^^ トホホの朝、ウフフの夜 ^^ そのこけそのこのけ斉藤由香のお通りだよ (週刊新潮コラムニスト)
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週間新潮のコラムニストとして人気のある斉藤由香さんが3週間に分けて『窓際OL斉藤由香の「大アマゾンを行く」』 第1部、第2部、最終章を掲載されています。この記事の全文を千葉にお住みの原田 博さんのBLOGで見付けだしお願いして『私たちの40年!!』関連BLOGにトラックバックを貼らせて頂きましたが、今回ホームページにも纏めて収録させて頂く事にしました。
北 杜夫さんにニッケイ新聞の単独インタビュウ記事、斉藤さん関係の記事も既に収録させて頂いており今回の週間新潮の連載記事が見付かったのは原田さんのお陰です。有り難う御座います。
お父上の北 杜夫さんを車椅子に乗せてでも日本移民100周年の今年はブラジルに連れて来たいとのご希望を表明しておられ是非とも実現させて頂きたいと思います。大のタイガースフアンでもあるマンボー先生にあやかって今年もタイガースに頑張って貰いたいと思います。
写真も原田さんのBLOGにあったアマゾンの大鬼蓮の綺麗な写真を使わせて頂く事にしました。
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^^ トホホの朝、ウフフの夜 ^^ そこのけそこのけ斉藤由香のお通りだよ(週刊新潮コラムニスト)
窓際OL斉藤由香の「大アマゾンを行く」 第1部
私はアマゾン川を遡る船の上にいた。川は一面、赤茶の泥色にい染まっている。明け方、深い森の中を船は進む、樹木の緑の濃淡と赤茶の泥川。川幅は何十メートルもあって、樹木が鬱蒼と茂っている。船で何時間も進んでも、トメアスに着かない。雄大なアマゾンを実感する。開高健さんのルポ「オーパ!」に出てくるピラルクやピラニヤといった怪魚が見えないかと川面をのぞき込むが、魚の影すら見えない。
両岸には貧しそうな地元住民のトタン屋根の家々があり、子供たちが水遊びをしたりしながら手を振っている。(あーついにアマゾンまでやってきたんだ)日本から丸一日以上もかかるアマゾンに来るなんてもう二度とないだろう。この色彩を忘れないように必死で凝視する。今回のアマゾン出張は、東京農業大学の松田藤四郎理事長から会社に届いた、一通の手紙で始まった。
「今度、アマゾンで『東京農業大学アマゾン移住五十周年』という式典が開催されるので、是非、御社の斉藤さんにも出席していただきたい。五十年前、本学には農業拓殖学科というのがあって、当時の千葉三郎学長と杉野忠夫学科長が、『大学で勉強した知識をブラジルで役立てるよう』と学生に呼びかけた。この二人の先生の情熱、拓殖魂が、現在の国際農業開発学科に受け継がれたのです。今回の式典には日本からも先生方が出席します。アマゾンでは農大卒業生がスッポン養殖をやっているから、斉藤さんの健康食品の開発にも役立ちますよ」
ひょうたんからスッポン。「やってみなはれ」で社命が下り、三月一日から十一日間、女一人でアマゾンに行くことになった。今回の海外出張では生まれて初めてJALのエグゼクティブクラスに乗った。私はヒラ社員なので普段はエコノミーだが、会社の海外出張規定に、「南米、アフリカ地域で、片道飛行時間が二十時以上を要する出張時はビジネスクラスを利用できる」とあるため、乗れたのだ。機内サービスはすばらしく、シャンパンが飲み放題、スリッパもあるし、窓際社員が突然エグゼクティブに変身した気分。(ラッキー!会社にしがみついていて良かった!)
サンパウロ市、人口1093万人で南半球最大の都市。海抜760メートルの高原に位置し年間平均気温は18度、海岸からいきなり760メートルまで駆け上がる日光のいろは坂そっくりのクネクネの千鳥道路があり驚かされる。写真右下はサンパウロ州の地図で赤い印がサンパウロ市になる、州の大きさはほぼ日本列島と同じだがブラジルでも小さな州に属する(地図の左下参照)。大サンパウロ首都圏の人口は1500万人を軽く超える。市の中心地は写真のような摩天楼で、隣に高いビルが建ったから陽がささないと文句を言う人はいない、ブログ管理者が12年住んだ町でもある。
日差しはハワイの百倍
成田空港からニューヨークまで十二時間、給油のために一度飛行機を降り、待機で四時間、更にニューヨークからサンパウロまで九時間。家を出てから三十時間余りかかって、ようやくサンパウロ上空にやってきた。一体、何回、機内食を食べたことやら。(あれ?アマゾンの森はどこにあるんだろう?)必死に窓から下界を見下ろすが、新宿のような高層ビルばかり。どこにも森はなく、アマゾンの川もない。
近代的都市に拍子抜けする。空港の出迎え口には日系人が何十人もいた。「サイトウさんですか?」農大OBの方々だった。今回、アマゾン川河口のベレンから二百三十キロ上流にあるトメアスで開催される式典に出席される方々で、大学を卒業してから五十年近くもブラジルで頑張っている人達だった。がっしりした体格で日に焼けた精悍な顔立ちである。
「今朝、ミナスジェライス州を朝四時に出発してきたんです。これ、ボクが育てたバラです。どうぞ!」
農園でバラを育てている大島さんは、農大を卒業して、昭和三十七年にブラジルにやってきたという。「ボクは昭和十五年生まれの宮崎出身です。七人きょうだいで男はボクだけ、食べ物も着るものもなく、就職先もない。『自分で何かやりたい』とブラジルにやって来た。来た頃はとにかく生きるのに必死だったね。嫁さんは日本でオヤジとオフクロが見つけて、手紙のやりとりだけで結婚したんですよ。こんなところに来てくれたんだから本当に感謝してます」。
注記:ブラジルに単独で渡った青年は多く最大の問題は結婚相手がいないことだった。ガイジン女性ならゴマンといるのに青年達はヤマトナデシコにこだわった、そこで故郷の親や親戚に頼んで写真だけで見合いをして結婚相手を選んだのである。1975年に私が二度目にブラジルに行ったときにも同じ飛行機に多数の写真見合いで知り合った花嫁さんが乗っていた。
他のOBたちも語る。「ボクたちの時代は四年生はブラジルに行って、現地研修をして卒論を出せば卒業できたんです。だから大学三年が終わるとこっちにきた。農大OB達は農業の技術を以て民間外交をやっているんです。南はリオ・グランデ・ド・スールから北はアマゾンまでみんな元気でくらしていますよ」
窓際OL斉藤由香の「大アマゾンを行く」 第2部
「ブラジルは強盗が多いから気をつけてね。ボクの店は何度も強盗に入られた、そんなに怖い思いをしていても日本に帰ると窮屈で仕方がない。こっちはマイペースで生きていける。三十年もいるから理屈じゃない。妻も子供もブラジル人だから後戻りできないんですよ」みなさん、幸せそうだ。農園や園芸店をやったり桜の専門家としてブラジルで桜を植えたり、レストランを経営したりと、各方面で頑張っているという。
空港で待っていると、日本から別ルートでやってきた農大の小野名誉教授(七七)豊原国際食料情報学部長(五九)、高橋国際農業開発学科長(五七)、三簾准教授(五七)、農大宮古亜熱帯農場の友利さん(四三)ら先生方五人も到着した。みなさん、南米やパプアニューギニア、アフリカ、東南アジアなどの亜熱帯作物や園芸作物農村社会学などを専門とするプロである。私は出発前、農大へご挨拶に伺っていた。「お待ちしていました!」東京農大のOBから大歓声が上がる。夢と希望を胸にブラジルに飛び立った二十台の若者達はいい年となり、嬉しそうに先生方を囲みがっちり握手をした。
空港の外に出ると、すごい日差しだ。ハワイやパプアニューギニアの百倍もの強い光に感じられて、目を開けていられない。肌がジリジルと焼け、ドッと汗が出てくる。「サンパウロはすごく都会ですね、ところで、アマゾンのトメアスって、どこにあるんですか?」「明日は四時に起きて、飛行機でカンピーナスに飛び、カンピーナスからブラジリア、さらに、ベレンに飛びます。そして、翌朝三時半出航の船に、トメアスまで十二時間乗って頂きます」「エッ?十二時間ですか?」「疲れるから教授の先生方はバスだけど、サイトウさんはせっかくだからボク達と船に乗ってくださいね」
アマゾン川、十二時間の船旅
翌朝ベレンへ、飛行機で七時間、じつに三千キロの移動。ほぼ日本列島の長さ。なんとも広大な国土なのだ。ブラジル北部の赤道直下に位置するベレンはアマゾン川河口に開けた港町である。植民地時代の情緒を残し、マンゴー並木には大きな緑色の実がたわわになっている。早速、農大OBがやっているスッポン養殖の見学に向かう。バナナやアサイヤシ、マンゴスチンの森に広大な生簀を設け、三億円の資本を投じて二万匹のスッポンを育てているという。
「でも金をかけても事業としてはなかなか成功しない。二〇〇四年には異常気気象で雨が降らず、干し上がってスッポンが死んじゃったんです。でも、スッポンは若返り、疲労回復、精力増強にすばらしい効果を発揮するんですよ」いつの日か「スッポン・マカ」の商品化を考えよう。その翌朝は三時半起床。トメアス行きの船が、朝まだ暗きアマゾン川を出港した。
木製の船には農大のOBが五十人、乗船している。「五十年前も同じ光景だったね懐かしいなあ」「大宅壮一さんがアマゾンにきて、『緑の地獄』と言ったけど、杉野先生は『一パーセントでも開拓のチャンスがあるなら緑の天国だ』と語られた。それでも夢見るボクたちが騙されて、みんなブラジルに来てしまったんだよねえ(笑い)」「あの時、ボクは横浜港からオランダ船に乗った。農大や拓大、日大の応援団がきてドラを打ち鳴らす。テープが投げられ、ボーッと汽笛が鳴って、家族と、涙涙の別れでつらかったなあ。八十ドル持って出航したけれど、途中で二十ドル使ってしまったんだよね」
緑の地獄とも魔境とも言われるアマゾン、そこに人々の生活がある。左の写真はオオオニバスの葉、子供が飛び乗っても沈まない浮力を持っている。右の写真はアクレ地区の先住民カシナワー族の少女たち、火を起こしているみたいだ。アマゾン川は流域面積が日本の17倍ある、その熱帯雨林は地球の全酸素の1/6を生産するので自然保護が強く求められている。
「私はスッカラカンになっちゃってね」みなさん面白い体験談を話してくださるが朝三時に起きたので眠くて仕方がない。時計を見るとまだ五時。甲板にはハンモックが十個も吊られていて、生まれて初めてハンモックによじ登りアマゾンの真っ暗闇の中で眠る。優雅に寝ていると、強烈な日差しで目が覚めた。太陽はすでに真上にあり、オレンジ色に見える。すごい光線だ。夕方、船はトメアスに到着する。
開設から八十年近い歴史があり、北ブラジルでは最大の日系人移住地である。かってのトメスはベレンからの道路がなく唯一の交通手段が川舟で「陸の孤島」と言われ、マラリアの脅威、経済作物の不在といった厳しい条件下で初期開拓者の苦闘が始まった。以上降雨による水害で土壌病害が広がり、ピメンタ(胡椒)産業も致命的な打撃を受け、危機に陥った。幾多の困難を経て、現在はアサイ等の果樹作物を多角的に栽培しているという。しかし、今でも船着場の周辺には粗末な二階建ての木造家屋が立ち並ぶ。
赤ん坊を抱いた女の人や、子供たちが裸のままで船にやってきた。この赤茶色のぬかるみの中にある村の佇まいを見た瞬間、今までの物見由山気分が一変した。実は昭和五十二年の三月と九月、父もこの地を取材で訪れて『輝ける碧き空の下で』というブラジル移民の話を書いている。すでに父は年を取り、今にも死にそうだが、まだ元気で若かったころの父が訪れた土地だと思うと胸がいっぱいになる。父の小説の中にある、移民の方々がマラリアで次から次に亡くなったシーンを思い出す。
ーーー耕地には墓場もなかったので、町まで遺体を柩に入れて運ぶことにした。棺桶を作るには、日本人移民たちが山から木を伐ってきて、手際よく運んでくれた。総監督は馬車を貸してくれた。いよいよ柩が馬車に乗せられ、動き出そうとするとき、雨になった。四郎もいとも手伝ってくれる移民たちもしとどに濡れた。老いて疲れたような馬も濡れ、その濡れた尻から湯気を立てていたーー
ハイブスカスなき墓
バスでやってきた教授が合流して、翌朝、東京農業大学教授・農業拓殖学科長だった杉野忠夫先生、日伯国会議員連盟会長を務めた千葉三郎先生達の墓参に行く。鳥がキーキー、ヴェン・テ・ヴィ(*2)と鳴き、パレテーラというマメ科の樹木が生い茂る。塀もない草っぱらにある貧しい墓地には日本人の墓ばかりが立ち並ぶ。野原家之墓、山田家、加藤家、横倉家、長井家、成井家、田中家、八巻家.....ブラジルの人の墓にはハイビスカスの花が飾ってあるが、日本人の墓には誰も訪れた形跡がない。多くの日本人の名前を見て目頭が熱くなった。日本からこんな遠い土地に来て、幸せな一生を過ごしたのだろうか。
ピメンタを育てるため、どれほどの苦労をしたのち、この墓地に埋葬されたのだろう。マラリアで亡くなったのだろうか。不勉強のまま、アマゾンにやってきた自分が申し訳ない気持ちになる。その晩は、トメアスの日系人が経営しているペンションに泊まった。朝六時、なにかオゾモゾするので目が覚めた。「キャー!!」小さなアリが何百匹もベッドの上で蠢いている。私、この中で寝ていたのだろうか?しかもトイレに行くと、五センチもある真っ黒な大グモが壁に張り付いていた。アマゾンの野生を体感する。
その日の午後には、「東京農業大学卒業生アマゾン移住五十周年式典」に出席。ぬかるみの道路に面した、屋根だけの店。テーブルには、焼きそばや海苔巻き、ブラジル料理が用意されている。農大を卒業し、五十年も頑張ってきた方々に表彰状が手渡される。OBの方々が教えてくれる。「ブラジルに来たとき、ボク達は大学卒というプライドがあったんだよ。ところが、算数も知らないようなパトロン(農園主)にこき使われて大変な苦労をした。三年間は契約労働者として技術を覚えたり、土地の習慣や言葉に慣れるのに必死だったね」
注記*2:ヴェン・テ・ヴィの意味
小鳥のさえずりを言葉にしたもので、ポルトガル語でvem te vi(見てるぞ)という意味。ジャングルの中で人は急に用を足したくなる、ズボンを下ろして用を足すが紙なんてしゃれたものは無い。そこで最寄の大きな葉っぱをちぎって紙の代用品にするが、そこに寄って来るのがこの小鳥でいきなり”見てるぞ”と叫ぶので人が仰天してこの小鳥に「見てるぞ」と名前をつけた。実際、この小鳥の鳴き声は現地語の”見てるぞ”にそっくりなので、見られた人間は相手が小鳥でも怒ったに違いない。ズボンを下ろしてしゃがみこむ格好は”見てるぞ”なんて言われたら出るものも出ないじゃないか。
私は13歳で初めてブラジルのジャングルに足を踏み入れたが、そこは高さ30メートルはあろうかと思える巨木の森で、無数の小鳥が飛び交っていた。そしてそれぞれの小鳥が独特のさえずりがあり、やかましいくらいに静かなジャングルで聞こえた。私は口笛が得意だったので小鳥のさえずりを真似してみた、するとたちまち小鳥が寄ってきたのでびっくりしてしまった。一羽ではなく無数に寄ってきて、私の口笛に返事をするのだ、この感動は半世紀近くたった現在でも私の大事な宝物である。
窓際OL斉藤由香の「大アマゾンを行く」 最終章
「顔洗い場があったんだけど、いつもボウフラが浮かんでいて、『ふーっ』と息を吹くと沈むから、そうして顔を洗ってね。月給は五コントで、そこから住居費、食費、電気代をとられた。残りが二コント。タバコを買うとなくなるんだ。日曜も仕事で、二時からやっと休みをもらえて、金ダライにズボンと下着を入れて足で踏んで洗濯をしてね。その繰り返しだった」
「ブラジルに行く前に、『移民の指導要領』という小雑誌が配られて、『ドラム缶を持っていくと、荷物入れや風呂になるし、種子の収納にも便利です』とか、いろいろ書いてある。でも今では考えられない想定外の苦難があって、杉野先生がみんなの心のよりどころだったんだ」
「サイトウさん、ボクは三回、虫が体に入ったんだ」「ハッ?虫ですか?」「昭和三十七年頃、貧しくて豚の内臓で石鹼を作っていたんだ。農作業服を石鹼で洗って干すと、豚のにおいに誘われて虫が卵を産むの。臍の横が蚊に刺されたみたいで、『痒いな』と思ってみると、二ミリの穴が開いていて、ボクの体でサナギが育っているんだ」「エーッ、サナギが!?」思わず卒倒しそうになる。
「虫が息をしているのが見えるの。筍みたいな節があって、毛が生えていて。それでギュッと搾り出して体から押し出すんだよ」父の『輝ける碧き空の下で』にも同じことが書いてあったが、「これは昔の話だ」と読み飛ばしていた。まさか、目の前の人の体に虫が入ったとは衝撃だった。強烈なアマゾン体験をしてヘトヘトになってサンパウロに戻る。こんな場所に、昔、父はやってきたのだ。
いつか父とアマゾンへ
ブラジルに行く前夜、何故、ブラジル移民の話を書いたのか父に尋ねた。「まだ日本で海外旅行が自由化されていない頃、昭和三十六年の年末から、二ヶ月間、ハワイ、タヒチ、フィジー、東サモア、西サモア、ニューカレドニアに取材に行った。タヒチで、『山奥に日本から移住した日本人の老人が住んでいる』と噂を聞いたんで、ようやく、一人暮らしの老人を見つけた。でも長年、誰とも話してないから、日本語を忘れかけていてね。『日本に帰りたくないですか』と聞いたら、『そんなことは叶うわけもないし、つらくなるので考えないことにしています』と言われ、”何てことを聞いてしまったんだろう”と、今でも後悔しているんだ....」
父は言葉を詰まらせた。「悲惨な移民の人達の話を聞いて、あまりにお気の毒で、いつの日か移民の話を書こうと、二回、ブラジルに行った。ベレンやトメアス、マナウス、弓場(ゆば)農場、第一回のブラジル移民を乗せた笠戸丸が入港したサントス港にも行ったよ」「移民の方々は、すごい苦労をされたの?」
「悲惨だった、殖民会社が人を集めたんだけど、移民の人達は渡航費を自分で払わないといけないから、家や田畑を売った。『金持ちになって、三年で日本に帰国する』という夢を持っていたけれど、過酷な自然と労働が待ち受けていてね。コーヒーの実を収穫するには技術も必要だし、しかも賃金は安い。冷害もあり、マラリアも蔓延したりして、ほとんどの人は日本には帰れなかったんだよ」父の目には涙があった。
最後の晩、サンパウロの空港へ。農大OBの方々が大勢、見送りに来てくれた。「サイトウさん、また来てね。これ飛行機の中で食べて」クッキーやブラジル移民の資料、アマゾンで一緒に撮影した写真を渡された。帰りの飛行機の中では、トメアスやベレンで見た日本人の墓を思い出し、涙が止まらなかった。私たちは何と安直な生活をしているのかと愕然とする。新聞や雑誌でももっとブラジル移民のことを報じてほしい。来月六月十八日、日本人のブラジル移住百周年を迎える。恐らく父は「無理だ」と言うと思うが、無理矢理、車椅子に乗せてでも、二人でアマゾンを再訪したい。
斎藤由香 (さいとう・ゆか)
成城大学文芸学部国文科卒。祖父は歌人・斎藤茂吉、父は作家・北杜夫。サントリー株式会社の窓際OL。広報部を経て、風邪もひかず、健康だけが取り得ということで、現在、健康食品事業部勤務。自称・「マカ」キャンペーンガール。資格免許は、自動車普通免許だけ。特技なし、語学力ゼロ。食べ物の好き嫌いなし、激辛・ゲテモノ歓迎の温泉好き。酒量は楽々ウイスキーボトル1本。
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