伯国最南端の地に根下ろしたジャポネース サンパウロ新聞WEB版より
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先般リオグランデドスール州に取材に来られたサンパウロ新聞の山口貴史記者は、意欲的に取材をされブラジルの最南端シュイまで足を延ばされたようです。サンタビットリアドパルマールと言われる南端の街に米作り(水田)を目指して入植した刀称一家のお一人です。刀称さんご一家は、あるぜんちな丸第6次航で着伯されお兄さんに当たる刀称康弘さんは、南日伯援護協会の会長としてポルトアレグレ総領事館廃止反対のキャンペンの先頭に立ち頑張っておられたが健康を害し急逝、志半ばで惜しまれて先立たれました。お父上の勇さんは、南伯の長老としてサンパウロにおけるNHKのど自慢大会に最年長者、最遠隔地からの参加者としてシュイの町でドラム缶の五右衛門風呂に入っている所が紹介され一躍有名になられました。今回、ブラジルの最南端のシュイの町に住む唯一の日本人としてサンパウロ新聞に太さんが紹介されたことは大変嬉しいことです。
写真は、矢張り山口さんが撮られたサンパウロ新聞掲載のものを使わせて頂きました。
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伯国最南端の地に根下ろしたジャポネース サンパウロ新聞WEB版より
≪国境線が横たわる町シュイ たった一人で人気の刀称太さん≫
【シュイ・山口貴史記者】南緯三三度、ブラジルの最南端シュイに住む唯一の日本人、刀称太(トネ・フトシ)さん(五十九歳、北海道出身)を訪ねた。マフラーを首に巻いて、厚いコートを羽織り、こげ茶色のベレー帽をかぶった寒さ対策万全の刀称さんが、町のバスターミナルまで迎えに来てくれた。
ーNHKのど自慢に出演も 亡き父の墓はウルグアイ側に=@南大河州ポルトアレグレから南へ約五百キロ、ウルグアイとブラジルの国境線の上に位置するシュイは、道路の分離帯一つで両国を隔てる。妨げる山やビルもない平地のこの町を吹き抜ける冬の海風は、厚着をしても体に堪えた。
刀称さんは、国境線沿いで商店を経営している。店の前の道路を渡ればウルグアイ。人の往来が激しく、ブラジル人、ウルグアイ人、各国の旅行者が店に出入りする。
一時期は、土地の買い増しができるほどの売上げを出したと語るが、今は「売っても為替がついていかない」とレアル高を嘆く。
一九六〇年四月、「あるぜんちな丸」で渡伯し、隣町のサンタビトリアのサンミゲル移住地へ入植した当時は十一歳だった。
横浜港から出帆直前に富士山を見た。富士山頂を見た移住者は成功を掴むという迷信を聞かされ、ブラジル行きに少年の心は躍った。
配耕先に到着したのはいいものの、ヘビとスカンクばかり出る荒れた土地に加え、牛舎で寝泊り。この時、初めてノミを見た。学校には行けず、両親と兄弟とともに夜明け前から日没まで働いた。実家から見えた大雪山を毎日思い出し、帰国を夢見たつらい日々だった。
その後も両親の仕事を手伝い、十八歳から二年間漁船に乗った。稼いだお金は十トントラックの購入費に充てられた。宅配業を十年間。それから、リオ・グランデの市内バスの運転手もした。
職を転々とし、一九八二年現在の商店を開いた。土地購入のために帰化までした。外国人は国境沿いの土地を買えないという法律制定のうわさを信じて帰化したのだが、結局、法律は制定されなかった。
近年ともに過ごした父・勇さんが三年前に他界。勇さんはNHK『のど自慢ブラジル大会』に出場し、シュイまでやってきたNHKから取材を受けた有名人。ウルグアイ側に作った刀称家の墓に勇さんは眠っている。
父が他界し、シュイに住む日本人は刀称太さんだけになった。父が日系コロニアの有名人なら、刀称さんはシュイの有名人。知らない人はいない。町を歩けばみんな声をかけてくる。
「小さな町だからすぐ知り合いになるんだよ」。
シュイは人口六万人ほど。しかし、ブラジル側には六千人ほどしかいない。
商店の名前も「よく言われるから」と『JAPONES』と名付けた。地元の人は日本人観光客を見つけては、わざわざ店に連れてくるという。
日本には二度、ブラジル人として帰国した。故郷の北海道にも立ち寄ったが、ブラジル最南端在住の男は、パチパチっと木を焼く音が鳴る自宅の暖炉の前でこうつぶやいた。
「寒くていられるところじゃないよ」。
ブラジル最南端の集団移住地であるサンミゲル移住地へは、刀称さん一家を含めて三十家族ほどが入植したが、残っているのは刀称さんと隣町のサンタビトリアに住む一家族だけ。
「日本に一度も帰れずに亡くなっていった人をたくさん見てきた。それに比べれば」。
言葉が詰まった。決して過大評価をしない刀称さんの人柄がにじみ出た瞬間だった。
日曜日、祝日も店を開け仕事に精を出す刀称さん。今、いつかは日本で生活したいと夢を見ている。
(写真:商売に精を出す刀称さん)
2007年8月11日付け
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