HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




GAUSHOさんこと伊藤 修さんのガリンポ親父、伊藤 清二さんの思い出
マイミクのお一人アマゾンのベレンに10年近く住んでおられた伊藤 修さんが最近親父さんの思い出を日記に書いておられます。私も95歳になる親父が大阪の茨木市で一人暮らししておりもう27年も前にブラジルに来て貰いましたが、伊藤さんのように親父さんとの会話、思い出を書き残す程の関係にありません。今聞いて置かないと思いながらも会話が弾まず気まずい時間が流れてしまう。毎年訪日時には必ず会っているが年々老衰していく親父を見てこれが最後と思うが翌年行くとまだ元気にしている。伊藤さんのような親父さんとの語らい、思い出が書けるでしょうか?自信がありません。羨ましい限りです。伊藤さんは、東京造形大学、芸術学部彫刻科で学ばれこれまでにも色々な職業を経験しておられますが現在は、横浜でGAUCHOと言うブラジルのシュラスコ(ステーキハウス)を経営しておられるそうです。次回訪問時には是非行って見たい場所の一つです。
尚、写真は2003年に他界された御尊父伊藤 清二さん享年86歳のアマゾンで見付けた魚の化石を持った写真をお借りしました。オリジナルの日記をご覧になりたい方はミクシーでGAUSHOでアクセスして見て下さい。
この度、伊藤さんの最愛のご母堂が亡くなられました。伊藤さんのお知らせを一緒に掲載しご両親の思い出として残しておく事にしました。


親父が、定年退職して、ぶらぶらしていたので、アマゾンに誘った。
孫の顔を見るとの理由で、ベレンまでやってきた。
36年間、文字どうり戦後日本を復興した「働き蜂」で、課長止まりで、職をおえた現場が好きな人、鉛筆一筋、「三菱鉛筆」に勤めておった。
なかなか、愉快な人であるが、厳しい人でもあった。ただ、めちゃくちゃ幅のある人であったな。親父いわく、戦争で考え変わったというとった。終戦時は、大陸の大連だったらしい。引き上げでかなり、苦労して、横浜での職を大事にしていた、無学の知ったかぶりの爺さんだった。
仕事で、トメアスの取材があったので、一緒に出かけた。
坂口農場で、カカオやガラナの出来具合などを話したが、かなり好奇心旺盛で、喜んでいたが日本からのお客ということで、役員連中が集まり日本の戦後などの話になったんだが、どちらが苦労したかの話の比べあいの様相を帯びてきたので、そうそうと引き上げた(笑)
ベレンの家は、まわりに日系人がいず、どうやら、こちらのほうが、落ち着くみたいで、いつも、シロのステテコに腹巻スタイルで、近所を散歩するので、すぐに有名になってしまった。
特に、金歯を結構入れていたので、親父は、ご近所では、「ガリンポ」とあだ名がついちゃったよ、 で、伝説まで、できて、「ホウライマで、金で、一山当てたが、遊んでしまい、今は、息子の世話になっている。」というもの、親父は、これが、気に入って、「オイ! Sr。ガリンポ」と呼ばれると にーーー!っと、金歯を見せびらかしたもんだ。
あの生真面目な親父が、金堀りとは・・・。親父は、ブラジル滞在中ずーーと、「金堀り人の隠居」を楽しんだ。
いつか、お話した、近所の髪結いの後家さんが、小生から親父に乗り換え、よなよなお誘いがあるのには、うれしさ反面、へきへきしとった。 どちらにせよ、20才ぐらい若返ったのは、ブラジルの空気かな?

さて、我が、「ガリンポ親父」と、サンタレンの材木研究所を訪れた時です。なんら、予備知識のない、親父に山焼きの後を歩かせたり、研究所の見学やインタビュウを取ってたりで、親父の役割は、とりあえず、日本の植物学者と言うことで、付き合ってもらいました。なんてひどい息子でしょう。
しかし、親父は、赤道を越えたせいか、結構飛んでいて、意外に楽しんで演じてくれました。みんなが、
「ドトール」(ドクター)博士でんな、などと、呼ぶとちゃんと、「ハイ」と答えてくれました。
なんて、ひょーきんな事、詐欺ですな。
ドクターガリンポ親父の名言・・・・。
川から、材木を上げるローラーが、ジャカランダで出来ていました。硬い木です。そのローラーを手に持ち一言、
 「人間に鉄はいらんな」
タダの親父ではありますが、其の言葉の重みは、今でも小生の血肉になっております。さすが、ドクター。 で、野焼きのあとを二人して、歩きました。
「ハハハ、まるで空襲の後だな、なんもない」と静かに、ため息、「修、日本はみんなここから始めたんだ」
ここから、始める。そう、ここから、始まるのだと小生は、若い胸に刻みこんだのを、記憶しております。
その後、気負って色々と走り回り無駄もやり、結局、ステーキ屋の親父になったわけですけど、いまさらながら親父の普通の偉大さにはかないません。
智は徳にはならないのですな、親父!!いつまでもかなわんよ! お粗末なガウシャでありました。親父、死んでも未だに強し!! いまでも、使わしてもらってます。「鉄は、血の中だけでいい」

大変な代物が、出てきた。
これも、「ガリンポ親父」のおかげであった。黄色くなった、A4の紙袋を開けると、中にビニール袋が入っており、変色著しい新聞が、出てきた。
広げて見ると、「O LIBERAL」で、ベレンの新聞であった。
食堂の仕事も一段落して創作活動に励み、ようやく、彫刻や絵画が売れるようになって、地元紙が、小生を取り上げたものであった。
豆な親父で、整理整頓がすきなのだが、ずぼらな小生は、めんどくさいといつも、散らかし放題であったが・・・。
今となれば、ありがたい事である。
新聞の港の風景は、写真ではない、小生の描いたベレンの市場の絵である。確か、現在もベレンの文教会館の入り口にかかっていると思う。
しかし、歴史は、繰り返すのか、小生は・・・。
ラファエロの今回の個展の印刷物を、ガリンポ親父と同じように、ビニール袋に入れて、A4の紙袋にしまっているのである。

アマゾン旅行をこれから計画する人へ、
アマゾンを旅行するのは、時間をかけて、とは言っても日本からでは、なかなか時間の方が、取れないのが、現実ですネ。 でも、船の旅を、お勧めいたします。
もちろん、お金の有り余っている人は、豪華クルーザーでの
船旅もございますが、日本人であまり参加する人は、少ないですね。
小金持ちレベルだと、かえって疲れるかも(笑)
とりわけ、サンタレンからマナオス間はいいですよ。
で、ちょうど良いクラスが、写真のような定期船が良いでしょう。
1等2等とありますが、ヘッジ(ハンモック)などを買い込み、荷物を厳重に一つにまとめ、乗り込むのが、楽しいです。
なぜ、1等2等が面白くないかと、言えば、熱いからです。
クラーのある部屋がないので、夜は熱くて眠れません。
で、ブラジル庶民に混じって、川風を楽しみながら、ハンモックでうら、うらと船旅するのが、一番ですな。
アマゾンの淡水小人イルカが、川面にはねあがるの見たり。
出稼ぎのお姉ちゃんを相手に、故郷に帰る若者が、ギター片手に一生懸命モーションかけて、挙句に平手打ちで振られたり(ガハハハ!)ハンモックを吊る場所が、家族で帰郷の人達と一緒で、家族のように仲良くなったり、
ここは、かんかん照りなのに、船の100メートル先で、バケツをひっくり返したように降るスコール、
鐘が、なって食事の時間、皿もって並んだり(学食だね)
それぞれの目的地で、寄港、寄り道しながら、ゆっくりした旅、
最終の目的地のマナオスに近づくと、いつの間にかサンバのリズム
になっていて、「マナオス!マナオス!マナオス!」の合唱。
ブラジルですな、バスの旅もこんな感じ。
船をおり、桟橋の溜まり場で、一緒に旅をし、出会ったもの同士が、ハグをしあい、それぞれの目的地に散って行きます。 ハグして、桟橋で別れたモレーナに後ろ髪を引かれて、振り返ると、彼女も、振り返った。っで、 走りよって、も一度、ハグ、っで
彼女は家に電話、彼女はマナオスの手前の寄港地にいる事になった。

この船旅を始める時代、小生は、日本では神奈川県の北鎌倉に居住しておった。
ちょうど円覚寺の裏山の山之内というところで、家の裏庭から、そのまま円覚寺に入ってしまうという、なかなか緑深い所であった。
鎌倉は、入組んだ谷戸で構成され、緑が、いつも濡れている感があった。漆の仕事もあったが緑の谷戸で暮らす密やかさが心地よい。
円覚寺の入り口に、高橋新吉の石碑があるが、あまり知られていない、高橋は、日本勧業銀行総裁・貴族院議員などを務めた英学者であり、日本にダダイズムを紹介した人物で、明治、大正、昭和と日本の革命期を駆け抜けた秀才である。禅とダダイズムとかさなりを表現し、欧米に紹介され、「禅ポエム新吉」として高い評価を受けている。「茶の本」の岡倉天心の仕事に通じる。
前置きが、長いのだがこの船旅の最中にずっと、そのような当時の小生の精神的なバックボーンから、アマゾンを一生懸命、理解しようとなんども試みていた事を思い出した。
いやっさ、この、太陽とこの緑と、天と地をつなぐ水の営みは、谷戸からはいだした、小生の貧弱な脳髄には、まぶしすぎた。
ハンモックで、ゆらゆらと、半覚醒でいなければ焼ききれていたのかも知らない。
後日、アマゾン上流で、さまざまなアマゾンの谷戸風景を見て、初めて、一滴の水が、アマゾンになる壮大さが理解できるようになるのだが、この時点では想像はできるが、認識不可能だったな、
追記:
この船に、同船していた日本人女性がいた、後日、サンパウロに図書館を作ったり、色々とブラジルで活躍することになる、佐々木女史であった(写真右、一番、右のおかっぱの女性)

伊藤さんの追加文
母、逝く 
1月30日、3時30分、享年79歳、小生の母が他界いたしました。
小生の家の裏に、一人暮らしの脚の悪い老人が住んでおります。
小生は老人の家から小生の家まで、線を引き、老人がぐあいが悪くなった時には、すぐに介護できるようにしておりました。
午後1時20分にブザーが鳴りました。
小生は、勝手口から老人の家にすぐに駆けつけました。
老人の玄関先にうつ伏せに倒れているのは、母でした。
119番にすぐに電話、心肺停止状態でありました。鼻をつまみ2息、の人工呼吸、心臓マッサージ、7分で救急車到着、以前心肺停止、救急車から、救急病院まで8分、すでに15分、限界とは思いつつ救急の手当てを尽くしていただく、薬剤投下、電気ショックとあらゆる手を尽くしましたが、午後、3時30分、担当医から通告、器機を取り外しました。
障害者のボランテア活動「パラリン友の会」を横浜で始めて立ち上げた母でありました。小生が小学生の頃からCPの方々とのふれあいの機会を作り、命と人間の尊厳を教えてくれた母でありました。
忙しいなか、マイミクのかたがたにも着ていただきました事ありがたく、御礼申しあげます。
来週から、魔の「DIA DE CAIPIRiNHA」を行います。
体調を整えておきましょう。





アクセス数 7565460 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0202 segundos.