特派員のエッセー ニッケイ新聞特集
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ニッケイ新聞で日本移民100周年の今年面白い企画を組んでいる。物書きというか社会の木鐸と言われる新聞記者の皆さんに100周年を如何に捉え報道して行くかを聞き出してエッセーとして纏めている。元日本ブラジル交流協会の研修生の石田博士朝日新聞サンパウロ支局長は、良く存じ上げている。読売新聞の小寺以作さん、日経新聞の壇上誠さん、NHKの濱西栄二さん、時事通信の市川亮太さんそれぞれ物書きを生業としておられる皆さんで読み応えがある。この人たちに伝えて貰えるブラジルは、日本との距離を短縮して呉れるに違いない。
ニッケイ新聞の書き出しは、『今年、日本移民百周年を迎えるにあたり、移民社会を取材対象とすることが少なかった特派員記者らも、その一世紀の歴史を日本に報道している。南米各地の出来事に目を光らせながら、それぞれの滞在期間のなかで何を見、感じているのか。現在ブラジルに支局がある全報道機関、朝日、読売、日本経済、時事、共同、NHKの特派員各氏にエッセーの寄稿を依頼、独自の視点で見た百周年、コロニアを書いてもらった。』とある。
写真は、皇太子殿下を迎えて各地で100周年祭で賑わっており日本でも盛んに取り上げられていると聞く。サンパウロ新聞の皇太子殿下の慰霊碑に頭を下げる皇太子殿下の写真をお借りしました。
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ニッケイ新聞 2008年
第一回【コロニアがくれた視点】
石田博士 朝日新聞サンパウロ支局長(37、岡山県出身、05年9月着任)
笠戸丸出港から百年の節目となった四月二十八日、朝日新聞は一面でその事実を紹介し、さらに一ページをブラジル移民特集にあてた。
この取材の一環で、サンパウロ州フランカを訪れた。約七十五年前に移住した南原勇男、千代喜さん一家の話を聞いた。コーヒー農園での厳しい仕事を「明治の根性で頑張った」と話された。とても興味深いお話で、取材時間が限られているのが惜しいと思った。
帰りのバスに乗る頃には日が暮れていた。黒々と広がるサトウキビ畑の上に広がる夜空をバスの車窓から見上げながら「ああ、あのころと同じような光景だ。俺はあのころと同じ道を走っている」と思った。
私がブラジルに初めて来たのは今から十六年前の九二年だ。日本ブラジル交流協会の研修生として、サンベルナルド・ド・カンポ市役所と日伯毎日新聞(現ニッケイ新聞)で研修した。サンパウロ学生会が建てたアルモニア学生寮に住んだ。
寮長の渡辺次雄先生、奥様のエリザベッチさんは礼儀に厳しかった。
「きちんとあいさつしなさい」「部屋を掃除しなさい」「服装が乱れている」
到着当初、毎日のように怒られ、「あんたは日本人じゃない」「それじゃ土人だ」といわれた。
当時二十一歳の私は、エリザベッチさんの言葉に内心反発した。
日本で生まれた自分が「日本人じゃない」ってどういうことだ? ブラジルで生まれたおばさんに何で「日本人」うんぬんと怒られないといけないのか?
だがそんな思いも、コロニアのあるサンパウロ近郊のいろいろな町を訪れるうちに消えていた。
地球の反対側の地で、営々と日本人として生きる環境を積み上げてきた先達の苦労を思った。エリザベッチさんを「日本人として生きろ」と育てたお父さんたちの気持ちも、分かったような気がした。
そんな思いでバスの中から見上げるのは、いつも同じような夜空だった。
一年の研修を終えて日本に戻り、翌年、朝日新聞に入社した。今もエリザベッチさんの厳しくも愛のあふれた言葉を思い出す。
そして今もなお、「日本人とは何か?」が私の心をとらえて離さない。
何が人を「日本人」とするのか? 言葉か? 礼儀か? 顔立ちか?
なぜ優しく礼儀正しいはずの日本人が、ブラジルから来た日系人を差別するのか? 「日本人でなければ人にあらず」なのか? では今の日本に暮らす人々は、本当に「日本人」なのか?
日本社会を射抜く視点の一つのヒントを、私はコロニアにいただいた。
そんな私が、笠戸丸から百年の今年、特派員としてブラジルにいられる幸運に感謝したい。
移民のみなさんのご苦労やその子どもたちの百年を描くには、いくら勉強しても足りず、いくら取材しても足りない、といささか絶望的な気持ちにもなる。だからといって、原稿を書くのを躊躇するならば、日本に伝わるブラジルの情報が減る。私が見て聞いて感じたブラジルを精いっぱい祖国に伝えたい。
それが、今の日本に暮らす人々にとって「日本人とは何か」を問い直す一つのきっかけになってくれれば、と願う。
ニッケイ新聞 2008年
第二回【もっと伝える努力を】
小寺以作 読売新聞リオ・デ・ジャネイロ支局長(34、大阪府出身。07年11月着任)
四月下旬、サンパウロで、ブラジル・ジャーナリスト連盟から表彰を受けた。ブラジルの文化や習慣を日本に報道することで、伯日交流の橋渡しをした功績を称えて、ということだった。
ブラジルに拠点を置くすべての報道機関が対象だったが、それでも私の名前が入った案内を頂いたときには思わず、首をかしげた。ブラジルに来て半年。そんなにこの国の話題を取り上げただろうか。
恐る恐る過去の記事を検索してみると、わずか十六本。月平均約二・七本。あまりのお粗末ぶりに赤面するしかなかった。
ここ数年、「BRICs」という造語が流行っている。経済成長の著しいブラジル、ロシア、インド、中国の四カ国をひとくくりにした言葉で、日本の書店では、関連の投資本がびっしりと並んでいる。それなのに全国紙では、ブラジルが話題に上る機会は少ない。
なぜか。様々な理由が思いつく。一人で二、三十カ国を担当する新聞社の体制、記者個人の能力や努力不足…。だが、最大の要因はやはり、両国を隔てる距離ではないか。あまりにも遠すぎて、新聞社の人間も、読者もイメージがわかないのではないか。そんな気がしてならない。
私を含め、多くの特派員が百周年こそ、両国の心の距離を縮める千載一遇のチャンスだと信じている。日ごろは、ブラジル国内を回る機会の少ない特派員が、サントス、クリチーバとゆかりの地を飛び回っている。私もイタペセリカ・ダ・セーラやトメアスなどの入植地を訪れ、四月二十七日から五回の連載にまとめた。
マラリアで家族を何人も失った人、コショウ栽培で莫大な財を築いた人、他人にだまされ、財も地位も失った人、子孫に日本語を残すために学校作りに奔走した人…。
一口に百周年とは言っても、日系人口は百五十万人。実に様々な思いが交錯していた。ただ、共通しているのは、自分や祖先の歩みを、そして日系社会が抱える問題や不安を日本に伝えて欲しいという熱い思いだった。
がっかりさせられたこともある。一月にある日系団体が主催するイベントを事前取材したときのこと。事務所を訪れると、開口一番、「来るのが遅いですよ」と嫌みを言われた。開催まで二週間を切っていたこともあり、告知記事を書くには確かに遅すぎた。申し訳なく思う。
だが、その団体の幹部は、報道機関に情報を提供するでも、協力を呼びかけるでもなく、ただ、参加者が集まらないことを嘆くばかり。
百周年は誰もが注目する大きな節目、自分たちは一生懸命、行事を盛り上げようと頑張っている。周囲は協力してくれるだろう。メディアも取り上げてくれるだろう。そうした意識を感じた。
あるいは、イベント開催に不慣れで、メディアの上手な利用法が分からなかっただけかもしれない。それでも、主催者側が多くの人々に知らせたいという意識を強く持たない限り、日系人の思いや移民の歴史、百周年の意義は海を隔てた日本にまでは届かない。
ジャーナリスト連盟の表彰式では、記念の盾を頂いた。現在、事務所の棚の一番目立つところに飾っている。盾を見ていると、「もっと、ブラジルの記事を書きなさい」と叱咤されている気がする。六月には、皇太子を招いての式典があり、それ以後も日伯友好の記念行事が続く。日系団体や大使館職員、そして、一人一人の日系人と「伝えたい」という思いを共有し、一本でも多くの記事を日本の読者に届けることができればと願っている。
ニッケイ新聞 2008年
第三回【映し鏡の日系社会】
檀上 誠 日本経済新聞社サンパウロ支局長(36、千葉県出身、07年9月着任)
「天皇誕生日奉祝運動会」――。他国の話で恐縮だが、これが私の日系社会との最初の関わりだ。昭和で言えば五七年(一九八二年)の四月。親の赴任で渡ったペルー・リマで参加した日系社会挙げての恒例行事。戦後教育を受けた小学校五年生にとって、この名称や開会式での万歳三唱は、十分に衝撃的だった。
正直な話、「戦前のようだ」と思った。だがなぜ日本人が南米に移住したのか、なぜ日系社会が日本とは異なる姿を保っているかという話を知るにつれ、歴史が人々の生活や運命を大きく変えて行くことを、子供心にも感じざるを得なかった。
中学校三年生で帰国するまで、私の情報源は短波放送だった。エクアドルからの放送、「HCJBアンデスの声(日本語放送)」ではブラジル各地の移住地に住むリスナーの手紙が多く紹介され、故郷を懐かしみつつも、それぞれの地に根を張る移民の姿を垣間見た。
サンパウロへの旅行では、リベルダージの本屋でAV(音響・映像)関連の専門誌「電波科学」を買いこんだ。今思えば、よくそんなマニアックな雑誌を置いていたものだと思うが、それも当地の日系社会の厚みゆえだろう。
ともあれ私の思春期は、南米の日系社会を身近に感じた時期だった。
帰国から二十年強、今度は幸いにもサンパウロで働く機会を得た。しかも移住百周年の節目だ。かつて漠然と感じていた移住者の苦労、祖国に対する郷愁や誇り、親世代からの価値観を受け継いだ二世以後の活躍、そして百年の重み。記者という立場で取材をし、また駐在員という立場でこの国で生活する時、自らの至らなさを痛感するばかりだ。
自分は―もっと言えば今の日本人は―、日系コロニアがブラジルで社会的信頼を勝ち得たほど誠実で勤勉だろうか。裸一貫で言葉も分からぬ国に飛び込む勇気や根性、野心があるだろうか。
日系社会や一世が持つ価値観を「古い」と片付けるのも、二世以後を「外国人」と線引きしてしまうのも簡単だ。残念だが同世代の日本人の一般的な認識は、その程度かもしれない。だが移住百年を遠い国での懐古ではなく、日系社会を映し鏡として自分たちを見つめ直す機会にできれば、と思う。
赴任直前に知ったことだが、私には一九二四年に渡伯した大叔父がいた。大叔父の定之助は画家を志して京都の画家に弟子入りし、京都駅で見かけた「一家をあげてブラジルへ」というポスターに触発され移住を決意したという。
私は京都支社に在籍中、京都駅で上司からの携帯電話が鳴り、ブラジル赴任を打診された。自分がここに来ることができたのも何かの縁だ。この縁は大切にしたい。
ニッケイ新聞 2008年
第四回【移民にしか詠めない名句】
濱西栄二 NHKサンパウロ支局長(37、神奈川県出身、07年6月着任)
サンパウロに赴任してきて、ひどく胸を打たれた句がある。「身ごもって 決意新たに 移民の日」という俳句で、どなたが詠まれたものか残念ながら承知していない。
しかし作者は、おそらく六月十八日の移民の日の頃に、妊娠が分かった女性であろう。そして妊娠を機に、やがて生まれてくる子供とともにブラジルの大地で生きる決意を固めたのだろう。
そこには少し迷いもあり、ともすれば折れそうになる心を奮い立たせている、という情景が目に浮かぶ。
わずか五七五の短い語句から、これだけのイメージを呼び起こす俳句は、まさに日本文化の粋と言えるが、ある時、俳句を習っているという、三世の女性に会う機会があった。
彼女は日本語を流ちょうに話すのだが、先生から与えられたお題に沿って、五七五に語句を並べるのに四苦八苦していた。
日本語の勉強という面では素晴らしく効果的な方法だと感心しつつも、好きなように詠めば良い、うまい下手は問題ではなく、ありのままを素直に表現することが大事だと助言した。
移民の方々は、そうやってこの百年を俳句でつむいできたのだから。
「移民来る 十二埠頭の 子沢山」。サントスに来ると、いつもこの句が頭に浮かぶ。「夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ」。カフェジーニョの苦みが口に広がる。「ブラジルの 大地を信じ 種を蒔く」。信じることだけが支えだった頃もあっただろう。
「豹吼ゆる 森深く罠 かけにけり」。ブラジルの原始林は深く、暗い。「コロニアに ないものはなし 新豆腐」。創意工夫が、手に入る素材で日本の味を再現させた。私も夜な夜な、リベルダージでこの恩恵に浴している。「外国に 老いゆく我や 日向ぼこ」。この光景は、本当にブラジルで良く見かける。
こうした数々の名句は、コロニア文芸とでも呼ぶべき域に達している。
移民という経験を経た人にしか詠めない句、ブラジルの大地と格闘した人のみが持つ迫力が、技巧に走った日本の句を軽薄なものに感じさせる。
これらは、日本語の達者な一世の方々が詠んだ句かもしれない。しかし二世、三世、あるいは五世、六世にしか詠めない句があるはずだ。体に流れる日本人の血と、自らを育んでくれた大いなるブラジルとの狭間で揺れる人達にしか詠めない心情がある。
「母の日の ひらがなだけの 便り読む」。なるほど、日本語を話す子孫が減るのは淋しいかもしれない。でも、ひらがなだけの句でも良いではないか。私は、五七五の語句と格闘する日系人の皆さんが愛おしい。
ブラジル日系社会が、今後の百年を俳句でつむぎ続けることを願ってやまない。
ここで拙句を一つ。「五月過ぎ 老いも若きも 百周年」。センスなし…。
ニッケイ新聞 2008年
第五回【百周年に冷淡なメディア】
市川亮太 時事通信社前サンパウロ支局長(35、北海道出身、04年3月着任、07年3月帰国)
「この扱いはないよね」―。四月二十四日、東京港区のホテルで開かれた「ブラジル移住百周年記念式典」。会場で久しぶりに再会した前サンパウロ領事で農林水産官僚の山口克己氏と後日、ブラジル関連のイベントで顔を合わせた際、互いに思わず交わしたぼやきだ。
式典には天皇、皇后両陛下や、福田康夫首相をはじめとする日本の三権の長、ロウセフ官房長官ら日伯の要人約四百人が参加。日本側の百周年記念行事の「目玉」と位置付けられるものだった。報道陣の数もざっと百人ほどで、ようやく日本でも百周年の機運が盛り上がるかと期待した。
しかし、弊社を含む翌日の主要各紙の扱いは、式典の規模に比べてひどく淡白なものだった。弊社は四十行程度のベタ扱い、読売は社会面ベタ、日経と東京は第二社会面ベタ、毎日にいたっては記事がなく、首相動静欄で登場する程度。朝日と産経は二段だったが、それでも朝日は政治面の囲み、産経は第三社会面肩にすぎない。しかも、各紙とも共通して天皇陛下の「お言葉」にスポットが当てられ、百周年の意義や日系人側の思いにまで触れた記事はほとんど見当たらなかった。
当然、記事の取り上げ方は各紙の編集方針やデスクの価値判断、当日の他のニュースとの兼ね合いで大きく変わる。ただ、サンパウロ特派員だったという「贔屓目」を割り引いても、当日はそれほど大きなニュースも見当たらなかったことから、やはり百周年そのものが日本のメディアではひどく軽んじられているとの印象を強く受けた。
世界のニュースを扱う外信部に戻って間もなく二カ月。この間、改めて気付かされたのは、海外ニュースの八割が米国、中国、韓国、北朝鮮に偏っているということだ。無論、日本の国益に直接影響を与える地域なので、関心が高いのは当たり前だ。それでも、洪水のように一部地域のニュースが微細にわたり流れるという状況は、バランスを著しく欠いているように映る。
ニッケイ新聞も折りに触れて警告しているが、先人、そして現在の日系諸先輩のたゆまぬ努力により、これほど親日本感情が強いブラジルをはじめ、押し並べて日本に好意的な中南米地域を軽んじる態度を我々メディア、ひいては日本国民が取り続ければ、いつしかこうした国々に見放される時が来るのではないかと危惧している。
盟友である朝日、日経、NHK、共同、読売、そして毎日の特派員仲間は日ごろ工夫して記事を載せる努力を続けているわけだが、どうも東京のデスク連中は中南米に興味はないようで、小生が帰国してからの報道を見る限りでは、百周年も盛り上がっていない。 メディアの反応を気にしすぎる必要はないが、多くの情報がメディアを通じて国民に届いていることを考えれば、祝賀ムードを本気で盛り上げたいならば、関係者は今からでも遅くないから日本での対メディア戦略を練り直した方が良いのではなかろうか。難しいのは承知だが、もう少しやりようがある気がする。
記念式典に話を戻す。天皇陛下や福田首相ら要人が祝いの言葉を述べる中、小生が最も心を動かされたのは、全校児童の三割がブラジル系という愛知県東浦町立石浜西小学校の児童十人によるプレゼンテーションだった。日ポ両語で共生の楽しさをつづった言葉と、「アクアレラ・ド・ブラジル」の合唱は、偉い人々の紋切り型の祝辞よりも、はるかに日本人とブラジル人の絆の歴史と未来を感じさせてくれた。
日系三世の箱丸ベアトリス亜由美さん(11)は「もう百年たってもブラジルと日本が仲良くいられるよう、力になりたい」と語ってくれたが、弊社も含め、こうした視点から式典を伝える記事が見当たらなかったのは、少し物足りなく感じた。
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