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熊野古道を旅する (2008/3/24〜26)早稲田大学海外移住研究会OBの旅紀行 (その1)
今年4月訪日時ホテル大倉で行われたブラジル日本移住100周年の式典に参加した翌日、その報告回も兼ねて東京で早稲田大学海外移住研究会OBの皆さんが集まって呉れました。ホームグランドの飯田橋の海老専科で久しぶりに諸先輩、初めてお会いした後輩連中との中華料理を皆で突きながらの歓談は、泥臭い海外移住研究会という看板の下に集まった青春の一時を共にした仲間だけに心を一つにする『何か』が感じられる。早稲田の海外移住研究会でも記念誌を残そうではないかとの機運が盛り上がっている。是非実現させて貰いたいと願っている。
『私たちの40年!!』の寄稿集が1000件に達する。記念すべき1000件は、『熊野古道を旅する』で飾らして貰うことにした。今年3月に17名のメンバーでの熊野古道の旅、地元出身の『おいやんのブラジル便り』でお馴染みの真砂ご夫妻の案内で和気藹々の青春との邂逅、楽しい旅だったとの各人が書き残す紀行文をOB会のHPよりお借りした。
写真は速玉大社前の全員17名の集合写真を使用させて頂きました。


熊野詣           黒瀬 宏洋
3/24(月)熊野地方は晴れだった。
早朝、雨模様の東京を新幹線「のぞみ3号」で発つ。雨は京都まで降っていた。でも、新大阪で紀勢線に乗り換える頃には、雨の心配は一切無くなっていた。ついている!
「オーシャンアロー5号」は定刻の11時過ぎ紀伊田辺駅に到着。改札口に真砂夫妻のほか飛行機、車での先着組みが出迎えてくれた。総勢17人(注1)揃って田辺観光バスに乗り込み、三日間の熊野三社巡りがスタート。地元の真砂が観光ガイドをかってくれて心強い。
早速、滝尻(たきじり)王子に向かう。梅どころとあって、沿道には梅畑が目に付く。2月中旬満開を迎え、今は花びらをすっかり落として結実期に入っているようだ。真砂のお国自慢たっぷりのガイドに聞き入っていると、最初の目的地に着く。
まず、小さな川越しにある熊野古道館で熊野古道に関する予備知識を得る。後鳥羽上皇が滝尻王子の前で和歌会を開いた際の懐紙(作った和歌を筆でしたためた和紙)の複製十数葉が展示されていた。
滝尻王子はこじんまりとした社であるが、大阪から熊野にかけて九十九(?)あるとされる王子(熊野権現の御子神をまつった社。さしずめ現在の「道の駅」と言えそう)のうち、特に重要視された五つの王子(五躰王子という)の一つとなっている。この社の裏手から熊野古道(中辺路ルート)が始まる。
今回は時間の制約とシニアの一団ということで、実際に歩くのは、熊野本宮大社に近い発心門(ほっしんもん)王子から本宮大社までの約7キロだけである。
昼食時間が近づいたので、バスはいったん熊野本宮大社前の食堂に直行する。食事後、バスで発心門王子のスタート地点に引き返す。ただし、岡部は、真砂夫人と瀞峡の別コースへ。
発心門(ほっしんもん)王子も五躰王子の一つ。小さい石造りの鳥居の奥にある朱塗りの社である。一同そこでトレッキングの安全を祈った上で、午後2時古道を歩き始める。人家が点在し、起伏の少ない普通の田舎道である。杉の木立の中も通る。歩くこと30分程、水呑(みずのみ)王子に着く。見過ごしかねない小さい石碑だった。昔の旅人に倣い、ここで水分を補給。
杉山を抜けると北側に視界が開け、集落が見えてきた。あちこちに椿の花が咲いている。北方に果無(はてなし)山脈が望める。1000m級の山々が連なっている。稜線が奈良県との県境という。手前にミニ富士といった百前森山(ひゃくぜんもりさん。別名は三里富士)が控えている。先人たちも眺めた同じ風景かと思うと感慨ひとしおである。水呑王子を出てかれこれ40分、茶店が見えてきた。ここに伏拝(ふしおがみ)王子がある。ここから本宮方面を見渡すことができる。名前の通り、参詣者はここから熊野川中州の大斎原
(注2)にあった社殿を伏し拝んだといわれる。茶店東側に隣接して、熊野を舞台に展開されたNHK朝ドラの中でヒロイン一家の生活を撮影したロケ現場があった。
次の祓所(はらいど)王子までの約1時間の行程は下り坂であった。岩が転がり足元は悪い。途中、展望台に寄ってきたという一人の若い女性と出会う。彼女によると、大斎原に立つ大鳥居がよく見えたという。我々には今更展望台に寄るという元気はなく、彼女と祓所王子まで一緒に下ることになった。ODAの仕事に関わり中南米に出張することもあったという。
祓所王子は、木立の陰にひっそり佇んでいた。ここで旅人は旅の穢(けが)れを祓い清めたそうだ。さあ、熊野本宮大社はすぐ近くだ。
熊野本宮大社には上四社南にある拝殿脇から入った。八咫烏(やたがらす)の幟が目立つ。全国に約3,100社ある熊野神社の総本山である。旧社殿地から移築された上四社はさすがに歴史の重みを感ずる。熊野三山のうち参拝するチャンスのなかった「奥の院」へやっと来ることができ、長年の念願が叶った思いだ。
PM5:00、バスは本日の投宿先「湯の峰荘」のある「湯の峰温泉」に向かう。湯の峰温泉は”日本最古、開湯1800年。熊野詣の湯垢離場として栄えた”温泉郷で、特に川面に近い岩風呂「つぼ湯」(注3)は小栗判官と照手姫(てるてひめ)の伝説で知られ”世界遺産登録された世界初の温泉浴場”という。(””の中の文言は、熊野本宮観光協会パンフレットより抜粋)

3/25(火)快晴
宿をAM8:00に出発したバスは、川湯温泉に立ち寄った。川湯を体験させようとの旅行プランナー真砂の配慮である。熊野川支流の大塔(おおとう)川沿いに温泉宿が並んでいる。ここの川原500mにわたり穴を掘れば露天風呂が楽しめるという。試しに川原に降りるとかなり大きな窪みに湯が溜まっていた。丁度湯加減も良さそうで菅間が真っ先に裸足になると足を湯に浸す。数人が彼に続いた。湯溜まりに餌を投げ込むと、雁数羽が競って奪い合った。
AM10:00、道の駅「川舟センター」で、川関の参詣手形をもらい、救命具と菅笠を身に付け、熊野川下りの舟に乗り込む。昔の参詣者が本宮から速玉大社に移動するのに利用した「川の参詣道」を体験しようというわけである。散らばった骨を思わせる「骨嶋(ほねじま)」、釣鐘のように大きな岩が釣り下がった「釣鐘石」、ほぼ中間点にある「昼嶋」(ここで上陸)、「弁慶の足跡」(岩肌に大きな足跡に似たものがついている)などを見ながら、最後に「御船島」を二周して降船場に着いた。スリルは少ないが、おかげでのどかな2時間弱(「昼嶋」での上陸時間を含む)の行程を楽しめた。
速玉大社は朱色鮮やかな社殿であった。神官によると、彩色が施されているのは神仏習合の現われという。本地仏が薬師如来のため、多くの参拝者は病気快癒を祈願するという。境内の「なぎ」の樹は、その葉を葉先と葉元を持って引っ張っても千切れにくいことから夫婦円満の象徴とされている。ところで、本宮大社(同じく神仏習合。本地仏は阿弥陀如来)が材木の生地剥き出しのままなのは、明治時代の洪水被害のせいであろうか?
熊野比丘尼(びくに)の絵解き実演は、舟くだりの女性観光ガイドが比丘尼姿になって熱演してくれた。かつて、熊野信仰PRのため全国に散らばった熊野比丘尼(注4)の布教活動振りの一端に触れた感じだ。
やや遅めの昼食を那智大門坂前の食堂で済ませ、PM 2:00、熊野古道「大門坂」を登り始める。杉林の中、やや単調な一直線の緩やかな道を3、40分ほど登るとバス通りにぶつかった。ここから、更に、土産店の並ぶ石段をかなり登るとやっと那智大社(本地仏は千手観音)が見えてきた。ご神体は本来那智の滝だという。隣接する青岸渡寺(せいがんとじ)の展望台から那智の大滝を眺めることができた。
勝浦に向かう途中、「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」に立寄った。時刻は5時に近づいていた。帰宅(?)寸前のご住職に交渉して、運良く寺の説明を受け、ご本尊の観音像や渡海舟を見せていただいた。妙法山阿弥陀寺を差し置き、熊野三山三社一寺(一寺は青岸渡寺)と並んで世界遺産に登録されたことにご住職自身驚きを隠さない。”補陀洛渡海”(注5)の住僧を出した寺院である点などが評価されたのでは(?)との話だった。観音像の実物は円くふくよかであった。渡海舟は小さな釣り船に小さな木組みを載せ樹皮を張り渡し外から堅く固定されたもので、大海に流れ出るにはいかにも頼りなげであった。寺院裏手の山には一団の渡海上人墓、平維盛(たいらのこれもり)碑があった。
なお、後の神武天皇が東征の際上陸した地も補陀洛山寺辺りと伝えられ、地元の漁師が櫂踊りで迎えたといわれる。そして八咫烏に導かれながら無事に大和に入ったという。
二日目の宿は、勝浦温泉・ホテル浦島。ホテル1階、大洞窟にある「忘帰洞」で潮騒をすぐ耳もとで聞きながら湯に浸かった。

3/26(水)
夜半の雷鳴が嘘のような良い天気であった。まず、全員で「那智大滝」に出かけた。個人的には2度目の滝との対面であるが、133mの高さから勢い良く流れ落ちる日本一の滝はまた新たな感激を与えてくれた。滝の水を1杯飲むとあと10年、2杯だと20年、3杯だと30年、4杯飲むと死ぬまで生きると聞いたが、控えめに2杯で止めた。また、滝見台で居合わせた仲間たちと「千の風になって」を思い切り声を出して合唱した。最高の思い出が作れた。
空海が開山したといわれる阿弥陀寺は妙法山の山頂(750m)にある。女人禁制の高野山の代わりに貴族の妻女たちが参詣したため「女人高野(にょにんこうや)」と呼ばれる。熊野信仰が盛んになった理由の一つに女人禁制の社寺が多かった時代に熊野は女性の参詣を許したことが挙げられる。阿弥陀寺の見晴台から、眼下に昨夜泊ったホテルのある突起状の陸地が見えた。その先に浮かぶ島が「山成島(やまなりじま)」と思われる。この島から多くの渡海上人が死出の旅に出発し、また、ここを若き平維盛が入水(注6)の場所に選んだと思うと何か胸にこみ上げてくるものがある。
午前の時間も残り少なくなり、バスはR42を紀州田辺駅方面に向けひた走る。途中、車窓から「鯨のモニュメント」が見え、捕鯨の町・太地(たいじ)を通過していると気付く。橋杭岩(はしぐいいわ)でトイレ休憩。奇観をま近かで眺める。また、眼前には大島が横たわっている。串本と大島を連絡船で結んでいた海峡には立派な大橋が架かっていた。
なお、1890年、オスマントルコ皇帝の特使を乗せたエルトゥールル号が大島近くで座礁した際、地元民が遭難者に温かく対応した。その美談がトルコの教科書に載っているため沢山の親日家を生んでいるという。いま大島にあるトルコ記念館はこのエピソードを記念したものだ。
昼食予定の「とれとれ市場」にバスは急ぐ。PM1:30頃到着。各自新鮮な食材を使った海鮮丼、寿司などを食べる。土産になんば焼・ごぼう巻(蒲鉾)、梅干を求める。
紀伊田辺駅14:44発「オーシャンアロー22号」で、楽しい思い出を一杯詰め込み、帰途に着く。

(注1) 速玉大社前の集合写真に載っている下記17名。
 前列 左から、佐藤、吉村夫人、吉村、真砂夫人、野上夫人、菅間夫人、菅間、
 後列 左から、三浦、黒瀬、岩田、岡部、赤木、赤木夫人、大島、真砂、横内、野上
 なお、野上夫妻は菅間のメキシコ駐在時以来の友人。

(注2)大斎原
「おおゆのはら」と読む。かつてこの中州に熊野本宮大社を構成する大規模な社殿群、付属施設群が存在した。昔の人々はこの大斎原を目指して熊野詣でをしたわけだ。中州に渡るため着物の裾を濡らして、身体の穢れを払う、「水垢離(みずこり)」とした。しかし、M22(1889)の大洪水で大部分が流出した。かろうじて残った上四社を移築したのが現熊野本宮大社である。現在、大斎原には、流出した中四社、下四社の石祠があるだけだが、H12 日本一高い大鳥居(33.9m)を造り、昔の壮大な社殿地を偲ぶよすがとしている。(熊野本宮観光協会などのパンフ類を参考)

(注3)湯の峰温泉の「つぼ湯」
死の世界をさまよう餓鬼姿の小栗判官が照手姫に導かれ、この「つぼ湯」に浸かると、遂に息をふきかえし、なんと元の小栗判官の姿に戻ったという。
ところで、神奈川県藤沢市の遊行寺(ゆぎょうじ)にも小栗判官と照手姫の似通った話が伝えられている。興味深いことに、どちらも一遍上人ゆかりの地である。

(注4)熊野比丘尼
おいやんの熊野便り(11) 「さすらいの勧進比丘尼」by 真砂睦

(注5)補陀洛渡海
 おいやんの熊野便り(12) 「浄土への船出」by 真砂睦

(注6)平維盛の入水
www.kkr.mlit.go.jp/kinan/trip/sugara/6_02.html">http://www.kkr.mlit.go.jp/kinan/trip/sugara/6_02.html

熊野随想           佐藤 喬
春、三月の佳き日、親愛なる移住研の仲間に誘われて「熊野古道散策」に出掛けた。
陽光さんさんたる紀伊田辺の駅で、改札口に身を乗り出すようにして真砂君が出迎えてくれた。
 山青く 海青くして 空青し
  ここ 友の郷(さと) 紀州和歌山

バスで発心門王子に行く。ここから熊野古道の一部を歩く。清涼たる大気に包まれて、
ゆるやかな登り下りを2時間強。山肌に桜花点々として一幅の絵をみるよう。本宮大社
に着き参拝。

 古(いにしえ)の熊野古道に分け入れば
  現世(うつしよ)忘れ 神さびるかな   
               注 神(かん)さびる=いかめしく厳粛である(広辞苑)
                        
 古(いにしえ)の詩(うた)にうたわる 熊野路は
  大宮人の魂(たま)の故郷(ふるさと)  
                
夕刻、湯の峰温泉に着く。
山の湯の気薫(くん)じて、俗化していなくて、山間(やまあい)の湯治場の風情(ふぜい)。
夜は宴会。気の合った仲間と和気藹々(あいあい)。酒旨し、お湯良し。
次の日は熊野川をいにしえを模した小さな川舟で下る。

 熊野川 流るるままに身をまかせ
  みどりしたたる山波をみる

後、大門坂を登る。八百段の石段と事前に聞かされていたせいか、心して登ったが、さしたることなく、まだ余裕綽綽(しゃくしゃく)。

 熊野路や いとも小さき我が命

中途の駐車場の並びの喫茶店で滝見珈琲と洒落(しゃれ)る。那智の滝をみながら文覚(もんがく)上人の逸話等思い出す。

最終日は滝を下からみる。イグアスの滝に比べれば、規模ははるかに小さいが、これが
日本的、前者にはない詩情を感じる。
ここよりバスで、名前は忘れたが、観光客のあまりこない山の上のお寺に行く。
紀伊松島といわれる島々の点在をみる。絶景。

熊野古道への旅  菅間 五郎
 熊野路の山に登れば
  眼路(めじ)広し 島あれば海 海あれば島

楽しい旅行でした。同行の皆さんに感謝。

千早振る神代の国へ夢の旅
    我等がおいやん語り部として

山桜競いて咲けり熊野路に
    旅の興趣はいや勝りけり

端麗な熊野比丘尼の出迎えを
    受けて嬉しき伝説の路

補陀落の船に乗る人乗らぬ人
    思いは馳せるあの移民船

かの船に乗り遅れたる我等なり
    移住のことは夢のまた夢

忘帰洞打つ波照らす月の影
    露天の至福感極まれり

宝籤当たれよかしと三山の
    牛王符買いて切に願いし

公達の故事に倣いて熊野川
    下れば見ゆる数条の小滝

轟音に負けじとばかり滝壺で
    我ら歌いし亡き友偲びて

阿弥陀寺の一つ鐘打ち懇ろに
    熊野に別れ告げる我かな

俳句      赤木正伸 
山桜 熊野古道を 照らしおり 

湯の峰の つぼ湯につかり 生気湧く (*)

岩燕 那智の飛沫を 浴びて飛び

川くだり かたり部いにしえを 偲ばせり

椿落ち われも行きたや 補陀落へ

                           以上 
(*) 同行者の中で唯一「つぼ湯」に入った(25日早朝)という貴重な経験を詠っている。黒瀬注 

「おいやんのお国自慢」   by 眞砂 睦
紀州、とりわけ半島南部の熊野地方には山と海しかない。延々と続く照葉樹林にわけいって、木の実をとったり木を切り倒したり炭を焼いたりする山人を除けば、熊野の人々はやっとカニが横ばいできるほどの狭い海べりにへばりついて生きてきた。紀州のお国自慢は従って、海と山に生きた人々が主役となる。紀州人はまことに力強いが反面実に淡白で金儲けが得意ではないが、人々の素朴な熱情がこの国のなりわいに大いに貢献をしてきた。ほんの数例を覗いてみよう:
1. 平安の昔から、熊野灘と紀州灘の荒海にもまれた紀州漁民は、この国の沿岸漁業を先頭を切って引張ってきた。熊野灘にそって北上してくるイワシを網でとる独特の漁法を開発、平安後期から江戸時代にかけて大量のイワシを供給して、人々の食糧としたのみならず、貴重な肥料としても活用する道を開いた。その技術をひっさげて熊野の漁民は黒潮にのって北に足を伸ばし、房総半島に拠点をかまえて大消費都市、江戸の庶民を養った。外房にある白浜や勝浦という地名は、紀州漁民が古里をしのんでつけた。外房、とりわけ銚子市の旧家といわれほどの家の家系をたどれば、紀州の漁民にいきつくといわれる。
捕鯨もまた同じような歴史を歩んできた。熊野灘の太地の漁民が、黒潮にのって沿岸近くにやってくる鯨を効率よく捕獲するために、鯨の頭から網をかぶせ、動きを止めて銛で突く方法を考案、捕獲率を劇的に向上させた。さらに、太地の人々は「鯨組」といわれる地域あげての捕鯨共同体をあみだして、捕鯨を近世のビッグビジネスに仕立て上げた。そのうえ、新しい捕鯨技術と鯨組組織を、土佐や肥前・平戸・長州にまで伝え、紀州のみならず、四国や九州の捕鯨産業の育成に手を貸した。
ところで、中世の熊野の漁民はすなわち海賊であった。熊野水軍というきれいな名はついているが、実態は海賊。猫の額ほどの海岸沿いで生きていくには、魚はもとより、他人様の生活物資を強奪するのも立派な仕事であったのだろう。海賊はお国自慢にはなるまいが、海で鍛えた精神力と技術は、近世以降のこの国のなりわいに大いに貢献したのである。ところが、こうした新しい技術を相当の金銭の見返りも期待せずに、おしげもなく他国に伝授してしまうのが紀州人なのである。

2. 鰹節と醤油の製法をあみだし、「日本の味」を作ったのも紀州人である。醤油は、紀州湯浅の味噌屋が、金山寺味噌を作る際に味噌から滴り落ちる液体の利用を考え、それを精製して醤油を作ることに成功した。後に、外房・銚子の水が醤油作りに良いことがわかり、銚子にもいくつか工場が作られた。大消費地に近いこともあって大いに発展、千葉県を醤油の一大拠点に持ち上げた。
鰹節の製法は、紀州印南の漁民が開発した。それまでの鰹節は柔らかいナマリブシのようなもので、日持ちがしなかった。鰹をいぶして乾燥し、表面に菌を植え付けて硬くて日持ちのする、今日の鰹節に仕上げたのである。味も濃縮されて飛躍的にコクがでるようになった。この新しい製法をおしげもなく他国に伝授したというのが、また紀州人である。同じ黒潮を漁場とする土佐に先ず、新しい製法を伝えた。おかげで土佐は大いに潤った。
その後、大酒飲みの印南の漁師が、房総を経由して江戸に流れ着き、日本橋の鰹節問屋に置いてあるナマリブシのような、なさけない節を見て、「こんなものは鰹節じゃねえ」と啖呵をきった。おどろいた問屋の主人は、伊豆に居る弟に紀州の鰹節の製法を教えて欲しいと懇願、毎日酒一升を出すという条件で、ふうてんの紀州漁師は伊豆に出向いた。伊豆で紀州の鰹節が誕生した。江戸に紀州の鰹節が現れたのはその時からである。醤油と鰹節は日本の味の素。紀州人がその「日本の味」を作った。

3. 和歌山市で生まれ、東大予備門を蹴って米英を放浪した後、田辺市に居を構えて熊野の森を調査・研究のフィールドとして、博物学・植物学に世界的な貢献をした南方熊楠はまた、明治の時代に「エコロジー」という概念を世界で最初に提唱した人物でもある。そしてこの在野の巨人は、ただの学者ではなかった。明治政府の神社合祀の強行策に悪乗りして、鎮守の森の神木を切り倒し金儲けに血道をあげる小役人や商人、はては警察までを向こうにまわして、牢獄に入れられながらも身を挺して抵抗し、不逞の輩たちから熊野の森を守った。その熊楠の熱情は、時を経た今も熊野に住む人々にしっかり伝わっている。
バブル経済の崩壊がまだ自覚されていなかった頃、某大手商社が風光明媚な田辺湾の総合開発計画を推進したことがある。ひっそくしていく地方経済の活性化には願ってもない巨大プロジェクトである。しかし、黒潮の支流が流れ込む田辺湾には、温帯には珍しい亜熱帯植物が混在する国の天然記念物「神島」があり、湾内は豊かな海洋生物の宝庫でもある。開発はこうした自然を破壊しかねない。心ある田辺市民が立ち上がり、とうとう開発計画を撤回させた。同じ田辺湾に「天神崎」という磯場がある。そこは貴重な海洋生物の宝庫。その磯場の背後の丘陵地帯が民間の業者によって宅地造成されようとしたことがある。背後の森がなくなると、磯場の生態系も壊滅的な影響を受ける。1983年、熊楠を師とも仰ぐ田辺の識者たちが開発反対の旗をあげた。開発業者が手をつけられないよう、市民や全国の応援者から資金を募り、背後地の土地を買い取る運動を起こしたのだ。全国の心ある人々や行政の支援も受けて、危ないところで開発を食い止めた。この自然を守るための運動は全国的な注目を集め、「天神崎」をめぐる闘いを主導したグループが、1987年日本の「ナショナルトラスト法人」の第一号として認定された。熊楠の神社合祀反対運動から半世紀ほども経て、熊楠の「エコロジー」への思いを引き継いだ田辺人が、この国のナショナルトラスト運動を主導して、自然保護活動を根付かせたのである。                (了)              

「苦労話」を書く苦労
                              眞砂ムツ子

 夫の縁に繋がって私と「移住研OB会」との付き合いも、とうに30年を超えた。その間に私達夫婦は3度ブラジルと日本を往復し、その双方で夫々の個性はあるものの、総じて明るく、でも何故か生真面目で人情に厚く、それでいて少年のような「遊び心」をいつまでも忘れない素敵な早稲田OBの方々にたくさんお会いした。その方々を図らずも2002年に続いて今年も熊野にお迎えできる機会を得た。昔の人は「伊勢に7度、熊野に3度」と言ったそうだが、交通機関や情報網が発達した現在でも「熊野」はいかにも遠いというのが東京と熊野を年に何度か行き来する私の実感である。そんな所にわざわざ二度も来て頂けるとは有難いには違いないが、さすがに「数寄者集団・移住研OB」ならではと思わず納得した。
一方この知らせを聞いた自他共に認める紀州大好き人間で大ほら吹き(紀州人の属性だと私は確信している)の我が夫は喜び勇んで、旅行代理店でパンフレットを集めまくり、図書館に籠って郷土史を紐解き、地方紙の観光情報に目を通し、下見と称して各地の「美味いもん屋」に出没した。「苦労話」というご注文ながら夫のこの姿を傍から見ていて「苦労」とは全く無縁のこの話をどうまとめるか苦労している。
さて、前日から24日未明まで降り続いた雨もすっかり上がり、朝9時には日差しが出て願ってもない「旅行日和」となった今回の旅は、幸運にも、山桜咲き乱れる春爛漫の熊野古道歩きに、美人比丘尼の絵解きや平安の上皇気分の川下りに、熊野在住の我々にさえ様々な新しい発見があり、捕陀落山寺での嬉しいパプニング、那智の大滝での大合唱、死者の集まる妙法山にさえ笑い声を響かせて、「早稲田大学海外移住研究会OB17名のご一行様の旅」は事故もなく、実に楽しく、本当に良い旅となったことが何より嬉しく、改めて参加者の皆様のご協力に御礼申し上げたいと思う。
むろん反省点はいろいろある。



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