『ニッケイ新時代:ブラジル移民100年』 毎日新聞 庭田 学記者
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ブラジルに置けるブラジル移民100周年祭は、皇太子殿下をお迎えして笠戸丸がサントスに着いた6月18日の『移民の日』に行われた首都ブラジリアでの100周年記念式典を初め、サンパウロ、パラナ、ミナス、リオの4州の各都市で盛大に行われブラジルのTV、新聞、雑誌にも大々的に報道されました。
日本に置いても笠戸丸が神戸を発った4月28日前後に各地で記念式典が開催され日本のTV、新聞、雑誌でも取り上げられています。6月の10日から14日まで毎日新聞夕刊で掲題の連載記事をメキシコ特派員の庭田学記者が書いておられ下記連絡を受けました。『移民100年の記事も書きました。毎日新聞のHPの検索で、「ニッケイ」とカタカナで調べてみてください。「ニッケイ新時代:ブラジル移民100年」のタイトルで記事が出てくると思います。』
写真は、ブラジリアの議会でご挨拶の言葉を述べておられる皇太子殿下です。
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ニッケイ新時代:ブラジル移民100年 1 日本移民発祥の地
◇若者流出、故郷の危機
「移住地ごと日本の過疎の町に引き受けてもらったらどうか。そんな話まで出たことがある」。ブラジル・サンパウロ州にある日本人移住地グアタパラの1世、川上淳さん(75)=茨城県出身=が吐露した。日系人団体「グアタパラ農事文化体育協会」の会長を務める川上さんには、移住地の将来への不安がよぎる。
州都サンパウロから車で約4時間。1908年、第1回ブラジル移民がこの地のコーヒー農園で働いた。「日本移民発祥の地」と呼ばれ、墓地には「拓魂」の碑が建つ。
「戦前移民」はすでに土地を離れ、現在暮らす日系人は戦後の移住者。人口約1000人のうち日系人は4割ほどで、減る一方だ。1世は高齢化し、農業を継がない若者は都会で就職したり、日本に出稼ぎに渡り、空洞化が進む。
「もうグアタパラの日系社会は消えてなくなるかもしれない」。副会長の1世、新田築(きずき)さん(57)=島根県出身=が話した。グアタパラ生まれの若者たちは日本語を流ちょうに操り、日系企業への就職口も多い。日本に出稼ぎにいくと、故郷には帰ってこないのだという。
新田さんの長男も別の町で働き、次男は日本、長女は米国に暮らす。「自分の子供には好きにやってほしい。でも、副会長としては若者に残ってほしい。矛盾してるんですよね」と苦笑した。
04年9月、ブラジル訪問中の小泉純一郎首相(当時)が突然、ヘリコプターでグアタパラに舞い降りた。80歳を超えた男性が、首相の腰にすがりつく写真が残っている。日系人たちは日本国首相を大歓迎した。
小泉氏はその情景を思い出し、サンパウロでの演説で涙を流した。川上さんは首相の涙を目撃した。「オレもとめどなく涙が出たね。感動という言葉をオレたちは忘れていたんだよね」。グアタパラには今、小泉氏揮毫(きごう)の「感動」の碑が建つ。
毎年元日、成人式が開かれる。「日本に出稼ぎに行った子が成人式に帰って来るんですよ。稼いだお金で着物やスーツを買って。よく頑張ったと思う。これも感動の一つなんだよね」。川上さんは目を細め、「彼らにとってはやっぱりグアタパラが故郷。この故郷をなんとかして残さないといけない」と自らに言い聞かせるように語った。
日本語学校で高校1年生の2世、林貴良君(15)が作文を清書していた。自分の夢をのせた空想の物語。主人公はブラジル人の医師。フランス人女性と結婚し、日韓米仏を舞台に大活躍する。大海を渡った移民1世と同じように、若い世代も世界を見据えている。
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1908年6月18日、ブラジルに日本からの第1回移民船「笠戸丸」が到着した。100年がたち推定150万人の日系人が暮らす。新しい時代の日系社会を探った。【グアタパラで庭田学】=つづく
毎日新聞 2008年6月10日 東京夕刊
ニッケイ新時代:ブラジル移民100年 2 結婚
◇「顔消える」葛藤越えて
ポルトガル系ブラジル人と駆け落ちした長女を許すのに、3年かかった。「ブラジル日本移民百周年記念協会」の執行委員長を務める1世、松尾治さん(70)=サンパウロ在住、福岡県出身=は、20年近くも前の出来事を振り返る。家族に「非日系人」を受け入れるまでの葛藤(かっとう)は、ブラジル社会と真正面から向き合う心の道のりだった。
松尾さんは1955年、親類を頼り16歳で単身、海を渡った。日本を出る時、叔父に「うちの家系に混血はいらん」と言われた。その言葉を忘れなかった。妻は日系2世。自分の子供にも日系人と結婚してほしかった。
長女(現在43歳)が結婚相手の元へ家出した時の衝撃は忘れない。娘婿とは口をきく気にさえなれなかった。だが、初孫を見て心が動く。「やっぱり孫はかわいくてねえ。娘の人生だし親がとやかく言っても仕方がない」。そう思うようになれた。娘婿は今、松尾さんを「パパイ(お父さん)、パパイ」と慕ってくれる。
13年前、長男もポルトガル系の女性と結婚したが、もう反対はしなかった。15歳になった孫娘は6月末、初めて日本に行く。日本語を特訓中だ。「うれしくてしようがないんですよ。私がいなくなったらわが家と日本の交流が途絶える可能性があったからね」。松尾さんに屈託はない。
20年前の調査では、3世の42%が非日系人と結婚。4世は62%に達した。時が流れるにつれ、日系人も溶け込んでいく。
サンパウロ州選出のウィリアム・ウー下院議員(39)は日本語、中国語、ハングルの3種類の名刺を持つ。裏面はすべてポルトガル語。父は台湾系1世、母は日系1世、妻は韓国系1世。事務所に飾られる記念写真の相手は、小泉純一郎元首相、胡錦濤・中国国家主席、盧武鉉(ノムヒョン)・韓国前大統領という顔ぶれだ。
「政治家としては状況に応じてそれぞれの文化を尊重するカメレオンのようなもの」と話す。だが、「政治的決断をする時はブラジル人であることを優先する」と断言する。
第1回移民船「笠戸丸」が到着した港町サントスの産科病院。24時間前に誕生した男児ブルーノちゃんを訪ねた。父のモンテさん(29)は日系3世、母のミネイさん(29)は4世。男の子は日本、ポルトガル、スペイン、イタリアの血を引く。
松尾さんは言う。「いずれブラジルからは日本人の顔は消えていく。あらゆる血が混ざり合ってブラジル人種が生まれる」。松尾さんの夢は、この地に日系大統領を誕生させることだ。【サンパウロで庭田学】=つづく
毎日新聞 2008年6月11日 東京夕刊
ニッケイ新時代:ブラジル移民100年 3 求心力
◇「日本の心」は脈々と
土曜日の深夜。サンパウロ市内のダンス会場入り口に日系人の若者が長い列をつくっていた。入場者の9割が25〜35歳の日系人だ。
公用語のポルトガル語に不自由せず、むしろ日本語がほとんど話せない若者たち。なぜ日系人で集まるのか? 何度も尋ねたが、若者たちは「なんでだろう」と一様に首をかしげた。
踊りに来ていた3世、ヤスジ・オオミネさん(32)は「難しい質問。共通点があるからかな? 縁起を担ぐところとかね」と話す。3世のシルビア・カナヤマさん(29)は「先祖を敬う心なんかが共通している」と言う。それでも、「外国に行けば日本人の顔をしていてもブラジル人であることを誇りに思う」と付け足すのを忘れなかった。
3世で母がフランス系というブルーノ・ムライさん(24)は「日系人と一緒にいる方が自然な気分。伝統的な日本料理が好きだ」と言い、フランスには全く関心がない。
通りを挟んだ別の会場。非日系人の若者が列を作っていた。日系人のダンスパーティーについて聞くと、「変わっていておもしろいね。同じ文化を持っているから、いいんじゃない」「日系人が閉鎖的とは思わない。人それぞれだよ」。肯定的な意見が返ってきた。
世代交代が進んで日系人は移民社会に統合され、日系文化は薄まっていくと指摘されている。だが、「日系人」の持つ求心力は脈々と受け継がれている。
民間団体「アベウニ」(大学生支援連合)はサンパウロ州内の貧困地区で支援活動を行う。日系人を支援するための日系団体から84年に独立。だが今もほとんどのメンバーは3世、4世の若い日系人たちだ。
「メンバーが日系人かどうかは重要ではない。でも習慣や価値観が一緒なので日系人が集まるのだと思う」と、第25代会長の3世、フェルナンド・フジサワさん(25)は説明する。「なぜ日系人が集まるのか」という質問に、メンバーたちは自問しながら、「居心地がいいから」などと答えた。
移民百周年記念協会の会長を務める1世、上原幸啓さん(80)=沖縄県出身=は54年間、州立サンパウロ大学で水利工学を教え、学生たちと接してきた。教え子には金髪や黒人のような日系人もいる。「日本語ができるとか、日本人の顔をしているとかは関係ない。日系社会は変化していくが、日本のルーツは残っていく」と語り、「日本の心」を継承する若者たちに目を細める。【サンパウロで庭田学】=つづく
毎日新聞 2008年6月12日 東京夕刊
ニッケイ新時代:ブラジル移民100年 4 ルーツ
◇日本文化、見つめ直し
舞台のスザナ・ヤマウチさん(50)のほおを涙がつたった。「わび さび」をテーマにしたパフォーマンスのクライマックス。日本庭園の四季と死を表現した場面で、自然に涙が出るのだという。
父は日系1世、母は2世。日本をテーマにした舞踏は12年ぶり3回目だ。日本独自の美意識の世界を扱う「わび さび」では、茶道や仏教、無理心中などを自分なりに解釈し、踊りで表現した。
「わび さびはどこにありますか?」。創作過程で、多くの1世や2世にたずねた。誰もうまく答えられない。自分も言葉ではうまく説明できない。「わび、さびは日本の本質的な精神だと思う。私は祖母に教わった古い日本の考え方を持っている。若い人に何かを伝えたい」。たどたどしい日本語で話した。
移民社会ブラジルで、日系人としての「自画像」を探し求める人は多い。それは、自らのルーツをたどる心の旅でもある。
3世のクラウディオ・サンペイさん(37)は高校生のころ、日系人であることに誇りを持てなかった。日系人の友人もほとんどいなかった。「日系人であることが嫌だった」と率直に打ち明ける。
だが、大人になって「私はどこから来たのか」と思いをめぐらすようになった。日系人と付き合うようになり、千葉県水道局に1年間の研修にも行った。現在は日系7団体で活動し、日系人向けのウェブサイトを運営する。「移民の気持ちを将来にどうやって伝えていったらいいのか」。サンペイさんは今そう考えている。
3世のエリカ・アワノさん(35)はブラジル唯一のプロの「日本風漫画家」。5歳のころ母の実家で日本の少女漫画雑誌に出合った。独学で漫画を描くようになり、日本文化も勉強した。十分な収入がない中で米国風コミックのアルバイトの口はあるが、「日本風の漫画しか描けなくて」と笑う。その表情に、日系人としてのこだわりが垣間見えた。
オランダ人、ユダヤ人などの血も受け継ぐ2世のアンジェラ・ナガイさん(41)は、アフリカからブラジルに伝わった呪術と日本の能楽を研究する。能楽は、16歳の時に雑誌で知った。京都に2度も留学したというナガイさんは、静かに振り返る。「ブラジル文化と比較しながら、二つのルーツをひとつにする。能を通じて自分の中の日本的な世界観を見つめることができた」
「若い世代が日本文化に戻ってきている」。期待しながらそう指摘する1世の人たちは多い。【サンパウロで庭田学】=つづく
毎日新聞 2008年6月13日 東京夕刊
ニッケイ新時代:ブラジル移民100年 5 元出稼ぎ
◇この地で恩返しを
「とにかくブラジルに帰りたかった」。雄大なアマゾン川を眺望するマナウスの日系車両部品メーカー「ホンダロック」で働くレオナルド・ファリアスさん(23)はサンパウロ出身の日系3世。8歳の時、出稼ぎの両親とともに日本へ渡った。
岐阜県で働いていた05年、ホンダロック社が日系人を募集。それに飛びつき、帰国した。「年を取ってからの日本での生活に不安があった。心の底から日本を自分の国だと思えなかった」と話す。
マナウスの同社工場では12人の「元出稼ぎ」が働く。日本で採用された幹部候補だ。給料は出稼ぎ時代の半分から3分の1に減った。マナウスは文化も気候も違う。妻や子供にせがまれ、日本に戻ることを検討する社員もいるが、多くはブラジルに戻ったことに満足しているという。
長野県で働いていた2世のセリア・クロサワさん(35)はサンパウロの両親に少しでも近い所で暮らしたいと、同社に就職した。ところが、その両親に「日本にいなさい」と反対された。2カ月前、日本の元の勤務先から「戻らないか」と誘われた。迷った。だが、「自分はブラジル生まれだから、やっぱりブラジルと決めた」。
マナウスは企業の税優遇があり、日本企業28社が進出する。だが、日本語ができる人材は不足する。そこで浮上したのが、出稼ぎ日系人の採用だ。日本語ができ、日本の習慣を知る元出稼ぎは即戦力になる。ホンダロック社には200人近くが応募。帰郷願望を持つ出稼ぎ者と、企業側の思惑が合致した。
マナウスの元出稼ぎ社員第1号は、車両部品メーカー「ニッシンブレーキ」に勤める3世、カルロス水津さん(44)だ。長野県の親会社・日信工業で働いていた時、上司に「転勤」を勧められた。97年、マナウス工場開設とともに着任。昨年、現地法人の取締役に昇進した。
帰国を決断した一番の理由は、子供の教育だった。「(公用語の)ポルトガル語も分からずに戻ったら子供が苦しむ」と考えた。日本生まれの長女リーナちゃん(10)は帰国後も、日本語を勉強する。「子供には日本のことを学び続けてほしい」。出稼ぎ体験により、ブラジルでの日本文化継承の大切さを実感したという水津さんはそう願う。
90年代以降、30万人以上の日系ブラジル人が出稼ぎで日本に渡った。帰国した元出稼ぎは、日系社会に新しい風を吹き込むと期待されている。セリア・クロサワさんが言う。「日本ではボランティアの人に日本語を教わった。その恩返しに、この地で子供たちに日本語を教えていきたい」【マナウスで庭田学】=おわり
毎日新聞 2008年6月14日 東京夕刊
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