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『私にとってアマゾンとは』東京農大拓殖61年卒 麻生 悌三さんの寄稿
最近、麻生さんは活発な執筆作業を続けておりブラジル農業界の各部門に付き纏めて呉れています。今日は少し変わった回顧録ともいえる麻生さんのブラジルにおける初期のアマゾン時代の思い出を『東京農大卒業生アマゾン移住50周年記念誌』に書いておられる掲題の原稿をお借りして寄稿集に収録させて頂くことにしました。アマゾンでの3年間は、麻生さんの今日を形成する上でどのような影響があったのか?ご本人がいまだに『アマゾンとは』の問いに結論が出ないとのこと。写真は数少ない当時のものを見つけて送ってくれましたが、鉄砲にピストル何だか西部劇に出てきそうな物騒な物腰、これでも格好良いと胸を張っての気負った麻生さんの姿が微笑ましい。誰にもあった青春の1コマが懐かしい写真です。麻生さん有難う。


小生のブラジル生活も、思えば、半世紀近くになる。省みれば,光陰矢の如し、棺おけ
に片足を突っ込んだ、マカコヴェーリョになってしまいました。昭和35年(1960年)の日本はまだ戦後の混乱期の余韻を残していた時期で、安保騒動で全学連が国会に突入し
東大の女子学生,樺美智子さんが,デモ中、圧死した事件があったり、今日のような、平穏な社会ではなかった、。東京オリンピック開催の4年前の年である。その年の6月、移民船ブラジル丸に乗り、ベレンに向かった。船内には1000名余りの移住者が詰め込まれ、
船倉は寿司詰めでごったがえしていた。もともと、農大の拓殖科に入ったのも、3年で海外に出れると言う、宣伝に乗ったからで、海外に出て、大いに羽根を延ばし、好き勝手な人生を送ろうと言う、不埒な考えからで、真面目に農業をやろうなどと云う、杉野イズムの欠片は微塵もなかった。身元引き受け先は、杉野先生の紹介で、呼び寄せてくれた、、
辻小太郎氏で、辻氏が経営する、サンタレンの辻商会に配属された。会社はジュート麻の集買とそれを梱包する工場をメインの業務にしていた。
ジュート麻は乾季の干上がった川辺に、ゴマに似た種子を播き、河の増水が麻の生長速度に比例するかのように増してくる。高さ2メーターぐらいになったら、根元を切り,河の水に漬けて、しばらくして、樹皮を剥ぎ取り、乾燥させる。この刈り取り作業がハードな労働で、上からは灼熱の太陽、下半身は水中の作業は、体調を崩す原因であった。今では
日系人でジュート麻の栽培者は殆ど見かけない。ジュート麻はアマゾニア産業が中心となり、パキスタン、インドから種子を導入し試作したが、失敗の連続だった。麻の根が張らず、水流に流されてしまうのが原因だった。偶然に尾山氏の農場で、流されない、数本の
ジュート麻を見つけた。その種子を丹念に増やし、アマゾンのジュート産業の礎となった。
それ以前のブラジルは主要産物のコーヒーの麻袋をインド、パキスタンより輸入し依存していた。ジュート産業勃興後は国産で麻袋を補い、トメアスの胡椒と並ぶ、アマゾンに
日本人が創った2大産業である。
辻商会に入ったが、言葉も分からず、まともな仕事が出来る訳がない。当面、仕事は倉庫の雑用係。入荷するジュート麻を計量し,伝票に記入する単純労働で言葉が出来なくても、
これなら出来た。月給はその当時の最低給与で月給4クルゼイロで、食費を払ったら何も残らなかったと記憶している。ジュート麻の集買期の7−9月になると、河船で点在する
集散地に集買に出かける。武器は日本から持ってきたソロバン一つ。当時は小型計算機などと言う便利な物は無く、手動式の大型計算機が事務所にひとつあるかないかの時代だった。計算は全て手書きの数字を足したり、引いたり計算する以外なかった。そこでは、ソロバンなど見たこともなかった場所で、絶大な威力を発揮した。玉をはじいて、あっつと言う間に答えを出す魔法の計算機の御蔭で、計算がデキナイ労働者が給与表を持って仕事の合間に,列をなす有様(誤魔化されていないかチェックに来る)。
まさか、ソロバンでメシが食えるとは、想像すらしなかった。
会社の裏はアマゾン河。その西方2km 上流にタパジョース河が合流しており、青い水とアマゾン河の濁流が混じりあう地点である。そこに、沈む夕日は天下逸品の美景で、
これ以上の美しい夕日は、まだ見たことが無い。壮大な夕日が静にアマゾン河の彼方に沈むシーンはまだ脳裏に残っている。
61年の或る日、悪いニュースが伝えられた。サンタレンのアマゾン河をはさんだ対岸の
モンテアレグレの農協に入った、同期の柚木尾君が自殺したと言う知らせだった。
柚木尾君が運転するトラックの荷台にブラジル人を乗せて、田舎道を走るうちに、横転してブラジル人多数を負傷させた事件で,気が動転した彼は、マットに逃げた。(逃げた理由は不明だが想像するとすれば、ブラジル人の復讐を恐れてからかもしれない)責任感が強く、
超真面目人間だけに、自分を追い詰め、シャツを破って、首をくくり、他界してしまった。モンテアレグレ耕地総出の、マットの捜索でも発見出来ず、上空を旋回するウルブーの群れで、遺体を発見している。
サンタレンでの生活も1年を過ぎ、大いに羽根は延ばしたが、所詮、最低給与では遊ぶ金はない。日本から持参したカメラ等金目の物は全て売り払いすってんてん、になった記憶はある。又、一人前にマラリヤの洗礼も受けた。そろそろ,飽きが来ていた頃、
マカパのパラー栗の産地でパラー栗の集買を始めるので、そこに行けと命令でマカパに行かされる事になった。マンガン鉱の積み出し港イコミより数十キロ、内陸部に川を遡行した地点で、パラー栗の倉庫と乾燥設備があり、契約労働者を入れて、マットで自生する栗の採集と集買を行う拠点に数ヶ月住むことになった。
採集されたパラー栗は、採集人と生活物資を物々交換して決済する。金を貰っても、使う場所がなく、必要な物と交換する原始社会を始めて経験した。
夜になると,吼え猿の叫び声が聞こえ,朝、倉庫から数メーター先の道に,豹の足跡があるような蛮地だった。生活自体は単調そのもので、朝から晩まで、同じ景色を眺め、時折、
現れる栗の運搬船や行商人の船が唯一、文明の匂いを運んできた。その当時、南伯では、
戦後来た、多くは独身青年は新来青年と呼ばれ、至極、日系社会での評判は悪かった。
ガルボンブエノ街の愚連隊などと新聞を賑わせたこともあった。日本で描いたブラジルの
理想と現実のギャップが,ストレスやトラブルを生み,ノイローゼになり,帰国する船の
切符を買う金も無く、自暴自棄になる輩も多かった。
原生林の中での生活は、不思議とノイローゼとは縁がなかった。貧富の差や境遇を比較する物差しが無ければ、悩む必要はないわけだ。但し、頭脳の回転は確実に錆びついてくる。
川底で転がる石に苔付かず、と言う諺があるが、脳は刺激が無いと確実に衰えると言う事
を覚えた。パラー栗の集買時期が終わる頃には、もう二度と同じ生活はするまいと思った。
ベレンに帰り辻商会を辞し、1年近く、シンペックスと云う胡椒の集買会社に働き、サンパウロに新天地を求めて飛び出した。
サンパウロで就職した先が、何の縁か、ジュート麻の製麻会社でカサパーヴァ製麻と云った。数ヶ月経ち、アマゾンのパレンチンスのジュートの集買所に行ってくれと言われ、何のことは無い、数ヶ月で又、アマゾンに戻ることになった。
足掛け、3年ほどのアマゾン滞在で、サンタレン、ベレン、トカンチンス、トメアス、パレンチンスとほっつき歩き、見聞は広めたが、果たして、自分にとって、アマゾンとは一体、何であったか、自問すれども、まだ、その回答は出ていない。
2007年11月6日
拓2期 麻生



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