移民化するデカセギたち ニッケイ新聞深沢編集長の論説(その2= 第5回―第7回最終まで)
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1980年代後半よりブラジルのインフレ経済による生活の逼迫と1990年の日本に於ける入国管理法の改正により日系ブラジル人を中心としたデカセギ現象は、大きな流れとなり20年後の現在は、33万人の日系ブラジル人、6000億円の在日伯人社会を形成し毎年ブラジル人2世として4000人の在日ブラジル人が生まれておりその自然増は、今後も増え続けると見られている。日本国籍の取得、住宅家屋の購入、子弟の日本語による教育等の影響もあり3分の1は日本に定着を希望していると言う。ブラジルに生まれた日系ブラジル人が日本に出稼ぎに行き在日ブラジル人社会を形成していく課程は、我々日本からのブラジルへの移住者としての定着過程よりは日本人の血を引く日系ブラジル人として日本への定着は、より容易なのだろうか?日本移民100周年を迎える現在、20年前に始まったこの逆流の流れ在日ブラジル人社会(日本に於けるブラジル人コミュニテイー)の形成の過程には受け入れ国としての日本の今後の対応に注目して行きたい。
写真は、栗本克彦さんのHPよりお借りした2001年4月28日 「神戸港移民船乗船記念碑」建立。いままさに希望に燃え世界へ旅立とうとする海外移住者の家族像である
神戸から世界へ 希望の船出 です。
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ニッケイ新聞 2007年9月1日付け
移民化するデカセギたち=根を張る在日伯人社会=連載《第5回》=大卒在学生は百人との説も=【日本市民】として活動
「大学に入ってから自分のアイデンティティを探し求めるようになりました」と講演したのは、今年の三月に中央大学総合政策学部を卒業したばかりの宮ケ迫ナンシー理沙さん(25、二世)だ。戦後移民である両親に連れられて九歳で訪日し、日本の公立校に通って大学進学を果たした。
父親が訪日したのはデカセギブームが始まった九〇年。翌年、家族があとを追った。宮ケ迫さんは九一年に小学校三年に編入したが、サンパウロにいた頃から日本語学校に通い、日本語に親しんでいたおかげで授業にはすぐに理解できるようになったという。
「当時、周りに外国人は誰もいませんでした」と思いだす。当初、両親がナンシーという名前を使わせず、日本名のみで通した。
「ブラジル人とコンタクトがなくなり、どんどん日本人みたいになった。高校に入った頃には、誰からも外国人だと思われなくなっていた」と振り返る。ポ語を使う機会がなく、本人がすっかり忘れていたくらいだった。
大学入学の際、伯国籍しかない彼女は外国人登録証で手続きをし、学生証の名前は「ミヤガサコ・ナンシー・リサ」になった。「自己紹介でナンシーという言葉を入れると、必ず質問され、答えるとみんな驚いた」という体験をした。
「日本移民」という存在は、大学生レベルでも周知の知識ではないようだ。「日本の学校では、歴史の授業で近代のことを勉強しません。だからほとんどの人は移民の話を知りません」という。
「大学には、子供時代を海外で過ごした人とか、留学していたとか、多彩な国際経験をした人たちに囲まれたので、わりと楽に自分のことを語ることができました。そこからルーツに目覚めました」
子供の時以来、大学四年でようやく祖国ブラジルの地を踏んだ。「子供のころの思い出の中のブラジルは、良い記憶ばかり。日本のマスコミが流すような暴力的なイメージに納得できなくて、自分の目で確かめようと思ってきました」。
聖市近郊にあるファベーラ・モンチ・アズールで半年間ボランティア活動をした感想を聞くと、「私が思っていたとおりのブラジルでした」と胸を張った。
最初こそ間違ったポ語ばかりしゃべったが、会話する中で徐々に修正された。「子供の時に少しでもやっていたことは、最初から始めるのと違って取りもどすのが早い」と感じた。
ポ語を取りもどした宮ケ迫さんは微妙なニュアンスの違いに気付くようになった。「ブラジルでジャポネーザと言われることに何の違和感もないが、日本でブラジル人と言われると少し違う。少し疎外感を感じることもある」。
その背景には「ブラジルの良いニュースは日本に来ない。ブラジルには、日本にいる日系人の悪い点しか伝わらない」というマスコミ事情があると痛感する。
「日本にいるブラジルの若者で、日本市民として何かをやろうとしている人がいることを、もっと知ってもらいたい」と強調した。
三月に卒業した後、通信制アットマーク・インターハイスクールの学習コーチに就職した。インターネット等でのやり取りを通して、アメリカの卒業資格が取得できる。彼女は「自分と同じようなブラジル人生徒たちに教育の機会を与えたい」との抱負を持つ。
在学中に地元の小中学校の補助指導員もやった。「いろいろなブラジル人の家族や子供たちを見て、教育分野での仕事を探しました。今の教育システムでは、外国の子供たちに臨機応変に対応するのは難しい。その中で、多様な子供たちの選択肢の一つになれば」と考えている。
彼女が実際に知っているデカセギ子弟の大学在学・卒業生だけで十人いる。日本全体なら百人近いかもしれません、と推測する。
日本社会で日本市民として活躍する日系人の姿は、ブラジル人のイメージを改善できる貴重な存在だ。
時と共に彼女のような存在が増えるシステムを作るには、公教育でどれだけ日系子弟を吸収できるかにかかっているだろう。彼女が大学時代に体験したような、胸をはって自分のルーツを言える教育環境をいかに整えられるかが鍵のようだ。
(つづく、深沢正雪記者)
移民化するデカセギたち=根を張る在日伯人社会=連載《第6回》=芽生えてきた独自文化=微妙な在日感覚を芸術に
「最近は在日ブラジル人一世と自己紹介しています」と講演して聴衆を驚かせたのは、武蔵大学専任講師のアンジェロ・イシさんだ。聖市出身の日系三世だが、日本に移住したとの認識を明示的に表現して「在日一世」を名乗っている。
「日本のマスコミは九〇年代以来、在日外国人の否定的な側面ばかりを取り上げてきた」と痛烈に批判する。ブラジル人のホームレス、留守家族から行方不明になったデカセギ、外国人が駅前で多数たむろして地元日本人が心配している話などだ。
「もっと肯定的な面、日本文化に与えてきた影響を日本のマスコミは取り上げるべきだ」と強調し、在日伯人コミュニティには独自の文化が芽生え始めていると、幾つかの例を挙げた。
九七年に群馬県大泉町に住むブラジル人音楽家たちが、工場で働いた資金で自主製作したCDアルバム『Kaisha de Musica』(音楽の箱)を紹介した。Kaishaは会社と、ポ語のCaixa(箱)をかけている。
「縄が欲しい」という曲では、あくせくと工場で働く内に奥さんを他の男に寝取られ、首を吊って自殺しようと縄を探す暗い状況を、やたらと明るいサンバのメロディとリズムで表現。強いコントラスト感を醸し出す印象的なポ語の曲だ。
別のポ語ラップには「俺たちは人間的な扱いされてない」「日本はクソ暑い」「いつかブラジルへ帰りたい」「唯一の脱出口は空港」など厳しい現実を歌った歌詞が並ぶ。曲名は『Kaisao』(会社と棺桶=Caixaoをかけて)だ。
アルバムの後の方になるに従い、日本の良い部分も感じ始めている様子も描かれるという。イシさんは「移住初期の文化ショックを描いた作品」と評した。
「これはブラジル音楽じゃない。日本文化の一部なんです」とイシさん。日本各地でそう講演するが、「ポ語だからブラジル音楽じゃないか」と反論されることがよくあるという。
でも、移民大国ブラジルからきた〃在日一世〃は「ブラジル人が日本の生活の中で作った曲。日本文化のサブカルチャーと言ってよい。メイド・イン・ジャパンです」とようしゃなく主張してやまない。
確かにブラジルでは日本移民史はすでにブラジル近代史の一部を形成しているが、記録文学の代表作『移民の生活の歴史』(半田知雄、1970年)ですら、日語の間はコロニアで知られているだけだった。一九八七年にポ語訳が出版され、ようやくブラジル社会に注目されるようになった。
やはり、言語の壁は厚いといわざるをえない。
「天才's MC's」というブラジル人がリーダーをつとめる日本人との混合ヒップホップバンドに関しても「日本語が堪能で、ブラジル人が感じていることを、もっと日本人に分かりやすい形で訴えかける力のある新世代」と評した。
他に、短いビデオ作品『ヒョジョンへ』も上映。作者は日系伯人三世だが全編が韓国語で語られ、字幕が日本語という異色の作品。
女子高生の松原ルマさんは、韓国の姉妹校に交流にいって、ホームステイ先の高校生ヒョジョンと友だちになったが、滞在中に自分が日系ブラジル人であることを告白できず、日本からビデオレター(自分からのメッセージをビデオに撮って、そのテープを手紙の代わりの送ること)でそれを謝りながら伝えようとする。
最後に「実は日系ブラジル人三世なの。ルマは二カ月で日本にきた。日本人でもブラジル人でもない。ブラジル人と言いたいけど、そこまで自信ない」と独白するシーンもあり、在日子弟の自己認識の微妙さを旨く表現している。
この作品は〇六年度に武蔵大学の白雉市民映像祭で最優秀作品賞を受賞した。
この受賞は、日本人にも受け入れられる表現形態をとれば、その同化・馴化のプロセスをしっかりと受けとめる懐の深さが日本社会に芽生えてきていることを伺わせる。
(つづく、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2007年9月6日付け
移民化するデカセギたち=根を張る在日伯人社会=連載《最終回》=在伯日本移民史は教科書=今度は日本が受入れの番
国連の推計では〇五年、世界には一億九〇〇〇万人の移民がいる。これは地球上の三%、三三人に一人に相当する。全体の五分の三が先進国への移住であり、デカセギはその一部と考えられる。国連開発計画(UNDP)の『人間報告書2004』によれば、トロントやロサンゼルス、ロンドンなどの都市は人口の四分の一以上が移民によって占められている。
心理科医の中川郷子さんは講演の最後に、「日本では総人口のわずか一%余りの外国人で、これだけの〃問題〃が起きている。今のままでは、多文化主義が根付くのは難しいだろう」と厳しい指摘をした。
果たしてそうだろうか。
在日コミュニティは時間と共に成熟度を増し、より日本社会になじんだ存在に変化していく兆しを見せている。その意識変化の有りようは、まず芸術表現という形で先鋭的に日本社会の一部に受け入れられ、いずれは、もっと一般化した表現手段で社会全体に認知されるようになるだろう。
イシさんが紹介した幾つかの「日本文化のサブカルチャー」は、その先突部分かもしれない。
そのような芸術表現をするのは、やはり在日二世や在日準二世(伯国生まれで幼少期に渡った日本で性格形成した世代)だろう。日本生まれは年間四〇〇〇人、準二世はそれ以上に多い。彼らがどう日本社会を理解し、どんな友人を持つかによって、その表現内容は大きく左右される。
宮ケ迫ナンシー理沙さんや松原ルマさんのような世代が在日準二世だ。宮ケ迫さんは「自分たちも日本市民として何かをしたい」と願っており、松原さんは芸術分野で表現している。
文化活動に限らず、社会活動、環境運動、国際交流など様々な分野で今後、これら世代が日本社会の中で台頭し、活躍が目立ってくれば、在日ブラジル人に対するイメージは徐々に変わっていき、いずれイシさんが主張するような「日本文化の一部」として認められていくに違いない。
大事なのは、この世代を無教育のまま放置しないことだ。日語でもポ語でもまともに教育さない世代が大量に生まれ、ブラジルにも戻れないことになれば困るのは日本だ。
デカセギ子弟がブラジル人である以上、ポ語で母語教育されるのが理想であることに異論はない。ただし、日本に約百校ある伯人学校の授業料はどれも高く、本国レベルの授業は難しく、ない地域すら多い。
ブラジル人といっても、青年以降に日本に行った層と、日本で生まれた在日二世や在日準二世層は同質ではない。前者はいずれブラジルに帰る可能性の方が高い層だが、後者は日本に定着する可能性の方が高い層だと推測される。
三三万人の三分の一から四分の一は日本に永住する可能性があるが、後者の層が家長となった家族が中心となるだろう。この層が、日本社会と在日コミュニティの中間層になるように養成する筋道を考える段階にきている。
中間層にするには、日本社会を深く理解してもらう必要があり、そのためには、日本全国にある公立学校が受け皿候補だ。これは、日本の教育の現場をしらないただの理想論かもしれない。しかし、敢えて議論の叩き台としたい。
教育現場の国際理解を充実させ、ブラジル人としての誇りとアイデンティティを守りながら、きちんと日本語で言語能力、論理思考能力をつける。その上で塾のような形で、ポ語やブラジル文化を学べる選択肢を用意するのが現実的ではないだろうか。宮ケ迫さんはその良例だ。
在日一世は生き抜くための仕事に追われ、コミュニティという存在に守られているために、満足な日本語をおぼえず日本文化にも慣れずに歳を取っていく可能性がある。
二〇年前から日本が受入れ国になった。今度は日本が、どのように移民を受け入れるのかを考える番のようだ。ブラジル日本移民の歴史は、ホスト国への統合プロセスを考える上での良い教科書ではないか。
(終わり、深沢正雪記者)
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