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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=下元健吉没後50周年=
日伯交流年(日本移民百周年)開始まであと三カ月あまり。いよいよ歴史的な節目が迫ってきた。日系人がブラジル社会への貢献は多岐や分野にわたるが、とりわけ農業分野においては特筆すべきものである。
 なくなったとはいえ、コチア産業組合はブラジル農業界に大きな足跡を刻んだことに間違いはなく、今も切り離された幾多の地方農協が活発に活動している。まるで熟した果実が樹木から自然に落ち、あちこちに新たな芽を出しているように見えないだろうか。
 農業界の象徴的人物として、本日二十五日に五十周年忌を迎えた下元健吉を取り上げ、外山脩氏に連載「コチア産組=新社会建設=創立者の光と影」を依頼し、明日二十六日付けから第五面で掲載を開始する。
 今連載では、下元を巡る様々な意見を丹念に集め、「アンチ派」「敬遠派」「敬愛派」の三つの角度から、その傑出した人物像を多角的に浮き彫りにし、県人性と組合のあり方などに深くメスを入れた。これを機に、さらに日系人の伯国社会への貢献に光が当たることを期待したい。(編集部)
写真もニッケイ新聞WEB掲載されているのをお借りしました。


連載《第1回》「昔は傑物がいたものだ」=コロニア50年の逸材
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
 「人物がいない……」。かなり以前からのことであるが、コロニア=日系社会=の人物不在を嘆く声を、しばしば耳にする。その声は概ね、こう続く。「昔は、いたものだが……」。たぶん、決断力と実行力のある指導者に、この社会が飢(かつ)えているのであろう。昔は居た……と言われる人物たちの中で、最も話題性に富むのは、なんといっても、コチア産業組合の下元健吉である。その死に際して、南米銀行の創立者・宮坂国人が「コロニア五十年の歳月を経て、漸く出来上がった人材」と評した傑物である。日本移民百周年を明年に控え、日本移民の農業面でのブラジル社会への貢献を振り返るシンボルの一つとして、没後五十周年を迎えた下元にスポットライトをあてる。その命日は昨日、二十五日だった。人材払拭のコロニアを思いつつ、改めてこの「傑物」に焦点をあててみたい。
 明二〇〇八年、コロニアはその歴史に百年を刻む。この一世紀の間、日本人・日系人(二、三世)が、この国に残した最大の事績は、農業である。
 特に近郊型の作物、つまり野菜(バタタ=馬鈴薯=などの根菜、トマテ、葉野菜)、鶏卵・鶏肉、果実……の今日は、日本人農業者の戦前からの努力の蓄積、そしてノウ・ハウのブラジル人への普及によるところが大きい。
 奥地型の作物の場合、カフェーは戦前、日本人移民の殆どが最初カフェー園に雇用農として入り、独立後は、その栽培からスタートした。生産技術の工夫を始め、少なからぬ貢献をしたといえよう。
 同じく戦前からの綿は、一時期、日本人の生産量が、この国全体の過半を占めたという。
 大豆やミーリョ=玉蜀黍=は一九七〇年代以降、セラード開発により一大産業に成長したが、その開発前線には、何処へ行ってもガウーショ=南大河州人=の農業者と共に日本人・日系人の姿があった。
 この農業振興の推進機関となったのが、昔の産業組合、現在の農業協同組合である。
 コチアは創立以来、この国に生まれた無数の組合の中で、常に最多数の組合員を擁し、最大の事業量を維持した。確かな資料はないが、ラ米全体で見ても、そうであったろう、といわれる。
 一九七〇年代頃までの全盛期、コチアの名は──古風な表現になるが──燦然たる光を放っていた。コロニアにとっては誇りであり、城砦であった。
 この国の農業界では、コチアの名前を知らぬ者は少なく、日本からの訪問者も多くはコチアを視察した。
 (その全盛期を、実は過ぎていたのであるが)最も組織が拡大した一九八〇年代半ば、組合員は一万数千名、従業員は一万名、事業(生産、販売、関連分野)地域はサンパウロ州を中心に、全国に広まり、その事業所=支店=は八十六カ所を数えていた。
 そのほか、生産物の保管・流通用の施設としての大型倉庫、カフェー精選工場、精綿・製麻・製茶工場、果実・野菜の集配センター、予冷庫、販売所……、営農資材の生産用の施設としての肥料・飼料工場、種鶏・孵化場……、生産物の加工用の施設としてのフレンチ・フライ工場、液卵工場……、組合員の生活用品を販売するスーパー、農事試験場などがあり、合計数は二百カ所を越えていた。
 この内、肥料工場は、国内大手の肥料メーカーと並ぶ規模であった。驚くべきことに本格的な紡績工場まで建設中であった。種子、搾油、保険などの分野では子会社を経営していた。
 一方で、アセンタメントつまり近代的な大型営農団地を各地に次々と建設していた。
 地方へ旅行をすると、コチアのマークを大きく記した大型輸送車がハイ・ウエーイを疾走する姿をよくみかけた。地域別に組合員が設立・経営している出荷組合の輸送車である。
 娯楽・スポーツ、保健衛生、外国研修その他の分野に、外郭団体を持ち、農業高校を創立中であった。
 ともかく組合としては、非日系も含めて、他の組合とは桁違いの大きさだった。農業界(含、牧畜)では無論、この国最大の規模であったし、全業種を含めた企業界でも大手であった。
 事業量を金額的に表示することは、当時インフレが激しく、また為替も大混乱状態にあったため難しいし、適当ではない。が、ある経済雑誌は、当時、コチアを国内民間企業二十一位にランク付けしていた。
 このコチアの歴史を、創立以後三十年作った、と言われるのが下元健吉なのである。(奥地型の作物への進出は、下元以後のことになる)今年は、その下元没して五〇年に当たる。命日は九月二十五日である。
 人物払底のコロニアを思いつつ、改めて、この傑物をクローズ・アップしてみる。   (つづく)

連載《第2回》=コチアという新社会建設=本来なら昭和史上の大事業
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
 先に、下元健吉を「傑物」と表現したが、この場合の傑物とは偉人のことではなく「凡人には成しがたい事業をやってのける人物」の意である。
 下元は、一九二七年、二十九歳の時に、コチア産業組合を同志と共に創立、以後、一九五七年に急逝するまで三十年間、戦前・戦中・戦後、その経営の采配を振るい、時には独裁し、死後も長く……三十数年に渡って、コチアが解散するまで、後継者に影響を与え続けた。
 (在職中、下元の役職名は──創立時と戦時中を除き──専務理事であり、形式的にはその上に理事長がいた。が、経営の実権は戦時中を含め殆ど下元が握っていた)
 コチアは法的には組合であったが、下元はその枠を越えて、組合を核に組合員、その家族、職員から成る一個の新社会を建設しようとした。建設のために生涯を燃焼させた。
 彼の構想は、その社会に必要な経済活動から保健、娯楽、教育、文化……すべの事業を組合が組合の力で実現・統括するというもので、壮大な内容であった。(ただし排他的、閉鎖的なものではなかった)
 構想実現のため──彼を側近くで見続けた一職員が書き残した資料によれば──死に物狂いで働き続けた、という。新社会建設の夢は、ほぼ成功裡に進展した……と見てよかろう。
 組合員とその家族の多くは、「コチア人」意識を持ち、生産活動に限らず日常生活の少なからぬ部分をコチアとの関係の下に過ごしていた。それは組合職員も同様であった。
 コチアの組合員と家族、職員は一九五七年の下元没時、四万人と概算された。その総てが前記の様な「コチア人」意識を持ったわけではない。持った場合も、その度合に強弱の差はあったし、常に、去る者、来る者……と組合員や職員の出入りはあった。
 しかし、コチアという一個の社会と「コチア人」と称すべきその構成者が存在したことは確かである。
 日本民族の海外発展史上、この種の話は、ほかにはない。戦前、日本の若者の多くは、「狭い日本を飛び出して何処か広大な地に、自分たちの、自分たちが支配する〃王国〃(この場合は理想社会ていどの意味)を建設したい」と夢見ていた。それが歴史を動かす一因にすらなった。
 その夢を、往時風に表現すれば、一八九七年、明治三十年、四国の山村に生まれ小学校を出ただけの十五歳の少年が、遠く万里の波濤を越えて異郷に至り、徒手空拳、成し遂げたのである。
 コチアの創立は、日本の年号で言えば昭和二年にあたり、昭和史の一面を象徴する大事業であった。が、筆者の知る限りでは、日本の如何なる昭和史資料にも、一行の記録もない。不思議なことである。
(つづく)

連載《第3回》=3種類の下元論=アンチ派、敬遠派、敬愛派
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
 下元は、背丈は百五十七センチで、当時としても低い方であった。が、ガッシリした体格であった。少し前かがみになってガニ股で歩いた。格好は悪かった。
 顔は……この人には、三つの顔があった。一つは仕事の場での顔で「そばに寄ると、噛みつかれそうな感じだった」という。
 言葉使いは荒削りで、怒りやすく、頭ごなしにモノを言い、雷親父の異名もあった。時に暴言を吐いた。その暴言が暴行に変化することもあった。
 二つ目は仕事を離れた私的な場での顔で、穏やかそのもので、いつもニコニコしていた。
 世間は、それを知らず、仕事の場で怒鳴り散らす様子から、家庭でもそうだろうと想像して「子供たちは、さぞ萎縮して暮らしているのだろう」と同情していた。が、その長男によると「死ぬまで、怒った顔は一度も見たことがない」という。
 下元は、組合の若手職員や組合員の子弟、その他多くの若者と親しく交ったが、職場以外では慈父の様に接し、「親父、おやじ」と慕われた。
 三つ目は、酒を呑んだ時の顔である。高知県人にしては酒に弱く、一寸呑むと青くなってニタニタ笑った。皆、青くなるのまでは判ったが、何故笑うのかは見当がつかず、気味悪がったという。
 この下元健吉に会った大宅壮一が「下元さんは、体内で発生しているエネルギーが常人とは比較にならぬほどボルテージが高い」という意味のことを言ったそうである。(大宅壮一=評論家。一九五四年、来伯)
 確かに下元が事業に向けて発散させるエネルギーは凄まじかった。しかも一旦こうと思ったら何がなんでも押し通した。
 それが、前記した大事業を成し遂げさせたのであろう。が、世の下元論は必ずしも一定しない。
 組合員や職員の中には彼を痛烈に批判する人々がいた。アンチ下元派である。
 コロニア(戦前は「邦人社会」と表現)の指導者間では、下元は強烈すぎる個性が嫌われ、敬遠された。
 一方、組合内外の、主に若者の間には、下元敬愛派が多数、存在した。
 アンチ下元派、敬遠派、敬愛派と、これも三種類あったことになる。
 無論、世に完璧な人間など存在せず、誰でも表面と裏面、長所と短所があり、成功と失敗を繰り返して生きている。他人の見方が三種類あっても、おかしくない。
 むしろ、それを語ることが、下元を正確に描く近道となろう。
(つづく)

連載《第4回》=過去のアンチ派の言い分=「創業の最大の功労者は村上」
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
 まず、アンチ下元派だが、実はそういう人々が居たという事は古くから言い伝えられていた。が、具体的な資料はなく、その派だった人々が現存するかどうかも不明であった。
 筆者は、以前、それを探してみたが、手がかりすら掴めなかった。ところが、今回の取材中、運よく両方とも見つかった。
 一つは南米新聞という邦字紙に連載された下元批判の記事で、その保管者が、わざわざ人を介して届けてくれたのである。
 捲ってみると、一九六〇年から翌年にかけて十数回にわたり久保勢郎という人の投稿記事が載っていた。
 久保は一九三三、三六、三八の三年度、コチアの監事(監査役員)を務めた組合員である。コチアの創立は一九二七年であるから、それから余り遠くない時期である。
 その南米新聞を提供してくれたのは、佐伯カタリーナという年輩のご婦人で、久保は実父だという。
 カタリーナさんの親族の中には、結婚後の義理の叔父で、佐伯勢輝という組合員もいた。コチアでは名前の知られた存在であった。当時を知る元職員に聞いてみると、「あ、あ……久保と佐伯は、二人ともアンチ下元派だった」と思い出してくれた。
 で、久保の記事であるが《虚構に満ちた歴史『〔コチアの歩み』に寄せて》という見出しがついている。
 『コチアの歩み』とは、一九五九年に出版されたアンドウ・ゼンパチ著『コチア産業組合三〇年の歩み』のことで、下元専務の依頼で、アンドウが執筆した書物である。本が出来上がったのは、下元の死後であったが……。
 久保は、その投稿の数年前、コチア創立当時を熟知する常深光治という友人から、次の様に言われていた。
 「コチアには、三十年史の編纂計画があるが、どうも現在の幹部に都合よく歪曲される可能性が強い。先日も、日本から来た記者が下元さんの話を取材した。自分も招かれて同席したが、創立当時を語る下元さんの話が、丸きりデタラメで、組合は自分だけで創立し、発展させてきた様な話しぶりだ。それも、その嘘を意識した話しぶりならよいが、本当のような気分と態度で話している。
 ここらで、組合幹部でなく自己の利害を考えない第三者が、本当の組合史を書いておく必要がある。君、一つ考えてくれないか」
 その後、アンドウの『三〇年の歩み』が出版されたわけであるが、それが八冊も手紙付きで、久保に送られてきた。内容に不満を持つ人々からである。
 久保は本と手紙を見て、前記の投稿をする気になったという。その内容は長文であり、ここに転載することは困難であるが、久保は要するに、
 「この本で、下元の功績であるかの様に書かれている創業期のことは、実際は村上誠基が下元を表に立てて、陰でやったことである。さらに当時、組合経営で、下元は何度も窮地に陥ったが、そのときも村上が裏から助けて、切り抜けさせた。コチア創業の最大の功労者は村上で、下元ではない。下元は、その他数名の協力者の一人に過ぎない」と主張している。
(つづく)

連載《第5回》=元職員老人は舌鋒鋭く批判=「神様扱いはおかしい」
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
 村上誠基は、コチアの創立発起人十名、創立組合員八十三名の両名簿の筆頭に、名前が記載されている人である。組合創立時、三十五歳。下元より六歳年長であった。しかし創立後の役員名簿を見ると、ほんの一時期、理事長や監事を務めただけで、後は表に出ていない。
 久保はその理由を、
 「村上は個人主義の権化の様な男で、組合役員のように儲けにならぬ仕事には手を出さない。が、組合は必要だと判っていたから、人をおだてて役員の仕事を押し付け、自分は逃げていた。村上だけでなく、役員のなり手は、労働力に余裕のある組合員は別として、その頃は、いなかった。下元は、性格的に権勢欲が非常に強く役員の仕事が好きだったから、調法なので役員をやらせておいたのである」
 と記し、さらに、
 「下元は、自己反省など全然しない。思ったことは思ったように喚(わめ)く性格で、それが人に失礼だろうが、頓着しない男」 
 「組合創立の同志の吉本亀と中尾熊喜は、青年会時代から一緒に頭を並べてきたものの、組合創立後は下元が事毎にのさばり出るので面白くなく……(組合を離れて行った)」
 「(下元が)一将功を独占して万骨埋もれ忘れられ……」と手厳しい。
 久保の目から見ると、実際、そういう一面もあったのであろう。
 ただ、久保の投稿の内容は、コチアの創業期に限られている。コチアが下元の下、成長期に入った時期以降のことについては触れていない。なぜ触れなかったかは、判らない。
 「コチア創業の最大の功労者は、下元健吉ではなく、村上誠基である」という説は実は昔から存在し、筆者も何処かで小耳にはさんだ記憶がある。それが具体的な活字という形でタイム・カプセルから取り出されるように姿を現したわけだ。
 なお、別の資料によれば、村上自身も結局、アンチ下元派だったという。
    ◎
 次は生きているアンチ下元派の話である。
 この人は、コチアの元職員で、既に九十歳を越しているが、矍鑠(かくしゃく)たるもので、筆者がサンパウロ近郊のその自宅を訪れ、氏の下元論を求めると、延々と語り続けた。
 すべて下元批判論であった。ただし、この老人、筆者が後日、その談話を草稿にして送付の上、改めて訪問すると、奇妙なことを言い始めた。
 「取材されているとは知らず、単なる昔話として、しゃべったことだから、記事にするな」と。「どうしても記事にしたければ、アンタが何処かで取材したことにしてアンタの責任で書きなさい。私は知らない。私の名前も出さぬように」とも言う。
 どうも、まだ生きている下元敬愛派の人々を刺激したくない、という配慮が働いる様子であった。無理に実名入りで書くと「ワシは、そんな事は言ってはいない」と否定するであろう。
 といって、その下元論は捨てがたいものがある。そこで、以下すべて筆者が、何処かでXという老人を取材してまとめた記事として、筆者の責任の元に記す。
 X老人は、戦前の一九三五年から終戦の四五年までコチアに職員として勤務したという。その初期は、久保勢郎の監事在職時と重なる。
 久保については、
 「賢い人だった。(南米新聞では)相当、本当のことを言っている筈だ」
 と評価、次に、下元死後に出版された書物類を二冊取り出して来て、
 「下元を神様扱いしている。皆、デタラメだ。誰某は、よくも、これほどの嘘を……」
 と語調を荒げた。誰某というのは執筆者たちのことである。
(つづく)

連載《第6回》=「コチアは高知屋」=濃厚な血縁・郷土閥意識
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
 「ここで書いている連中は、下元に世話になった、恩恵を受けた人間だ。この連中が、実物とは違う下元健吉のイメージを作りあげた」
 「下元は、皆が言う様なスーペル・オーメンではなかった。経営もコンタビリダーデ=会計=も判っていなかった」
 「コチアは、高知屋と皮肉られた。下元もゼルヴァジオも片山も高知だ」
 ゼルヴァジオとは、井上ゼルヴァジオ忠志のことで、下元は日本が第二次世界大戦へ参戦した翌一九四二年、まだ若かった彼を組合監事とし、三年後には理事、そして十一年後には理事長にしている。
 片山はさらに、それから三十四年後、後を継いだ片山和郎のことである。
 高知といっても、二人とも二世だから、父親の郷里を指している。 
 この話は「コチアのトップの人事は、もともと創立メンバーの大半を占めた高知県人の郷土閥意識から成っており、いつまで経っても改められなかった。他県人が圧倒的に多くなっても……」という意味であろう。
 郷土意識は、一般的にも、戦前一世には濃厚にあった。血縁者を、さらに上位に置いていたから、血縁・郷土閥意識とも言えよう。
 ちなみに下元は、監事に井上を起用する以前に、別の若者を候補に考えていた。それは、同じ高知県の同村・同郡人の二世で、しかも自分の甥であった。(下元は実兄夫婦と共にブラジルに渡航した)
 この人事は、当人が組合入りを嫌がったため流れた。そこで、次に白羽の矢を立てたのが、隣の郡の出身の井上晴馬という組合員の息子のゼルヴァジオであった。
 筆者は、以前は、下元がゼルヴァジオを引き立てたのは「彼の学業成績の優秀さ、ポルトガル語、日本語の堪能さ、人柄の良さに早くから着目していたから」と思っていた。
 が、二番目の候補であったわけだ。
 下元そしてコチアの幹部には、事実、濃厚な血縁・郷土閥意識があったかもしれない。コチアの年度別役員名簿を見ると、一九六六年、下元の甥(前出の甥の弟)が監事になり、翌年理事になっている。その数カ月後、下元は死亡しているが、数年後には、下元敬愛派の役員の工作により、下元の次男が理事、次いで専務理事になっている。
 ほかにも、高知県人が重用される事例が多数あり、一般の組合員や職員に釈然としない印象を与えていたようだ。
 最近、パラナを旅行したとき、元職員から聞いた話だが、昔、あるコチア人が、「ワシは一度、日本に帰って、戸籍を高知に移して来るよ」と冗談のように言っていたという。
 X老人の辛口の下元論は、さらに続く。内容は系統立ったものではなく断片的だが、それを羅列、若干の説明を付しておく。
 「反産運動などなかった。皆、内輪揉めだった」
 反産運動とは、戦前の用語で、産業組合の精神に反する言動を指し、下元は、自分に反抗する組合員に、よく、この言葉を使って反撃したという。
(つづく)

連載《第7回》=役員を批判しまくるX老人=業務改革や人事の〃裏話〃
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)
 「バタタ=馬鈴薯=販売部に阿部芳治という事務員が居った。バタタの販売は、組合の創立以来、仲買人と同じやり方だった。そこで阿部たちが、工夫して共同計算制を作り上げた。その阿部は、話すときの発音が不明瞭で、相手はよく聞き取れなかった。頭はよかった。ところが、下元が、その阿部に『日本語で言え、俺には判りゃせん』と怒鳴った。阿部は辞めて行った」
 共同計算制……云々というのは、それまで組合員の出荷物別に行っていた販売方法を廃して、出荷物に等級をつけ、その等級ごとに一括して販売する様にした業務改革のことである。
 カナダで小麦か何かの販売に、その方法が導入されているという事は知られていたが、具体的な内容は不明であった。それを阿部たちが考案して始めた。これは後にコチアの代表的業務改革の一つと言われるようになった。
 そういう功績のある職員に心無い暴言を吐いて組合を去らせた、というのである。
 「そのようにして折角作った共同販売制の販売部門も、実は販売員が身体に故障があるとか、ポルトガル語が話せないとか、日本語も方言しか喋れない……という具合だった。しかも組合員は、自分の出荷物が正当な値段で売れているかどうか判らぬ仕組みになっていた」。
 下元は、こういう人の使い方、業務管理をしていたというのである。
 「ある時、理事の中島長作が、下元を訪ねて用談中、下元が突然、中島の頭を殴った。中島は『お前が専務なら、俺も理事。その俺の頭を殴るとは…!』と激怒していた」。
 中島は一九三五年から四一年まで監事や理事を務めた人である。
 「出荷組合の利益の一部を積み立てて、部落々々の中央に、広場やスポーツ施設を作る、という案をワシが出したことがある。すると、下元は『百姓どもに、そんな事をしたら、つけあがっていかん』と。百姓ども、つけ上る、と……。ワシは、本当にガッカリした」。
 出荷組合とは、コチアの組合員が部落=地域=別に作った小組合のことで、それ以前に組合本部で担当していた生産物の搬出、営農・生活用品の搬入の仕事を、ここに移管していた。
 「組合幹部の息子や甥が、組合に職員として入ると、八割までが金を使い込んだ。すると、下元が『自分が払う』と。ところが、組合は年末の役員賞与に、それを入れて下元に返していた」。
 X老人は、戦中から戦後にかけて理事長や理事など役員をつとめたブラジル人たちも斬りまくった。
 第二次世界大戦への日本の参戦時、下元は日本人役員の総辞職と、後任への彼らの起用を断行した。これが組合を救ったと言われる。
 戦後も、彼らは続投した。理事長などは一九五六年、死亡するまで務め、さらに、その肖像画が、二〇〇四年、組合が解散するまで下元のそれと共に、組合本部や事業所の壁に掲げられていた。
 ところが、X老人によると、彼らには在職中、女性問題や金銭問題があり、私生活が、ひどく乱れている者も居た、という。
 トンネル会社をつくって、組合からそこへ販売した出荷物をサントスに入港する外国海軍の軍艦に法外な値段で売ったこともあるという。
 従って、下元の右の人事は、言われる程のものではなかった、というのだ。
(つづく)



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