。順子さんのマセオの町の靴専門店で撮られた若々しい写真がサンパウロ新聞に掲載されていますが、もう70歳になられるのですね。ブラジルの大地に生きた同船者のお一人45年の歴史が刻まれています。
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伯国の大地に生きる日本女性物語(12)サンパウロ新聞WEB版より
≪困難乗り越えた姉弟の絆≫
≪マセイオ店主の姿も板に黒田順子さん≫
「日本人がいない異郷の地で頼れる者は兄弟しかいなかった」――。サンパウロ市から約二千六百キロ北上したアラゴアス州マセイオ市で鞄専門店を営む黒田順子さん(七十歳)はこう振り返った。
彼女は宮崎市内で乾物屋を営んでいた谷家の長女として出生。七人兄弟の大家族だったが父親が若くして亡くなったため、乾物屋の経営がうまくいかなくなっていた。そんな折、日本学生海外移住連盟の実習生としてブラジルで研修し帰国した弟が、家族に広大なブラジルの魅力を話して聞かせたことが契機となり、一家でブラジル移住をすることになった。
一九六二年五月十一日、当時二十五歳だった順子さんらを乗せた「あるぜんちな丸」はサントス港へ到着。サンパウロ州ジャカレイへ入植した。順子さんはここで同じ移住地の黒田好昭氏と結婚し、二人は独立して同州タウバテで養鶏をやっていたが経営は困難を極めていた。
その頃、順子さんの弟は日本人が一人も住んでいない東北伯地方のマセイオ市でパステラリアをオープンさせ人気店となったが、働き手が不足していたため順子さんら兄弟をマセイオ市に呼び寄せようとしていた。
順子さんはポルトガル語が話せないブラジルの地では、兄弟と力を合わせて生活するより他はないと考えた。「妻方の兄弟から世話になるのは体裁が悪い」とマセイオへの転住に反対していた夫を説得した。
一九六八年、順子さんは好昭氏とともに二人の幼子を抱えてバスに乗り、タウバテから一週間かけてマセイオ市にたどり着いた。
同市では母親と七兄弟全員が一緒に一軒の借家で暮らしはじめた。
「兄弟の中には家庭を抱えていた者も多かったので、十八人もの人間が一軒の家で生活したんです」
その頃は兄が自動車整備士、妹がビジョテリア、順子さんらはパステラリアで働いた。兄弟たちは互いの収入を寄せ集めて貯金し、皆が生活費を切り詰めながら金を貯めた。一銭たりとも自由に使える金は持たなかった。
その後、順子さんらは弟とともに市の商店街へと引っ越してパステラリアを続けた。店はコカ・コーラの販売数が同市で一番になるなど好評を博したが、年中無休で開けていた店の仕事と子育てを両立させていた彼女は、目まぐるしい日々を過ごした。
マセイオ市はエメラルド色の海が広がる東北伯地方でも指折りの観光都市だが、彼女は「海なんて見たこともなかった。とにかく働くばかりで、ずっと室内に閉じこもりっぱなしだった」と回想する。
八〇年代になると商店街でビジョテリア、子供服店、鞄専門店を経営していたものの、後にブラジル経済の悪化に伴い事業を縮小。カメロー(露天商)が商店街に蔓延りだしたことや大型ショッピング・センターが建ったことなども影響して長く苦しい時代が続いた。
客足が再び多くなりだしたのはつい二年程まえのこと。市が商店街周辺を観光地化するために古い建物の整備を行い、カメローたちを追い払ったため再び商店街が注目を集めるようになったのだった。
「いろいろと困難なことが多かったけれど、兄弟全員が力を合わせたことで今日まで乗り切ることができた」という順子さん。一昨年には宮崎市に埋葬していた父親の遺骨をマセイオ市に移し、兄弟で護っている。(吉永拓哉記者)
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