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益子にお住みの山崎 元樹さんの自分史より「早慶戦」の思い出
メーリングリストの仲間で私と同じ紀元2600年(昭和15年)生まれの山崎 元樹さんは、6歳まで満州で過ごされていますがそれ以後は日本で早稲田卒業まではほぼ同じような昭和20年代の子供時代を過ごし日本とブラジルと生活基盤は違いましたが同時代を駆け抜けて来た同志のような親しみを覚えています。
山崎さんのホームページ【田舎暮らし&DIY】を紹介させて頂くにあたり早慶戦に焦点を合わせ山崎さんの子供の頃の早慶戦の思い出と大学に入学された年の私も通った安藤投手の6連戦の語りぐさを伝える早慶戦の項を寄稿集に残して置く事にしました。
写真は、山崎さんHPにある早大理工工経33年卒ホームページよりお借りしたものを使用させて頂きました。
続きは、山崎さんのHPでご覧下さい。URLは下記です。
www9.ocn.ne.jp/~inakadiy/


田舎暮らし&DIY
田舎暮らしの動機
私は東京生まれの東京育ちで田舎がありませんでした。就職した会社は銀座で6年後
工場のある静岡県清水市(現在静岡市)に移転することになり、私も田舎暮らしが出来る
と喜び勇んで家族と転居しました。当時、清水の家は富士山の見える高台で、周りは
茶畑で自然がいっぱいでした。しかし高度成長期以降茶畑は宅地、道路にと変貌をとげ
瀟洒な家が並ぶ街となり、DIYをするにも電動ノコの音に気を配る生活となりました。
そこで定年5年前に妻の姉が住む栃木県益子町に家を建てることを決意し、以降会社の
休みに年休を加え清水と益子を行ったり来たりする生活となりました。その間パソコン
の将来性に気づき独学でホームページを作れるまでになりました。
 そして37年の会社勤めを終え、念願の「毎日が日曜日の生活」に入り、現在、工具
の音も遠慮せずDIY三昧の生活と近隣の方々との交流に忙しい毎日です。
昭和20年代ー私の子供時代
私の子供時代昭和20年代から早60年が経過し、昭和は勿論戦後がどんどん遠くなって行く。
昭和を回顧するホームページは昭和30年代、40年代は数多くあるが昭和20年代はあまりない。
昭和20年代が子供時代という方は昭和10年代の生まれであり、長じてからもパソコンに
慣れ親しむ世代の前にあたり、パソコンで記録を残す方が少ない。
またこの時代の写真資料が少ないのは、カメラは高価で一般的でなかったことが考えられる。
こうした条件が悪い昭和20年代ー私の子供時代ーを書き残してみる。

早慶戦
子供時代夢中になっていたプロ野球は一度も球場に行った事がない。
しかし東京六大学早慶戦を見るために神宮球場には何回も出かけている。
昭和26〜28年頃(私が小5年〜6年)の頃、早稲田のファンであった母と叔母に連れられ
応援に行った。
昭和26年頃の早大は末吉、平古場がエースで末吉はアンダースローで小さな体(167cm
59Kg)をバネのようにしならせ投げ込んだ。
末吉は通算44勝をあげ、法政山中、江川についで第三位の勝ち星を挙げている。
慶大平古場は大阪、浪商で夏の甲子園で優勝し、慶大に進学後28勝、その内戦後初のノーヒットノーランをやっている。
昭和27年私が小6年の頃、早大は石井連蔵、慶大は河合貞雄、藤田元司がエースであった。
秋の早慶戦で石井は三試合連続で投げあいを慶大河合と演じ、2勝1敗で勝ち点をあげて3シーズン振りの優勝に導いた。
私はこの時の勝ち試合を見に行った。勝利の瞬間、頭上に大量の紙ふぶきが飛び交い目の前が何も見えなくなった。
耳をつんざく校歌の大合唱に自分もこの大学に入って学生席で応援をしたいと思った。
その後8年、昭和35年秋、早稲田に入学した私はあの歴史に残る早大安藤の6連投の早慶戦を学生席から応援することになる。

自分史 −写真でたどるー
 ある時突然、自分のこれまでの歩みを残しておきたいという気持ちになった。
私がこれまで住んでいた場所は七ヶ所で、その内の一つは海外(満州)、もう一ヶ所は現在地である。
この二ヶ所を除いたあとの五ヶ所はいまどうなっているのだろうか。この五ヶ所を訪ねて古い写真とくらべ、思い出、出来事を挿入していけば一寸変わった自分史が出来るのではないか・・・と考えたのが動機である。古い写真を探し、使用許可をもらって転載し、現在の写真は自分で取材、撮影をすることとした。しかしこれが大変な作業になった。必要な年代の写真がなかなか見つからず、古書の分野まで手を拡げることとなった。
東京、埼玉の撮影は三回に及び、静岡清水撮影一回と合わせて合計4回の取材撮影となった。

<早慶戦>
早稲田と慶応との間では古くから早慶戦(慶応では慶早戦という)があり、バレーボールも第一回は昭和10年(1935)に開催され、私の入学時では24回であったから現在は70回をこえている筈である。
しかし当時のバレーボールはマイナーで人気がなかったから、早慶戦といえども我々はチケットを売りさばくのに苦労をした。
やはり早慶戦といえば野球であり、春・秋リーグの最終戦となる早慶戦は練習を休み応援にいく慣わし
となっていた。
昭和35年(1960)秋の早慶戦は六連戦となり安藤投手の5試合完投で早稲田は優勝を遂げた。
この時学校は休校となり、我々は毎日神宮球場に応援に出向き、毎日試合後新宿に繰り出し騒いだ
ことを想いだす。所持金が無くなると安物の時計と角帽を質屋に預け飲み代を調達した良き時代だった。
相手塾生(慶大生のこと)は銀座で飲むと聞き、一寸羨ましく思ったこともあった。
         その頃の物価
     ビールジヨッキ 230〜250円
     喫茶店コーヒー  50〜 60円
     カレーライス  100円
昭和30年(1955)早慶戦入場券
    学生     30円
    一般外野  50円
現在
    学生    500円
    一般外野 700円
[写真提供]
野球、入場券写真・・・早大理工工経33年卒ホームページ



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