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これが「厳島丸」の勇姿だ 英船舶史家が所有 サンパウロ新聞WEB版より
『私たちの40年!!』寄稿集には『あるぜんちな丸(移住船)関係の話題』という欄があり沢山の移民船が写真と共に掲載されていますが、第3回ブラジル移民船『厳島丸』は、ありませんでした。今回宇佐美氏の執念の追及でイギリスの船舶史家が所有していた当時の移民船の写真が発見されたとの嬉しいニュースがその写真と共にサンパウロ新聞に報道されていました。
厳島丸は、笠戸丸(一九〇八年)、旅順丸(一九一〇年)に続いて、第三回移民船として一九一二年三月、竹村殖民商館の三百六十七人を乗せてサントス港に到着。三四年に日本で解体されたとされている。
写真は、長年幻の移民船と言われていた厳島丸の勇姿です。


《宇佐美氏執念の追及で写真の存在知る》 

 これまで不明となっていた第三回ブラジル移民船の「厳島(いつくしま)丸」の写真がこのほど、イギリスの船舶史家から「笠戸丸」研究家である宇佐美昇三氏(七三、日本在住)のもとに送られ、本紙にその情報が寄せられた。これは、宇佐美氏がイギリスの名門造船所である「スワンハンター社」への十年にわたる調査依頼により実現したもの。同氏の船舶調査に対する執念の賜物とも言える。移民百周年を迎えた今年、改めて当時の移民船の写真が発見されたことは歴史を辿る上でも、その価値は大きい。

《ペルー移民にも思い出の船 ブラジル第3回移民を運ぶ》

 〇七年二月に「笠戸丸から見た日本 したたかに生きた船の物語」(海文堂出版)を発刊するなど「笠戸丸」の史実探索を行ってきた宇佐美氏(現:日本大学芸術学部非常勤講師)。「厳島丸」の写真入手を知人たちから要望され、スワンハンター社への依頼など約十年にわたって調査を行ってきた。

 しかし、同社は従業員を解雇し、当時の資料を持つ人の行方はつかめず、調査は難航を極めた。

 そうした中、宇佐美氏は二〇一〇年に予定されている「笠戸丸から見た日本」ポ語版出版計画のために、同書のカタカナを横文字に直す作業を開始。十七年前の取材メモを丹念に読み返したところ、三人のスワンハンター社の元従業員の住所が出てきたという。

 改めて、元従業員に資料を依頼。転送を繰り返した後、同名の違う船舶の写真が送られたことなどもあったが、最終的には同社の従業員で船舶史家のイアン・ラエ氏から正式な「厳島丸」の英国船時代の写真と図面が送付されてきた。

 宇佐美氏がラエ氏などから得た情報によると厳島丸は、「FIFESHIRE」という船名で一八八七年九月二十四日完成されたものだという。

 翌八八年にハーダー兄弟社に用船(チャーター船)として使用され、約十年間豪州ニュージーランド移民船として航行。一八九八年には、ドュカルライン社に転売され、「デユーク・オブ・ファイフ」と改名されている。

 一九〇三年、移民会社経営の森岡眞(もりおか・まこと)氏が第二次ペルー移民船として用船。その後、購入して「厳島丸」と改名している。同船は契約移民九百八十一人(うち九十八人は女性)、自由移民百九十四人(うち女性十人)を乗せ、同年六月二十日に神戸を発ち、同七月二十九日リマ(ペルー)のカヤオ港に着いている。

 ブラジルへは、笠戸丸(一九〇八年)、旅順丸(一九一〇年)に続いて、第三回移民船として一九一二年三月、竹村殖民商館の三百六十七人を乗せてサントス港に到着。三四年に日本で解体されたとされている。

 宇佐美氏は本紙に寄せた情報の中で「イアン・ラエ氏をはじめ、山田廸生氏(日本海事史学会理事)、日本海事センターの木村素子さんから、ご教示を受けた内容を総合して記した」として協力関係者への感謝の意を示しており、今後も移民船の研究を続けていく考えだ。

 (写真=発見された「厳島丸」の写真)

 2008年3月15日付



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