半世紀ぶり帰国に笑顔ブラジル移住の浜北出身の男性 中日新聞WEB版(静岡)8月15日付け
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『私たちの40年!!』あるぜんちな丸第12次航681人の中に建設省所管の32人の産業開発青年隊員がいました。あるぜんちな丸第12次航には、産業開発青年隊員が一番大きな集団でしたが、その他にもコチア青年、南伯雇用呼び寄せ、豊和工業の野球移民(工業移民)、花嫁移民等家族としてでなく単身移住者多数乗船していました。(ちなみに私は早稲田大学を休学し東京都の農業移住者としてカッポンボニートと言う町の山本勝三さんの農場で働く雇用農でしたが呼び寄せだけで農場には行ったことがありませんでした)。産業開発青年隊の32名中、一部帰国者と死亡者6人を出していますが、20数名は現在もブラジルでお元気にしておられます。その内のお一人静岡県出身の野末 郁雄さん(66歳)が中日新聞のWEB版に写真入りで紹介されている記事を小山 徳さんが見付けて送って呉れました。45年振りの帰国、中学の野球部の恩師中沢先生(83歳)とは文字通り半世紀を隔てての再会となったそうです。
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中日新聞WEB版(静岡)8月15日付け
半世紀ぶり帰国に笑顔ブラジル移住の浜北出身の男性
ブラジルに単身渡った浜松市浜北区小松出身の男性が、約半世紀ぶりにふるさとの地を踏んだ。中学生のころに所属した野球部の顧問だった担任教諭が会いたがっているのを、野球部の後輩が知って捜し出した。12日にあった同窓会で懐かしい顔に囲まれた男性。「苦労したけど…。ここに来て昔に戻れた」と喜びをかみしめた。(報道部・河野貴子)
この男性は野末郁雄さん(66)。1957(昭和32)年に浜名中学校を卒業後、浜名高校の定時制で学んだ。異国での夢を抱いて62年、建設省(現国土交通省)の産業開発青年隊として1000人ほどとともに海を渡った。周囲の反対を押し切った。20歳だった。
現地で建設関連の技術を身に付けるために研修機関に入ったが1年で閉鎖に。職を転々とし、食いつなぐ日々が始まった。「ブラジルでの生活は建設省の宣伝とは違った」と振り返る。いつしか家族や友人らとの音信は途絶えた。
中学時代の野球部顧問で担任だった浜北区根堅の中沢一雄さん(83)は、移住した教え子のことを長年気に掛けてきた。白球を追っていた野末さんら野球部員は土日になると、くわを担いで中沢さん宅に行き、畑仕事を手伝ったりした。
「困っていやせんかな。死ぬ前に顔を見たいなあ」。常々そう漏らしていた恩師の思いを知ったのが野本浩さん(64)=川崎市。野末さんの2学年下の野球部員だった。一昨年秋から思いつく限りの手段を使って情報を収集。半年がかりでサンパウロ近郊に住んでいるのを突き止めた。先輩は野菜を売って、日本人の妻と3人の息子ら家族10人で暮らしていた。
野本さんらの骨折りもあり、野末さんは8日に帰国。浜北区のホテルで開かれた同窓会には中沢さんの姿もあった。恩師に家族の写真を見せ、長い空白を埋めるように語り合った。
「厳しかったけど、親同様にしてもらった」と野末さん。中沢さんは「会えて良かった」と教え子の元気な姿に目を細めた。同級生の1人も「小さい時のままですぐ分かった。活発で勉強ができる子だった」と喜んだ。
野末さんは日本で暮らす日系ブラジル人に自らの姿を重ね「いま、日本に来ているのは国策でブラジルに行き、苦労した人たちの子ども。差別せず、温かい目で見てあげて」と話した。
他県に住むきょうだいを訪ねたり、高校の同窓会に出たりして過ごし、9月16日に帰る。
(写真説明)半世紀ぶりに恩師の中沢さんと再会した野末さん(左)。思い出話は尽きなかった=浜松市浜北区のホテルで
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