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『海外雄飛の民族ロマン』長澤亮太 産業開発青年隊隊長兼あるぜんちな丸第12次航移住輸送助監督
『私達の40年!!』HPの第83号寄稿文は、産業開発青年隊隊長兼あるぜんちな丸第12次航助監督の長澤亮太さんの登場です。現在産業開発青年隊の40年の歴史を執筆中のお忙しい中、私達の為に特別書き下ろしのメッセジを日伯交流協会事務局を通して寄せて戴きました。長澤隊長が長年の理念として実践して来られている海外雄飛の民族ロマンの先鋭隊として私達は、頑張って来ました。「開拓は百年の計。一世が耕し、2世が種を蒔き、3世が収穫する」私達はまだやっとブラジルの地を耕し始めた所でしょうか?道半ばを感じますが、倦まず弛まず前進していきましょう。(なんだか40年前の船内新聞論調?になってきましたね。苦笑) 40年前の若き長澤隊長の誰が描いたかまだ発見出来ていない新聞に掲載されていた似顔絵です。



海外雄飛の民族ロマン
 1962年あるぜんちな丸で日本を出航した移住者は、総数七百余名で戦後移住者の最大級であった。
 わたしは産業開発青年隊のブラジル移住構想を作成し、その実施をめざしてあるぜんちな丸助監督を兼務し、渡伯したのであった。
 感動したのは、同船者の人々が活気に満ちあふれ、それぞれがロマンと希望に輝いていることであった。
 同船者はアマゾンのトメアスー移民地、サルバドールのクビチエックの移住地、リオデジャネイロのフンシル移住地、サンパウロのコチア産業独身青年移住、それに花嫁呼び寄せと多種多様、いっきに日本民族の戦後海外移住発展の花が開いた観を呈していた。
 かって石川達三の小説「蒼茫」を読んだことがあるが、どちらかといえば「棄民」という暗いイメージを感じていたが、あるぜんちな丸の雰囲気は全く底抜けに明るかった。
 これならきっと成功するにちがいないと、密かに確信した記憶さえ持っていた。
 日本民族の海外移住史を調べてみると、いわゆる棄民哀史の実態があり、悲劇的なこともしばしば起こっていたのである。
 とくにわたしとしては、構想の創設者として、過去の歴史を調べ、慎重な作戦を加えなければと考えていた。
 まずは理念構想の確立である。日本民族の海外移住を求める必然性はどこにあるかという命題である。
 戦後国立人口問題研究所に席を置いて、調査研究していたわたしの結論は、日本人口はすでに八千万を超えており、一方、日本列島の国土面積および資源の諸要素を加算しての適性人口は、六千万というのが、およその結論であった。明らかに過剰人口の状態である。
 当時の日本は、アメリカからサンダー夫人を招待し、産児制限調節の指導普及まで行っていた。
 しかしわたしの発想は、人口の爆発的増幅力はむしろ民族のエネルギーであり、マルサスの人口論も、多産小死の段からやがて少産多死の状態に下降する。
 人口調節よりもむしろ、生活空間の拡大計画を作成すべきではないかと考えたのである。
 地球を展望すれば地域の空間開発はまだまだ可能であると判断したのである。
 さしずめ南米、それもブラジルは日本の二十二倍の広大さを持っている。未開発地も多い。幸いブラジルでは日本民族の評価は高く好感をもたれている。わたしはブラジルに焦点を定めたのである。
 しかし海外進出には、それなりの国際間におけるコンセンサスを得られる理念が必要である。結論的にいえば、国際協力の理念に適応した実践活動ということになった。
 日伯間に成立する国際協力の具体策は何か。
 ブラジルの国家政策は、未開発地の開発、資源の開発。それに必要な資金および技術者の調達であったが、日本はそれと全く対照的にである。国土空間はもちろん資源も少ない。しかし人口は過剰、とくにわたしが創設した産業開発青年隊全国運動では、海外雄飛の夢に燃える青年が多かった。これらの青年たちが、ブラジルの未開地の開発に挺身する場を得られれば国際協力の理念に合致することになるのではないか。そうすれば、従来の移住事業に対して、新しい国際協力の理念に基く移住方式を確立することができると考えたのである。
 戦後はじめてコチア産業組合の創設者下元健吉氏が来日された。下元氏はコチア産組の組合員家族が日本青年を呼寄せるという方式で、ブラジル政府の認可を取り、その募集、啓蒙が目的であった。
 わたしは、家の光協会を通してようやく下元氏との会談の機会を掴み、翌日は埼玉県にある関東青年隊の現場視察を実現することができた。
 下元氏は産業開発青年隊の基本訓練の実態を見られて、一種の感動を覚えられたようである。その時、わたしが提案したのは、この青年隊という組織集団をそのまま解体することなく、ブラジルに移住させ、そしてブラジルでは、青年隊が備えている組織力と技術をもって、大規模開発に挑戦する方途は考えられないかということであった。下元氏の返答は「確かに青年隊の組織はせっかく訓練したものを解体するのはもったいない。移住に関する新しい形式と移住者数の枠について、ブラジル政府との認可が必要である。帰伯後政府に当ってみることにしよう。そのためには裏付けとして青年隊の移住計画作成が必要である。貴君が直接ブラジルにきて、現地調査して実施計画案を作成することが先決である」と。
 サンパウロに到着したわたしは、下元氏と再会した。下元氏は蘭の栽培を趣味とされ、邸宅は大きな蘭センターの景観であった。
 その中で、下元氏とは、夜を徹して語り明かし、朝のカフェーをご馳走になって辞した思出がある。
 さっそくわたしは、ブラジルはもちろん、周辺の南米諸国の殆どを歩いて、青年隊の導入にふさわしい格好な大規模開発事業を踏査した。飛行機は利用せず全部地上を歩くことを原則としてのでアマゾン流域は、馬や小舟を利用したり、パラナの大草原では、ジープ、トラックを運転したりしての旅をつづけた。その結果約八ヶ月のサーバイバル旅行となったのである。
 総括してみると、ブラジル全土、ペルーアンデスおよびボリビア、パラグアイ、チリー、アルゼンチンと南米各国。焦点をしぼってブラジルのエスピリトサント州開発計画オホロ地域総合開発計画の湿地帯開発の測量および調査、サンタカタリーナ州サンフランシスコドスール流域総合開発計画、パラナ州ドラードス流域総合開発計画、ミナスゼライスのウジミナス製鉄所建設工事施工管理等々。
中でも最大規模の開発事業で、国際的にも有名になったブラジル、パラグアイ、アルゼンチン三国の接点にまたがる超大級の電力開発のダム建設だった。工事現場には、十万人の流れ者が集まっているといわれ、ピストルの音が毎日のようにきこえるという物騒な雰囲気になっており、現場技術者が何人も殺されたとの話であった。その現場に五人の青年隊が施工管理技術者として挑戦した。かれらは前任技術者たちとちがって誰一人ピストルを携帯してなかった。しかし明るい顔をして監督業務を遂行している。現場の労働者たちも軽い会釈をしてゆく。
引き揚げて、総括指令塔での会議で、ドイツ系技術者の話によれば、青年隊が来てからはトラブルは無くなった。現場では、青年隊は鉄のように団結しているので、始めから争いを起こそうとしないのだろうという感想であった。
わたしはこれぞ青年隊の本分発揮だとうれしくなった。青年隊の往くところ、それぞれの成果を挙げてきたのである。
顧みれば青年隊の40年数年の営為も波乱万丈であった。ブラジルでいえば、下元健吉氏を中心としてパラナ州セーラスドラードスの基地センターを創設するために、百アルケールの土地を提供された和田周一郎氏。またこの構想に異常なほど協力支援された君塚爈大使の面々である。わたしはブラジルにおいて創設構想の骨子を作成しさらに各々にサインされた。さてわたしは日本に帰り、外務省、農林省、建設省の三省合意をとりつける、すべてこれから出発するという使命を背負って帰国したその時であった。下元健吉氏がコチア産組の専務室で突然死。同じく君塚ブラジル大使が東山農場視察中に急死。つづいて和田周一郎氏の死と、脳天に電撃が破裂したような衝撃を受けた。全くの絶望。奈落の底に叩きおとされたような気分を味わった。
心身ともに疲労困憊して、わが家のベットに辿りつき、ふと枕元に置いてあった聖書をめくった時であつた。赤線をひいた聖書マタイ伝の一節が目にとびこんできた。
「汝ら、神を信ぜよ。汝らもし山に向いて、海に入れというとも、そのことを必ず成るべしとしんじて祈れば必ず成るべし。さらばすでに得たりと信じて祈れ」と。
目が覚めた。聖書に言わんとするところがはっきりと悟れた。「さらば、すでに得たり」と信じて行えば必ず実現するものだ。それほどの確信をもって念じ、努力せよとの教訓だと悟り。再び奮起して体当たりしてきた四十数年である。
「開拓は百年の計。一世が耕し、二世が種を蒔き、三世が収穫する」のも真理。
いのちつきるまでロマンを追求するつもりだ。

(平成14年5月7日 和田好司タイプアップ)



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