五味 茂さん 埼玉大学海外事情研OB ホンジュラス在住よりのお便りです。
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元日本学生海外移住連盟(学移連)のOBによるメーリングリスト(大束 員昭さん主宰の『夢・ベテラン』)には、昔海外移住を夢見ていた連中、現在海外に住んでいる連中、11ヶ国、21大学のOB53名が参加しており各地の情報、近況等を交換しあっています。最近参加された埼玉大学卒で現在ホンジュラスにお住みの五味 茂さんの自己紹介の書き込みがありましたので関係書き込み等と共に学移連関係の欄に収録させて頂く事にしました。
五味さんは、終戦前の1945年5月4日山梨県で生まれ東京で育つ。大学卒業後日立メディコに勤務、1980年8月退職し9月より都の中学校技術科の教職につき、2006年3月定年退職し、JICAのシニア・ボランティアとして、ホンジュラスに10月から在住して、障害者NGO施設の金属加工工場で車椅子等の製作活動をされています。
送っていただいた写真には下記説明が付いていました。『写真は、障害者のスポーツ指導者が、私のカウンターパート(車椅子使用後ろ向き)に相談にきているとこで、私の前にいるのは、車椅子の工員で、右に完成した車椅子があります。』
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「夢・ベテラン・グループの皆様へ」
はじめまして、東京都の教員を定年退職して、現在Jicaシニアボランティアとしてホンジュラス国テグシガルパに2006年10月から在住して、障害者NGO施設(社会福祉分野)の金属加工工場で車椅子等の製作活動をしています。
1967年ブラジルに工業移住を目指し、サンパウロ商工会議所の紹介で、学生実習生として、フランシスコ・マタラゾ社アグア・ブランカ鋳物機械工場で、1968年4月まで8ヶ月間技師実習生として働きました。
当時の最低賃金の2倍の実習費をお茶の水橋(ビアズトチャ)のマタラゾ本社で支給されましたので、大学生の生活としては良かったです。
これも、大学入学後、日本学生海外移住連盟に加入し、移住の研究活動をし、自費学生実習生でしたが、アフリカ周りオランダ客船「ルイス号」に学移連特別割引で、サントス港に着け、多くのブラジル在住の人々のお世話になったからです。
私の最初の計画は、家業と関係する、歯科機械の技術移転を目指した工業移住だったので、実習が終わっても、ブラジル各地や南米の歯科大学と関係業界などを訪ねました。
[夢・ベテラン]は学移連OBだけでなく、13カ国、18大学のOBの参加をしているということで、40年前の軌跡でありますが、数日でも滞在したおもな都市を簡単に書かせて頂きます。
ベロ・オリゾンデはウジミナス製鉄所、リオは石川島播磨重工業、リベロン・プレトのダビイ歯科機械工場では数日間実習など、紹介状がある所は別途訪ねました。
サンパウロからブラジリア。3泊4日のバスでベレンへ。トメアス移住地に船で行き、高砂香料作業所などを訪問。ベレンの日系歯科医の紹介で、軍用飛行機でテレジーナへ行きドナ・ミリアン宅へ。バスでフォルタレーザ・ナタール・レシフェ・マセイオは、歯科大学と関係業界などを訪ねました。
古都サルバドールではゆっくりしました。リオには数回行きカーニバルも楽しむことができました。
南の方は、バスで、クリチバ・ポルトアレグレを訪ねた。河船でブエノスアイレスに入り、ブラジルとの違いを感じました。バスでロザリオに行き、コルドバに行くとき知り合った歯科医に、プール付住宅で夕食に招待されました。汽車でツクマンに行き美しい街だと感じました。バスでパラグアイのアスンシオンに着き、ラコメラ移住地にも行きました。イグアスの滝を観てサンパウロに戻りました。
1968年10月下旬サンパウロをバスで出発し帰国の方向へとなり、コルンバに着き汽車に乗り、ボリビア国境を越しサンタクルスに着きました。コチャバンバに行き、開業歯科医も訪れました。
4000mの高地から首都ラパスに降りて行くときは、別世界に吸い込まれる様でした。チチカカ湖を見てペルーのリマに行き米国のビザが取れました。グアヤキル→キト→カリ→ボゴタ→メデリンから飛行機乗りパナマ→TICAバスで2泊3日でグアテマラ→メキシコ→12月31日エルパソで米国入国→元旦にロスに着き、週単位の宿フェーロシップユニオンチャーチに4ヶ月滞在してアルバイトする。その当時米国で金を貯めて、南米移住の活動資金にする人が多かったので、私は帰国と再渡航準備費の為、家具配達・食肉加工等の肉体労働をした。シスコ・ポートランド・シアトルでも歯科大学など見てハワイ経由で帰国した。大学4年に復帰し、就職活動では、医療機械業界に絞り、日立レントゲン(現在日立メディコ)に入社。40年前のブラジルは、西欧からの移住も多く、歯科機械の技術移転は進んでいたので、医科大学なども見学し医療機械での再渡航を目指しました。
しかし、事情で再渡航できず、40年も南米には行っていません。
長くなりましたが、「夢・ベテラン」の入会させて戴きよろしくお願いし、ご挨拶と致します。五味 茂 (gomi534shigeru@hotmail.co.jp)
丸木さんのコメント
丸木で〜す
元旦早々、懐かしいメールが舞い込んで来ました!
五味さんには、レシーフェのリドホテルで会った7年後に、横浜の拙宅に来られたと記憶します。
アメリカの日立メディコ現地法人社長をされていた上原さんから、五味さんが教師になられたと消息を聞いたことがありました。
僕達のトロント猛虎会発起人の肥塚さんが、ホンジュラス大使として去年までテグシガルパに居られました。
僕達夫婦は下記のウエブサイトでご覧のとおり元気に生き延びております。
五味さんの回答
丸木さん・夢ベテランの皆さんへ
先日、大束さんより、
[yume-vet][00697] 自己紹介で、させていただいた、
五味 茂 埼玉大学海外事情研 ホンジュラス在住です。よろしくお願いいたします。
早速、トロントの丸木さんからお便り戴き、恐縮しております。
夢ベテランのMLを知ったのは、私たちの40年!の「日本学生海外移住連盟のメンバーの皆さんの自己紹介欄を設けました。」の丸木さんの自己紹介を、JICA申請する頃アメリカに再移住、カナダに再々移住しトロントでコンサルタントして毎年三百日は海外出張していると知り、海外雄飛の偉大な方と思いました。
私は、レシーフェのホテルで会い、7年後に、横浜の自宅に伺ったことは思い出せず、目黒の東芝放射線社長のマンションに転職などの相談に行かせていただいた事をよくおぼえています。その節など、大変お世話になりました。
トロント猛虎会発起人の肥塚ホンジュラス大使とは、日本人会ゴルフで大使夫人と一緒に回ったりし、大使主催の送別会では、写真係り的なこともしました。
「歌声喫茶の会」やマスターズの水泳でも、活躍中と聞き人間性の豊かさを感じました。
また、お会いできる機会があるといいですね!!!
五味 茂より
五味 茂 さま ポルトアレグレの和田です。
五味さんの自己紹介興味深く読ませて頂きました。私が1962年-1964年の2年間を費やしほっつき歩いた場所と重なり暫し色々当時を思い浮かべました。
丸木さんとも接点があるとか。又『私たちの40年!!』に設けている日本学生海外移住連盟関係の話題欄(URL下記)を見て頂いていたとのこと嬉しい喜びです。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biogcat.php?cod=17
と言うことで五味さんの自己紹介とその後の投稿等を掲載する欄を上記URL内に設けさせて頂きたいと思いますので宜しくお願いします。現地ホンジュラスの様子等も時に触れお知らせ頂けると嬉しいです。
私は丸紅ブラジル会社勤務時にトラクターのアタッチメントを販売するためにAGRALEと言う工場の輸出部長と1週間でグアテマラ、エルサルバドール、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマを駆けめぐった事があります。ホンジュラスのテグシュガルパは朝着いてその日の内にニカラグアに移動してしまい関係会社を2社程訪問し雑踏の町の中心地を少し歩いた程度ですが、現在ポルトアレグレの三浦領事の奥さんがホンジュラーナで良いところだと何時も聞かされています。エルサルバドールには湯澤大使(JETROから初めて出た大使)の在任中に陣中見舞いに行き香港テクノセンターの石井次郎さんと一緒に講演会に参加ポルトガル語で講演したことがあります。懐かしい思い出です。
上記の通り五味さんの投稿欄設置にご同意頂ける様であれば五味さんの近影か関係写真を1枚送って頂けると嬉しいです。
最後に地道な活動(掘り起こし、情報収集)を続けておられる大束さんには何時も頭が下がります。この場を借りてお礼を申し述べたいと思います。今後とも宜しくお願いします。
和田 好司 様へ
40年前のポルトアレグレは、近代的な西欧調の美しい町で絵はがきを買ったことを思い出します。日本の学生が来るのが希なのか、領事館の人にも大変お世話になった記憶があります。
埼玉大学旧海外事情研の私の後の責任者の父親が石川島播磨重工業の部長だったので、イシブラスに1968年5月頃訪問し良く見せてもらいました。7月頃にはブラジリアから、3泊4日のバスで赤土の道路をすっ飛ばしベレンへ行く時、ゴヤスのトカチンスの村に泊まったり、食事を取る部落の光影が思い出されます。
私の大学が学移連に加盟したのは、1964年で、翌年夏数人で連盟の阿蘇山合宿に参加し、ダンプカーで運んだ溶岩で橋造りし汗を流したことなどもありますので、どこかで和田さんと接点があったような気がしています。
いずれにしても、私も当時を思い浮かべ記憶が少し戻って来ているような気がします。
1週間で中米を駆けめぐり、ホンジュラスのテグシガルパに来て、雑踏の町の中心地を少し歩いたようですが、1年も経過すると、人々も親しみやすく、とても住みやすい良いところです。
『私たちの40年!!』70万回アクセス記録あらためて読まさせて戴くと、素晴らしい活動を、大切な考え方で、息の長いしごとと感じました。また“さわやか商会”の家族の『一緒に遊んで挙げる』あたたまる思いやりに感動しました。また、業務も立派なお仕事を皆さんでsawayakaにやっている様子がうかがえます!!!!!
和田さんの管理するHPに一端をかかわることを嬉しく思い、おそれいりますが、連盟関係の話題欄に掲載設置に同意し、仕事場の写真をファイル添付致します。これからも、どうぞよろしくお願いします。
ホンジュラスの五味 茂より
五味 さん
写真を送って頂けるとのことお待ちしています。
私は最初の移住船あるぜんちな丸でのサントス着が1962年5月11日です。
1964年帰国船の中で革命が起こり軍事政権になり日本ではオリンピックに湧いていました。65年に曲がりなりにも大学を卒業し再移住、ゴヤスの山奥での牛飼、リオの石川島播磨での1年間の勤務(多分五味さんが石ブラスを訪問された時期には石ブラスにいたような気がします)1968年7月の寒い日にポルトアレグレに移動、総領事館に73年末までお世話になり74年1月丸紅ポルトアレグレ出張所開設と同時にJOINし1995年迄21年間お世話になりました。
ポルトアレグレには既に40年近く住んでおり五味さんがポルトアレグレに来られた時には総領事館に勤務していたかもしれませんね。当時は学生さんの管理世話等のお仕事は文化担当の2世のアルフレッド山下さんが遣っておられ私もポルトアレグレ勤務を決めたのは学生時代の1963年に彼のお宅に泊めて貰った事が大きく影響しています。当時の総領事は佐藤総領事でもう一人佐藤領事もおられました。
一度ゆっくり時間を追って接点を確認して見たいですね。
ではまた。
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